村上春樹における弱者切り捨ての構造 ―超越性の回避をめぐってー
村上春樹に関しては以前から批判的な文章をいくつか書いているが、今回はその構造について考えていく。この文章の主眼は、村上春樹批判ではなく、村上春樹への批判を通して文学の本質を考えるところにある。
さて、村上春樹の小説の構造的な問題とは何か。先に答えから書いておこう。結論だけ述べると以下のようになる。
「村上春樹の小説は超越的なもの(宗教的な領域)との闘いを回避している為に、弱者切り捨ての論理に陥っている」
これが村上春樹の小説の構造的な問題となる。以下では、これについて述べていく。
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まず超越的なもの(宗教的な領域)について考えてみよう。
これは、評論家の吉本隆明が述べていた事でもある。吉本は村上春樹について「村上春樹は古典になりますか?」と質問されて、無理だと即答としている。その根拠というのが、村上春樹は宗教と思想的に闘っていないので、古典になるのは無理だ、というものだった。
私は吉本の解答は正しいと思っている。もっとも、現代の人は「宗教」というと、創価学会とか、統一教会とか、キリスト教とか、そういう実際的な宗教活動を思い浮かべるだろう。なので、ここも詳しくみる必要がある。
村上春樹の小説というのはそもそもどういう構造になっているだろう。私は「多崎つくる」で村上春樹を見限ったので最近の小説を読んでいないのだが、村上春樹がそこから進歩するとも考えられないので、私は自分の知っている範囲で述べていく事にする。
村上の小説は、村上なりの理想の主人公「僕」の一人称がメインで、この一人称が様々な出来事に出会い、最後には平和というか、元の日常に戻ってくる、という話になっている。「多崎つくる」は形式は三人称だが、読むと一人称とほとんど変わらない。
問題はこの主人公の理想化にすでに現れている。村上春樹の小説で考えられない事は、主人公が死ぬ事である。多くの文豪の作品では主人公は死ぬのだが、村上春樹の小説の主人公は死にそうにない。これは村上がリアリズムを欠いていると関係がある。(ここで言う主人公の死とは悲劇的な、突き放した視点で死を描くという意味だ)
村上春樹が目指しているのは、現代の人々の願望と同じで、主体が救済される事にある。それも宗教的な、超越的な在り方で救済されるのではなく、世俗的な形で救済されるのを目指している。
村上春樹の小説はそうした救済を達成するため、世俗的なものを超越的なものに引き上げ、超越的なものを世俗的なものに引き下ろすという作用を持っている。これは村上なりの理想と現実とのバランスの取り方である。
これは時代的に言えば、高度経済成長期で資本主義の甘い汁を吸って成長していく日本社会が基盤になっていた。興隆する日本社会が、村上に対してそのような夢想を可能にしたのだ。
しかし、本当に文学とはそういうものだろうか。ここで、村上が超越的なもの、宗教を避けた、という点について考えてみたい。
私の言う超越的なもの(宗教)とは、現実の経験を越えたものである。だから既存の宗教組織とはほとんど関係ない。
そして面白い事に、超越的なものを作品の中に導入する事、あるいは導入しなくても、超越的なものを作品の枠組みとして考える事は、その作品を宗教的な、現実から離れた雰囲気のものとはしない。むしろ、宗教という超越的な領域を作家が真剣に考えるからこそ、作家は作品内部で徹底したリアリズムが可能となるのである。
私はセルバンテス「ドン・キホーテ」とドストエフスキー「罪と罰」を思い浮かべる。あるいは、トルストイの「イワン・イリイチの死」でもいい。
三つの作品全て、興ざめするほど徹底したリアリズムの作品である。三つの傑作は全て、現実を"地獄"として描いている。
だがその反対に、作品のラストでは、宗教的な救いが示される。しかしこの宗教的な救いも、それが現実なのかどうか曖昧に描かれていたり、作家がそれを本気で信じていたか、疑われるレベルである。
私は作家が、宗教というものを真剣に考えているからこそ、作品内部に強烈なリアリズムが導入できるという風に考えている。
というのは、今上にあげた文豪もやはり人の子であるから、村上春樹と同様に、何らかの形での"救済"を求めずにはいられないのである。
ただ、これらの文豪はみな、現実=地獄を認識した人達だ。現実は地獄であると認識しない、村上春樹とか川上弘美のような作家はむしろ、現実をファンタジー化して書く。それは言ってみれば、ディズニーランドを現実として、リアルとして描くようなものだ。
