第2話 この子の薬は、私が作る
──この子を、助けてください。
◇◇◇
ギルドからの伝書鳥が届いたのは、朝の調合を始めた直後だった。
エルヴィンの筆跡。丁寧だが、いつもより少し走っている。
『王都下町、東第四区画。八歳の少女。原因不明の慢性高熱、衰弱。三週間以上の経過。宮廷侍医団への受診歴なし(費用の問題)。ギルド長の指示により、セレスティア・ルーヴェン宛に往診依頼を回付します』
ギルド長の指示。──他の薬師に、ではなく。
(……私に、ということは)
それ以上は考えなかった。薬箱を掴んで、立ち上がる。
「マリア、留守をお願い」
「行ってらっしゃいませ」
マリアは何も訊かなかった。薬箱を持って走る私の背中に、ただ一言だけ。
◇◇◇
東第四区画は、王都の中でも古い地区だった。
石畳が所々崩れた路地を抜けて、木造の集合住宅の二階。狭い階段を上がると、扉が開いていた。
母親が立っていた。三十前後。痩せた顔に、眠れていない目の隈。
「薬師の方──?」
「セレスティア・ルーヴェンです。ギルドからの依頼で参りました」
部屋は狭かった。壁際の寝台に、小さな身体が横たわっている。
毛布から出ている手が細い。頬が赤い。呼吸が浅く、速い。
「──お名前は」
「リーゼ、です」
母親の声が震えた。
寝台の脇に膝をついた。額に手を当てる。──熱い。触れただけで分かる。通常の発熱ではない。
問診を始める。いつから。どんな症状が。食事は。水は飲めているか。発疹はないか。
母親が答える声を聞きながら、私は別のことに集中していた。
薬箱から魔力計を取り出す。リーゼの腕の上にかざすと──針が、不規則に揺れた。
(……これは)
普通の感染症なら、魔力計の針は安定した振れ方をする。体内の魔力が病原と戦っている反応だ。でもこの揺れ方は──不規則で、断続的で、まるで体内の魔力が何かに妨害されているように見える。
「お住まいの近くに、魔石を使った設備はありますか。——たとえば、工房の炉とか」
「……隣の建物に、ガラス工房が。半年前に越してきまして」
半年前。リーゼの発症が三週間前。工房の稼働が安定して、魔石の排出量が増えた頃と──重なる。
微量の魔石排気が、子供の未発達な魔力循環を阻害している。薬草学の教本には項目がないが、伯爵邸の薬草室で魔力計の異常を何度も観察した経験がある。薬草に含まれる魔力の流れを読むのと──原理は同じだ。
処方を決めた。
魔力循環を正常化する薬草二種と、解熱のための基剤一種。配合比率は──子供の体格に合わせて、通常の六割。魔力安定工程を加えること。
「薬を作ります。明日の朝、届けに参ります」
「あの──費用は」
母親の声が小さくなった。
「ギルドからの依頼です。費用はギルドが負担します」
本当はギルドの規定にそんな項目はない。でも──クラウスが私に依頼を回した時点で、それは決まっているのだと思った。あの人は、必要な仕事には金を惜しまない。
リーゼの額にもう一度触れた。熱い手。小さな手。
(この子の薬は──私が作る)
◇◇◇
薬局に戻って、夜通しで調合した。
魔力循環の正常化は繊細な工程だ。薬草の配合比率を少しでも間違えれば、逆に魔力を乱す。蒸留の温度管理、冷却の速度、瓶への充填の手順──一つずつ、一つずつ。
マリアが何度かお茶を持ってきてくれた。三回目からは無言で置いて去るようになった。この人は、私が集い中のことを知っている。
深夜を回った頃、最後の工程──魔力安定化。
蒸留器の脇の魔力計を確認する。針が安定して揺れている。薬草の魔力が均質に混ざった証拠。
蓋をして、封蝋を押した。
──できた。
調合台に両手をついて、息を吐く。目の奥が疲労で重い。
ふと、視線が動いた。
調合台の端──私の右手側に、紙が一枚。
エルヴィンの字ではない。ギルドの既定の伝達メモ用紙でもない。無地の紙に、硬くて簡潔な筆跡。
『魔力循環の異常に関する文献。中央書庫・薬草学の棚・第三段・左から七冊目。該当箇所は第四章「小児の魔力阻害症例」。参照番号R-447。──以上』
署名はない。
でも、この筆跡を見間違えるはずがない。余白に一言も添えない。事務的で、素っ気なくて、必要なことだけ。
──いつ、ここに来たのだろう。私が調合している間に? それとも、もっと早くに?
