第1話 それは、私の薬だった
──ヴァイス伯爵の薬学の才能は素晴らしいわ。
夫人がそう言った。扇の向こうで唇が弧を描き、隣の令嬢が頷く。
それは、私の薬だった。
◇◇◇
六時間前。
ヴァイス伯爵邸の薬草室は、煮詰めた薬草の甘い匂いで満ちていた。蒸留器の脇に置いた魔力計の針が微かに揺れている。薬草に含まれる魔力が安定した証拠だ。
三つの領地に送る疫病予防薬──処方箋番号でいえば、二三七号から二三九号。配合の比率は領地ごとの水質と標高に合わせて微調整してある。標高の高いオルテ領は乾燥しやすいから、粘膜保護の薬草を一割増し。河川沿いのヴェーゲ領は水媒介の病が多いから、浄化作用のある根菜を基剤に使う。今年は例年より早く流行病の兆候が出ていて、予防薬の需要が増しそうだった。
こんなことは、誰に教わったわけでもない。五年間、毎日この薬草室に立って覚えたことだ。
最後の一瓶に封蝋を押した。三領地分、合計四十二瓶。今月もこれで安心──
「奥方様」
侍女のマリアが扉を開けた。手には、絹の封筒。
「旦那様がお預かりになっていたお手紙です。今夜の王都の夜会へのご招待とのことで」
夜会。
……久しぶりだった。もう何年も、社交の場には出ていない。旦那様が「君は家にいてくれればいい」と仰ったから。
(……いいえ。これは父上からのお誘いだった)
封筒の差出人を確かめる。ルーヴェン子爵家の紋章。父が「たまには顔を見せなさい」と書き添えている。旦那様は「行ってこい」とだけ言った。
◇◇◇
夜会は、光と音と人の匂いで溢れていた。
私にはどれも遠い。五年間ずっと薬草室にいた身には、シャンデリアの眩しさが少し痛い。
壁際に立って、グラスを持つふりをした。中身には唇をつけていない。社交界のルールをいくつ忘れたか数えるのも億劫だった。
それで──聞こえたのだ。
「ヴァイス伯爵の疫病予防薬、今年も素晴らしい出来でしたわよ」
声のした方を見る。侯爵夫人と、その取り巻きの令嬢たち。扇の向こうで、楽しげに笑っている。
「あの方の薬学の才能は本物ですわね。若くして宮廷の納入契約を任されるだけのことはある」
「奥方は確か……何もなさらない方でしたわね。夜会にもいらっしゃらないし」
何も、なさらない方。
……何も?
四十二瓶の封蝋が、まだ指先に残っている。三つの領地の水質と標高を全て暗記しているのは、あの屋敷で私だけだ。
(あの薬は──私が作った)
笑い声が遠くなる。シャンデリアの光が滲んだが、涙ではなかった。
ただ、理解した。
「楽しんでいるか」
振り向くと、旦那様──レナートが立っていた。柔和な笑顔。社交界の人間が「若き知性派」と呼ぶ、あの完璧な微笑み。その隣に、若い女性が一人。男爵令嬢のリゼット・マルーアだと紹介されたが、視線の交わし方が学術助手のそれではなかった。
「ええ」
私は笑った。笑えた。五年間、薬草室で学んだのは薬の調合だけではない。感情の蓋を閉める技術も、ずいぶん上達した。
「とても勉強になりました」
レナートの表情が、一瞬だけ揺れた。何かを計りかねるように目が細くなる。
──この人は、私が何を知ったか分からない。でも「勉強になった」という言葉の温度が、いつもと違うことには気づいた。
「そうか。……楽しめたなら良かった」
レナートは笑顔を戻した。けれど私の背中に、その視線が少しだけ長く残ったのを、感じていた。
◇◇◇
深夜。
馬車で伯爵邸に戻った私は、着替えもせず書斎に入った。
レナートはまだ夜会から戻っていない。リゼットと一緒だろう。五年間、夜に旦那様が帰らないことなど珍しくもなかった。寝室が別なのだから、帰宅しようがしまいが、私には関係のないことだった。
──関係のないこと、だったはずだ。
書斎の鍵は開いていた。旦那様は私を警戒していない。薬のことしか頭にない地味な妻が、書棚を漁るとは思わないのだろう。
宮廷への納入記録を引き出す。
一年目。二年目。三年目。四年目。五年目。
全ての処方箋に記されていた名前──「レナート・ヴァイス」。
私の配合。私の筆跡。私の薬。
全部、この人の名前になっていた。
指先が冷たい。怒りではない、と思う。怒りならもっと熱いはずだ。これは──
(ああ、そうか。五年間、ずっと透明だったんだ)
透明な妻。何もしない妻。夫の薬を作り、夫の名義で宮廷に納め、夫の評判を支え続けた、透明な存在。
帳簿を棚に戻した。一冊も持ち出さない。今は、まだ。
自室に戻り、本棚から一冊の書物を抜いた。
婚姻法。
目次を指でたどる。離縁に関する条項、不貞の定義、財産分与──そして。
「白い結婚」。
婚姻の実態が伴わない場合の無効申請に関する条項。寝室が五年間別であったこと。夫婦としての関係が一度も成立しなかったこと。
──一つ一つの要件が、私たちの結婚そのものだった。
栞を挟んだ。
薬草室で覚えた手順と同じだ。まず材料を揃えて、正しい配合を確かめて、それから──
ふと、古い記憶がよぎった。十年前の資格試験の日。試験官席に座っていた、銀灰色の髪の男の横顔。あの方は、私の薬をどう評価してくださっただろう。
名前は──思い出せなかった。
机の上に婚姻法の書物を開いたまま、窓の外を見る。月が出ていた。
明日からは、調合の手順が少し変わる。
薬ではなく、別のものを作る。




