第1話 私の名前の看板
看板の木の匂いが、まだ新しい。──私の名前の、匂いだ。
◇◇◇
開業して二週間が経った。
セレスティア薬局。王都の東通り、路地の角に借りた小さな建物。一階が調剤室と診察室、二階が住居。薬草を干すのにちょうどいい窓が南向きにあって、朝の光がよく入る。
伯爵邸の薬草室の三分の一ほどの広さしかない。でも──ここは、私の名前で建てた場所だ。
「セレスティア様、薬草の仕分けが終わりました」
マリアが調合台を拭きながら言う。この人は相変わらず、誰より早く仕事を片付ける。伯爵邸でも、ここでも。
「ありがとう。午前の分の配合を始めるわ」
棚から薬草を取り出す。瓶のラベルは全て私の筆跡。処方箋も私の名前。──当たり前のことが、まだ少しだけ、慣れない。
(……本当に、やっていけるのだろうか)
不安は消えない。ギルドの研究室ではクラウスがいた。仲間がいた。ここには、マリアと私だけだ。患者が来なければ、薬は作っても届かない。
午前中、二人の患者が来た。風邪薬を求める老人と、子供の湿疹を心配する母親。どちらも既存の処方で対応できる。
午後──少し、変わった。
◇◇◇
「あの、こちらがセレスティア薬局でしょうか」
扉を開けたのは、三十代半ばの女性だった。仕立ての良い外套。東通りの商人の妻だろう。
「はい。どうなさいましたか」
「頭痛が──もう、半年ほど。宮廷侍医に診ていただいたこともあるのですが、処方された薬が効かなくて」
問診を始める。痛みの場所、頻度、時間帯、食事、睡眠。質問しながら、気づいた。
「失礼ですが、寝室の灯りに魔石灯をお使いですか」
「ええ。主人が昨年、新しいものに替えまして」
──そこだ。
新型の魔石灯は光が強すぎる。長時間浴びると、目の奥の神経に負担がかかる。特に就寝前の使用は──薬草学の教本には載っていないが、私は伯爵邸で似た症状を何度か見ていた。薬草室の魔力計が微かに影響を受けるのと、同じ原理だ。
「夜の灯りを蝋燭に戻してください。それと──」
薬草を三種、選んだ。神経の緊張を緩和する配合。既存の解熱鎮痛薬とは全く異なるアプローチ。
「これを朝晩、白湯で。一週間ほどで変化があるはずです」
薬を包みながら、手が一瞬止まる。
(……五年前なら、この薬もレナートの名前で出荷されていた)
考えを振り払った。包みの上に処方箋を添える。名前の欄──セレスティア・ルーヴェン。
「ありがとうございます、セレスティアさん」
客が初めて、私を名前で呼んだ。
──ああ。
伯爵夫人でも、ヴァイスの妻でもなく。ただの薬師の名前として。
扉が閉まった後、マリアが棚を整理しながら、ぽつりと言った。
「お客様が帰り際に、笑っておいででした。──久しぶりに希望が持てた、と」
「そう」
それだけ答えた。でも──看板を見上げる気持ちが、朝とは少し違っていた。
◇◇◇
夕方。
薬局の扉が開いた。足音で分かった。重くて、規則正しくて、一歩一歩が正確な足音。
「……クラウス」
ギルド長の外套。手には書類の束。
「巡回だ。新規開業の薬局は、開業後一ヶ月間はギルド長が定期確認を行う」
事務的な口調。調剤室を一巡し、薬草の保管状態を確認し、処方箋台を一瞥する。
「問題ない」
「──それだけですか」
「それだけだ」
書類を一枚、差し出された。開業届の最終承認書。ギルド長の署名と公印が押してある。日付は──
「……これ、申請の翌日の日付ですね」
「当然だ」
(……この承認、通常は三日かかるとエルヴィンが言っていたような)
いや、聞き間違いだろう。ギルド長が処理すれば早いのは道理だ。
クラウスが背を向けた。扉に手をかけて──立ち止まった。
「看板」
「はい?」
「……右側の金具が緩い。風が強い日に外れる」
それだけ言って、出ていった。
扉の向こうに足音が遠ざかる。規則正しく、正確に。
──看板の金具。なぜ気づいたのだろう。巡回で見たのか。それとも──
考えるのをやめた。今は薬のことだけ考えていればいい。
マリアが二階の窓から声をかけた。
「セレスティア様、夕食の支度ができましたよ」
「ええ、今行くわ」
調合台を拭いて、灯りを落とす。窓辺の薬草の鉢植え──クラウスが花束に忍ばせた、十年前の薬草。冬の芽はまだ固い。春はまだ先だ。
看板を見上げた。
「セレスティア薬局」
右側の金具が、確かに少しだけ傾いている。
◇◇◇
同じ頃。王都の西、ヴァイス子爵邸。
レナートは書斎で便箋を広げていた。
ペンを何度か走らせては止め、走らせては止める。封筒の宛名だけは迷いなく書いた。
『宮廷侍医団長 ディートリッヒ・ホフマン殿』
インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。領地からの陳情書が三通、未開封のまま机の端に積まれている。
便箋に目を戻した。書き出しの一文──
『薬師ギルドの規制に関する件につき、ご相談申し上げたく──』
ペンが走る音だけが、書斎を満たしていた。




