#8
>>Iris
『アイリス』
『何かあった?』
『ごめん』
『どうしたの?急に』
『無茶をしないといけない』
『えっ? ちょっと、どういう事っ!?』
私の目の前でトワが急に酸素供給フィールドを緊急展開し、コスモスーツを脱ぎ始めた。
『嬢ちゃん!?』
『トワっ!?何してるの!?』
その場にいた全員が突然のトワの行動に驚愕し、一瞬動きが止まった。その間にトワはまるで赤子を抱くかのようにC3を優しく抱きしめ、そして歌い始めた。……そうか、そういうことか。
『でっかい嬢ちゃん!あんな急激なフィールド展開だと、酸素濃度が!』
『大丈夫、あの子を信じてあげて。ああするしかないって、あの子が判断したんだから!』
トワが危険な状態にあることは誰よりも私が理解している。フィールドを急激に広げたことで内部の気圧と酸素濃度は急激に低下しているはずだ。通常なら酸素濃度を安定させるために触媒が空気を補ってくれるはずだけど元々劣化していたトワの触媒はもう限界に近いだろう。通信チャンネル越しに絶え間なく鳴る警告音が、その事実を冷酷に告げている。
しかも、その警告音は『1つ』だけ。片方の酸素供給装置は既に停止しており、もう一方もいつ機能を失ってもおかしくない。トワが使える酸素はもともと2時間分だと言っていたけど、緊急モードで展開したフィールドの体積を考えると……触媒全てを使い切っても内部の酸素濃度は到底正常には戻らない。むしろ、酸素濃度は3割以上も薄まる計算になる。フィールド内のトワは既に中度の酸欠状態に近づいているかもしれない。
そんな状況下でトワはなおもC3の調律を続けている。
私の全ての酸素を今すぐにでもトワに与えたい。だけど、今近づいて助けようとしたら彼女の集中を途切れさせてしまう。決死の覚悟で挑んでいるあの子の決意を無にしてしまう。それはトワが命をかけて守ろうとしているものすべてを裏切ることになる。
焦る心を必死に押さえ込み、通信機から流れてくるトワの歌声に耳を澄ます。その歌声が響いている限り私の大切な妹はまだ大丈夫だ。そう自分にそう言い聞かせる。今の私に出来ることはいつでもトワを救助できるように、少しずつ酸素供給フィールドを拡張し、空気を満たしてゆくことだけだ。
やがてトワが抱くC3の放つ光は、落ち着いた蒼へ、さらに白へと変化した。再調律は成功したようだ。EVAに出ている私達、そしておそらく船内で見守っているであろう船長さんやジョウさんも。優しくも力強いその白い輝きに目を奪われた。
『……らくだは……ふた……び……あゆみ……はじ……る……』
かすれたトワの声が耳に入った瞬間、私はハッとしてC3の輝きから目を引き剥がした。気づけばトワの歌は途切れていて、彼女はぐったりとC3に寄りかかりながら薄れゆく意識の中で何かを呟き続けていた。その力の抜けた姿に、私は一瞬で現実に引き戻された。
『トワ!』
胸が凍りつくような感覚を振り払い、私は緊急事態モードを展開、スラスターを一気に吹かし、妹の元へと跳んだ。ぐったりとしたトワの体をC3から引き剥がし、しっかりと抱きかかえると自分のフィールド内に収めた。
彼女のフィールドは酸素濃度が限界まで低下している。私は躊躇なく彼女のフィールドを解除し、自分のフィールドで彼女を包み込んだ。応急措置だが、これで私の側の空気が彼女の酸素不足を少しは補えるはずだ。だが、トワの目はほとんど閉じかかっている。意識はわずかに残っているようだが、トワの呼吸はとても浅い。
『あとはお任せします!』
『わかった! 嬢ちゃんを早く船内へ!』
副長の返事を待たず、私はすぐにスラスターを最大まで吹かしてエアロックに向かった。静かに眠ったトワを感じながら、私は必死に進む。早く、早く!