現実を地獄として認識した文豪らはそのような人生経験をしたのである。何故現実は地獄なのか、と言われれば、ここでは、それは誰しもがいずれもたどり着かなければならない真実だ、とだけ答えておこう。
現実は地獄である、と認識した文豪もまた、世界のどこかに救済を求めざるを得ない。それは村上春樹が主体を救済に導こうとするのと同じである。
しかし文豪は村上よりはるかに厳しい現実認識を持っている。エンタメ的に現実を理想化するのは不可能なほど、彼らは真実という毒をあおっている。それ故に、彼らの望む救済は、現実の外に押し出される。
救済は経験的な現実の外に押し出され、作品のラストにほんの一瞬現れるにとどまる。それは作家の祈りなのだが、作品内ではリアリズムを通さなければならない為に、その救済は形式的なもの(「ドン・キホーテ」)や曖昧なもの(「罪と罰」)、主体にほんの一瞬現れる想念(「イワン・イリイチの死」)として現れるに過ぎない。
こうした作品においては、人間が求める救済は、地獄としての現実内部に置く事は不可能なので不可避的な宗教的な領域に押し出されている。かといって作家は理性を捨て去るわけにはいかないので、救済はほんの最後の付け足しとして現れるだけだ。
何故、現実の内部に救済を置くのが不可能なのか、もう少し考えてみよう。セルバンテスとドストエフスキーの二人は両者の過酷な経験、両者の牢獄に入った経験が多く響いている。トルストイの場合は人間には「死」があるという単純な認識、そしてまたその認識がトルストイの加齢によってはっきりしてきた事に根拠がある。
現実とは地獄であり、その内部では人は決して救済されない。理性的に世界を見渡し、自己を顧みれば、人は老病死といった事柄から逃れられない。理性はその外側になにものも認めない。
あるいは、これは次に述べる「弱者切り捨て」の構造と関連しているが、たとえ、自分一人が幸福になって、救済されたとしても、この世界にたった一人でも、何の罪もないのに不幸な人生、不幸な死、耐えられない苦痛を受けて死んだ人間がいるとしたら、そのたった一つの事実によって、現実内での救済は破壊されてしまう。
なぜなら、偉大な文学作品が目指しているのは個人の幸福ではなく、あたかも世界のあらゆる物理現象に応用可能な科学法則のように、全人間に当てはまる真実であらねばならないからだ。
科学法則が例外を許さないのと同様に、現実内部で罪なく不幸な人生を送り死んだ人間が一人でもいる限り、その現実はそのような人間を生む世界なのだ。人を救済する事ができない地獄としての世界なのだ。
文学における真実を求める作用がある限り、この世界の地獄性から目を逸らす事はできない。個人として目を逸らすのは結構である。物乞いに金をめぐむのもめぐまないのも、個人の自由だろう。ただ作家としては、文学を志す作家としては、世界の端にたった一つの地獄が存在しているだけでも、それを自分事として捉えなければならない。
この事が、偉大な作家が悲観主義に陥りがちであり、凡庸な作家が楽観主義になる原因であろう。この世界が地獄であるという事は、そもそも死が存在して、それを理性的に眺めるなら死の先には何もないという単純な事実からも論証できるだろう。
ただ、この事実に目を瞑ったとしても、この世界に罪なく不幸のうちに死んでいった人間が一人でもいる限り、本物の作家はその人物について思いを巡らせなければならない。この共感の中に文学の本質的能力はあると言ってもいいだろう。
こうした人物が一人でもいると、(もしこの人物が自分だったら)と、共感能力の高い人間は考えざるを得ない。そうなると、現実内部でその人物を救済できるいかなる領域も見つける事はできない。むしろこの世界はそのような人物を生む残酷な世界だった事が証明されてしまう。
例えば、死後に復活しないキリストを考えてみるならば、一体キリストという存在を我々はどう考えればいいだろうか。キリストの復活を望むとは信仰を持つ事に他ならないが、これはキリスト教徒の正しさを論証するものではないと私は考えている。
そうではなく、そこでは、無垢な罪で死んだ者をいかにして救済すべきかという巨大な問題が、キリストという一人の"人間"の物語として提示されている。私はそう考えたい。
こうした事を思い合わせるなら、村上春樹が現実を地獄と認識していないのは明瞭だろう。村上春樹の小説ではなんとなくファンタジックな雰囲気の中で進行していくが、それは彼が他者を切り捨てる認識があるから可能な小説構成である。次にはこれについて見ていく。