夜通し研究室にいた時と同じだ。暖炉の火が、いつの間にか足されていたように。
(ギルド長としての業務の一環、なのだろう)
そう思った。思うことにした。
でも──メモが置いてある場所は、調合台の私の利き手側だった。取りやすいように。目に入りやすいように。
ギルドの他の薬師への伝達文書は、受付の棚に置かれる。ギルド長が個人の調合台にメモを置くなど──
(……考えすぎだ)
メモを丁寧に畳んで、処方箋の控えと一緒に仕舞った。
◇◇◇
翌朝、薬を届けた。
リーゼは眠っていた。母親に用量と服用方法を伝え、魔石排気の影響について説明した。窓の開閉の頻度、寝台の位置、換気の方法──薬だけでは足りない。環境も変えなければ。
三日後。
もう一度、往診に行った。
階段を上がり、扉を叩くと──扉が、内側から開いた。
「薬師のお姉ちゃん!」
リーゼが立っていた。
頬の赤みが引いている。目に光が戻っている。声が──三日前とは全く違う。高くて、軽くて、子供らしい弾力がある。
「お熱、もうないの!」
後ろから母親が出てきた。目が赤い。──泣いていたのだ。
「昨日の朝から──嘘みたいに。ご飯も食べられるようになって」
「よかった。──もう少し薬を続けてください。あと一週間分、置いていきます」
薬を渡す。母親の手が、私の手を握った。
「ありがとうございます。──本当に」
強く。震えるほど強く。
「……リーゼさんが元気になって、何よりです」
それだけ答えた。それ以上は──声が揺れそうだったから。
帰り道、路地を歩きながらマリアが言った。
「あの方──リーゼちゃんのお母様、近所の方にもう話していらっしゃいましたよ。東通りの薬師さんに助けてもらった、って」
「そう」
「宮廷のお医者様にも診てもらえなかった子を、あの薬師さんが──って」
噂は、下町では夕方には広がる。
──セレスティアさんの薬。セレスティア薬局。私の名前。
◇◇◇
同じ夕方。王都の西、とある料理店の個室。
テーブルを挟んで、二人の男が向かい合っていた。
「──それで、ヴァイス子爵。貴殿の提案というのは」
五十代半ばの男。白髪交じりの髪を撫でつけ、宮廷侍医団の紋章が入った外套を着ている。声は低く、滑らかで、一音一音に権威が乗っている。ディートリッヒ・ホフマン。宮廷侍医団の長。
レナートが便箋を差し出した。
「個人薬局の乱立は、医療の質を担保できません。ギルドの承認だけでは不十分です。──宮廷侍医団の認可を義務づける法整備を、ご提案申し上げたく」
ディートリッヒが便箋を受け取った。目を通す。表情は変わらない。
「……面白い提案だ」
便箋を置いた。
「だが、なぜ貴殿がこの提案を?」
「医療を守りたいのです」
レナートの声は滑らかだった。社交界で磨かれた、完璧な声。──けれどディートリッヒは、声の裏側を聴く訓練を受けた男だった。
「ふむ。──元妻が開業した薬局を潰したい、というわけではなく?」
一瞬だけ、レナートの表情が固まった。
「……医療の質の問題です」
「もちろん。医療の質の問題だ」
ディートリッヒが微笑んだ。薄い、計算された微笑み。
「──ギルドの薬師風情が、宮廷侍医の領分を侵す。それは確かに、問題ではあるな」
二人の利害が、静かに重なった。