エアロックを抜けた先で、ジョウさんが手持ち式の酸素吸入装置を持って待機していた。意識を失ったトワに素早くマスクを当て、酸素を供給する。しばらくの間、ジョウさんも私も息を詰めて見守るしかなかった。
「トワちゃん……」
ジョウさんの眉間には深いしわが刻まれている。1分、2分……酸素がトワの体に送り込まれているのに、彼女の目は閉じたままで反応がない。その小さな体がただ静かに宙に浮かんでいるのを見ていると、胸の奥に焦りと不安がじわじわと広がっていく。
3分が経過した頃、ようやくトワの指先がかすかに動いた。
「トワ……?」
私がそっと呼びかけるとトワのまぶたがゆっくりと震え、少しずつ開いていく。焦点が合わない目でぼんやりとこちらを見て、ようやく声が聞こえた。
「ア、イ……リス……?」
「おはよう、トワ。ずいぶんと……お寝坊さん……だ、ね」
その言葉がやっとのことで出てきた。喉が詰まって、涙と震えを抑えるのが精一杯だった。
5分が経ち、彼女はようやくぼんやりと意識を取り戻し、ふわりとした表情でこちらを見つめ返してくれた。トワが無事に戻ってきた。目から涙が溢れ出しているのがわかるけれど、気にしないことにした。まだぼんやりしているトワには私の泣き顔なんて見えていないだろうから。
傍らでジョウさんがほっとした顔で息を吐いたのを横目に、私はただトワをぎゅっと抱きしめた。
しばらくして、C3の再取り付け作業を終えた副長とボースンさんが船内に戻ってきた。副長は早くレゾナンスドライブの起動試験を行いたい様子だったが、ボースンさんがそれを諫めてくれた。トワの体調を気遣ってくれるボースンさん。でも一方で、トワの再調律が完璧であると信じて、すぐにでも試験をしたいという副長の信頼も、うれしかった。
どちらに感謝するのが正しいのだろう?ギルドの管理官として、それに姉として。トワの頭を抱きかかえ、優しく撫でながら私がそんなことにぼんやりと思い巡らせていると、トワに声を掛けられた。
「アイリス」
「うん?」
「ごめん」
「無事に帰ってきてくれたから、許してあげる」
「でも、泣いてた」
「……っ!?」
「だから、ごめんね」
「……なら、もう無茶はしないでね?」
「善処する」
「そこは約束してよ……」
どうやら泣いていたところをしっかり見られていたらしい。妹の前で涙を流すのは姉失格だけど、今回は仕方ない。うん、仕方ないんだ。
「嬢ちゃん!もう大丈夫か?」
「心配掛けた。お腹すいたこと以外は、もう大丈夫」
「そ、そうか……スラリーしか無いが、後でたっぷり食べてくれ」
「アイリス、ボースンがいじめる」
「いや、いじめてはないよね?アドバーグさん、トワももう大丈夫そうなので試験稼働しましょう」
「おう、ちっこい嬢ちゃんに何かあったら直ぐ声を掛けてくれよ?」
副長はそう言うとブリッジへ向かい、しばらく後にレゾナンスドライブが起動したことが感じられた。出航したときは体に響くような重い共鳴波を感じたけど、今のこれは……とても心地よく、軽やかで癒やしに満ちた音楽のように思える。
「…ねぇ、トワ?どんな再調律したの?」
「んー。……女神の祝福?」
「何、それ」
「年寄りラクダに祝福を与える。そう歌ったら、こうなった」
「なんというか、いつも通り『トワの歌』って感じだね……」
「褒められた」
「うん、今のは褒め言葉だね」
普通のシンガーは、調律の品質を保つために決まった歌詞と音程を持つ定型の歌をきっちり歌うものだ。歌う歌こそシンガーごとに異なるが、調律のたびに同じ歌を正確に再現することで安定した調律が行える、というのはシンガーの常識でもある。
でも、トワの調律は違う。彼女は状況や目的に応じて、まるで自分の想いを歌に乗せるように、その場で新たな歌を即興曲として紡ぎ出す。トワのその自由な歌い方こそが、彼女の持つ再調律や混合の秘密だと思って、私も真似てみたけれど……当然のようにCランクの私では定型外の歌では調律すら叶わなかった。
だから、これはトワだけに許された特別な歌。彼女の持つ、誰にも真似できない力なのだろう。幼いころにそれを悟ったからこそ、私はシンガーの道を早々に諦めて管理官を目指したんだ。
「嬢ちゃん達!いや、シンガー殿、管理官殿!ゾナンスドライブは起動できたが……異常は感じられないだろうか?」
ブリッジの方から船長が私達のところへやってきた。そこはかとなく不安げな表情なのは、彼らにはC3の共鳴波が感じられないからだろう。もし感じられるなら、今の安定した音に不安を抱くはずが無いのだから。