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村上春樹が超越的なもの(宗教)との闘いを避けた、というのは今まで述べてきたような意味においてである。
ただこれを裏側からみると、村上春樹は宗教との真剣な闘いを回避したからこそ、宗教的な要素が作品内に意図せず混入したと読む事もできる。作品がリアリズムを完遂できず、ファンタジックな雰囲気があるという事は、現実に救済的な、理想的な要素を混ぜ込むという村上の作家的手腕から来ている。
これによって村上春樹の作品は、意図せずして、超越的な救済を求める宗教的な要素を作品の中に取り込む事となった。
こうした問題からの帰結として起こるのが「弱者切り捨て」の要素だ。
村上春樹の小説には弱者切り捨ての要素が入っている。どこかで誰かが無惨に殺されていても「まあ他人事だしまあいいや」という、悲惨なニュースを見る現代の傍観者的な視点が強い。
これは「多崎つくる」という小説ではっきり現れている。作中では、レイプされ殺される女性が出てくるのだが、この女性に関しては何の解決もされず(まあいいや)という感じで放り出されて、主人公のつくる君は(自分は幸福になろう)と決意して、幸福を目指すところで作品は終わる。
村上春樹の小説における弱者切り捨て問題は、超越性との対決回避との問題と直結している。これは文学の本質と関わる重要な事なので書いておく必要がある。
そもそも私が文学の本質をどう考えているかと言うと、それは「人間を描く」という事につきる。
その視点から見る時、「弱者切り捨て」がどうして問題かと言うと、人間は強者であると共に弱者であるという単純な真実があるからだ。
強者であったオイディプス王は自らの罪を知り弱者となる。自らを強者と思い込み、「しらみ」を踏み潰す覚悟で人を殺したラスコーリニコフは、殺人の罪障感により自らが「しらみ」の一匹でしかないと知る。
これらは全て優れた、偉大な表現だが、人間は強者と思い上がる事が可能な弱者である事を示している。強者と弱者の両方の振れ幅を描く事によって「人間を描く」事が可能となる。
村上春樹は、主人公を理想化しており、村上本人も主人公に自己を託しながら救済されようとするので、必然的にその救済から漏れる弱者は切り捨てられる事となる。
もっとも村上春樹は脳天気な作家ではなく、過去の文豪の作品はよく読んでいる。これに関しては他の作家よりも一日の長がある。なので、村上にとってどうでもいい切り捨て対象の弱者でも、作品内部に盛り込む事は忘れない。
川上弘美の「センセイの鞄」という小説を読んでその能天気っぷりに私は唖然としたのだが、村上は、罪とか悪を描かなければ文豪にはなれない、という事はわかっているので、そうした存在を作品に盛り込みはする。
だが、それ以上に罪とか悪とかの問題と思想的に対決する力はないので、適当にそうした存在は打ち捨てられて、最後には主人公が救済されるというようなラストになる。
この構造というのは、「カラマーゾフの兄弟」でイワンが言うセリフと真逆なので、取り上げておきたい。イワンは次のような事を言う。
「自分は小さな幼子が犠牲にして作られた天国には入りたくない。そのような天国への切符があったとしても自分はそれを返却する」
これは、村上春樹がどこかの誰かが犠牲にされても、自分(達)だけがとっとと天国への階段を駆け上がっていくのと対象的である。ここには文豪がどういう思想的問題と取り組んだのかという事と、文豪になろうとしている作家の抱えている問題との、大きな違いがある。
私が最初に出した結論に戻るなら、そもそも「弱者切り捨ての問題」を真剣に考えると、どうしても「宗教」の問題を真剣に考えないといけない、という事になる。
というのは、歴史の闇の中で葬られた無垢な被害者、切り捨てられて死んだ弱者、不幸な人々、そうした人々をどのように救済できるかと言うと、それは現実においては不可能だからだ。
もちろん、慈善事業とか、医者になって病気を治すとか、色々な事は可能だろうが、理論的にはイワンの言うように「たった一人の無垢な犠牲」が現れただけでも、もう切り捨てられた弱者の問題は解決不能となる。というのは、(もしもあなたがそのたった一人だったらどうするか、どこに救済があるのか)という実存的な問題が発生してしまうからだ。
この問題は理論的には解決不可能である。イワンは、この解決不可能な問題を背負っていた為に発狂したとも言える。だが、イワンは解決不可能な問題に突き当たっているという理由によって、裏側から神に、宗教に近接している。またそれ故に、宗教者であるアリョーシャとの対峙が作品内部で決定的に重要になってくるのである。