「……ちょっと異常なところはある、かな?」
「なっ!?ちっこい嬢ちゃんが体張ってくれたってのに……失敗か……」
「くそっ……でも、悔いは無い。そうだろ、オットー」
「おうとも。嬢ちゃん達がここまでしてくれたんだ、悔いはねぇさ」
「僕もです……みなさんと一緒に働けて良かった」
「ジョウ……お前はまだ先があったのに、すまねぇな……」
何やら男泣きしながら盛り上がっている船長さん達の様子に、掛けるタイミングが遅れた。
「あの、話は最後まで聞いてね?異常というのは、出発時に重々しかった共鳴波が、びっくりするぐらい軽やかになってるってことだよ」
「「「「えっ?」」」」
息ぴったりに声が揃った四人。同じ職場で長く働くと気が合うんだろうか。
「だからね?トワが頑張ったから、この船は修理されたんじゃなくて、前よりもずっと良くなってると思うよ」
「うん、がんばった。白くて通常の3倍」
「いや、亜光速の3倍になったら光速超えるからね?でも少なくとも状態が改善してるのは共鳴波だけでも判るよ」
「……アドバーグ、ボースン、ドライブの出力上げて全速航行だっ」
「お、おう」
船長の指示を受け、副長がブリッジに、ボースンさんが機関室へ駆け込む。待つまもなく、共鳴波の響き方に変化があった。
「……すごいね、これ」
「C3が本気出すとすごい」
「いや、前にも言ったけど。すごいのはトワだよ?」
船が、歌っている。先ほどまでの苦悩に満ちた、泣き声のような共鳴波ではなく。今この瞬間、船体全体を震わせ響き渡る振動は、老いた駱駝であったこの船が新たな力を手にして大宇宙へと再び踏み出す喜びそのものだ。船体から静かに歓喜の歌声が聞こえるように感じる。まるでこの船が、全身で宇宙を征く歓びを奏でているかのように。
私とトワが二人、船の奏でる喜びの歌に耳を澄ましていると、副長とボースンさんが戻ってきた。最初に口を開いた副長の顔には、驚き、呆れ、そして抑えきれない喜びが入り混じっていた。
「船の航行速度が3倍になるような劇的な変化じゃねぇが、加速時の反応速度と制御の精度が飛躍的に改善してやがる。以前は推進力の調整に手こずってたんだが、今は指示を出してからの反応がほとんど瞬時だ。こんな精密で滑らかな操縦系なんて、新造船でも見たことねぇぞ」
ベテランである彼は状況改善の異常さを知りながらも、性能向上自体には抗いがたい満足を感じているようで頬を引きつらせつつも、どこか嬉しそうだ。
「これなら操船ミスの余地もねぇ。とんでもねぇな、嬢ちゃん……」
思わずこぼれるその言葉には、これまで幾度も船を操ってきた彼が初めて味わう「未知の感覚」に対する喜びなのだろうか。一方、ボースンさんの声にはどちらかというか喜びよりも疑念がこもっていた。
「高負荷の加速時でもエネルギー消費が驚くほど抑えられてる。以前なら推力を上げるたびにフォトンの消費量が跳ね上がってたんだが、推力と消費の計算が全く合わねぇレベルで効率が良くなってやがる。まるで魔法としかいいようがないぞ、こいつは」
船の性能が向上していることは明らかなのだが、彼の表情にはむしろ戸惑いが色濃く現れている。技師である彼の役回りは冷徹な数字と理論で物事を把握することだ。いつもなら、性能向上は計算や合理性の範囲で語れるものであって、「魔法」などという言葉は彼ら技術者の口から出るものではない。なので、実際の数値を見ても今回の変化には到底納得がいかないのだろう。
眉間にしわを寄せながら、まるで原因不明の不具合を疑うように推進系の数値をにらみつけている。
「光速を超えられなかった。残念」
「いや、無理だからね?光速超える技術なんて無いからね?」
そんな二人の様子を尻目に、トワは少し残念そうだ。私はそう言ったものの、内心ではもしかしたらトワならいずれ超光速航行を実現してしまうかも知れないとも思ったりもした。
「そういえばちっこい嬢ちゃん、体に異常はないか?記憶が途切れたり、ふらついたりすることは無いか?」
「特にない」
「そうか……後遺症は必ず残るって訳でもないが、しばらくは経過観察をしないとな」
ボースンさんの言葉から察するに、トワの酸欠状態はそれなりに危険な状況だったのだろう。おそらく、後遺症が残るレベルの。
幸いな事にトワに異常は無さそうだけど、少しでも可能性があるなら気をつけておいてあげないと。私ならこの子のちょっとした変化にでも気付く事が出来るし、それにいつも一緒に行動しているからね。経過観察を行う役目には最適だろう。