たった一人の無垢な犠牲が現れただけでも「この世界はそうした犠牲を生む世界」として認識される。一人の無垢な犠牲を生む世界はその先、無数の無垢な犠牲を生むだろう。
18世紀にリスボンの大地震というものがあった。これによって敬虔なカトリック国家のポルトガルの人々が数万人亡くなった。当時は、この事実から神への信仰が薄れたそうだ。つまり、敬虔な信仰者を何の理由もなく殺すようなそんな神というのは一体どういう存在なのか、そうした疑問が生じた。
地震大国に住んでいる我々からすればあほらしい話とも聞こえるが、しかし人々は本気でそのように信じていたのだった。だが、そうした迷妄から逃れているはずの我々はどうだろうか。
ここに村上春樹とも関連する問題がある。村上春樹を含む我々現代人は、そのような信仰という迷妄から免れているはずだ。
地震は神が起こした裁きではなく、単なる地殻の運動である事がわかっている。地殻の運動はいちいち、その運動によって死ぬ人間が悪人か善人か区別しない。死ぬ人間は死ぬし、生きる人間は生きる。極悪人が生き延びる事もあれば、善人が死ぬ事もあるだろう。
だが、この剥き出しの無味乾燥な現実を我々は真正面から見つめる事はできない。心の底では、(自分だけは違う、自分だけは助かる)と思っている。剥き出しの、地獄としての現実を直視する事は難しい。信仰という迷妄から離れたからといって、剥き出しの真実に耐えられるわけではない。
村上春樹の小説において、弱者が切り捨てられるのは、この世界の地獄性をはっきりと視認できないからだ。この世界が、たった一人でも罪のない不幸な死に方をした人間を生み出したのなら、この世界は残忍で冷酷無比なものとなる。
この残忍で冷酷無比な現実にかつての人々は宗教という形で覆いをかけて見ないようにしていた。この態度は一周回って村上春樹の態度と似ている。もっとも、村上春樹はそれなりの巧者なので、現実の残忍さを作品の中に盛り込む事はするが、それを真正面から見つめる事はしない。
村上春樹の小説が幻想的な雰囲気を取っている理由もこれではっきりしただろう。村上は、リスボンの大地震で目を覚まされるまでの人々と同じように、現実に覆いをかける。その中を村上の主人公は軽やかに運動していくが、その過程で不幸な人と出会い、少しばかり彼らを横目で見るのだが、それもまた主人公の「冒険」の一部を構成するに過ぎない。主人公が遭遇するイベントの一つに過ぎない。
このようにして弱者は切り捨てられる。弱者が切り捨てられるのは、そもそも村上が人生で一度も魂が砕けるような苦痛を経験した事がないからだろうが、しかし経験のせいにだけにするのは問題があるだろう。
仮に村上がそのような経験がなかったとしても、文学や哲学への深い教養を持ち、過去の偉大な哲学者や文学者が一体、何と格闘してきたかを知れば、少なくともその闘いを自己の中に持つ事はできたはずだ。
ところが村上にその姿勢もないのは、彼が本質的に教養がなく、本を読んだとしても、それを本当の意味で自分ごととして捉えられないからだ。
そしてこの傍観者的な快楽追求者は現在の多くの資本主義社会で幸福になりたい人の望んでいる在り方と一致する。要するに村上春樹は文豪たらんとしているものの、実際には大衆よりの人物だ。
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随分と書いてきたが、話が多少ねじれてしまったように思う。というのは、宗教の問題が若干ずれてしまったからだ。
最初に言ったように、村上春樹は超越的なもの、宗教との闘いを回避している。だがそれによってむしろ村上春樹の小説は安易な宗教の救済の雰囲気を作品内部に持ち込んでしまった。
現在の宗教というのは世俗的なものの神聖化に他ならない。この宗教のトップにはアメリカという国がある。アメリカをトップとした物質主義、世俗的なものの神聖化、そうした宗教的作品の中に村上春樹の小説もあると考えていいだろう。
それと比べた時、先にあげた文豪の作品というのは、宗教というものと厳しく対立し、それらを真剣に検討し、取り上げた結果、むしろ作品の大部分は非ー宗教的なものとなった。
この問題は難しいところであるが、ドストエフスキーやセルバンテス、トルストイといった人達は、彼らの悩みが深刻でありながらも、彼らの真実を求める心が自らの理性を眠らせる事を肯定しなかった為に、彼らは超越的な領域と向き合わざるを得なかった。
超越的な領域、すなわち、宗教が本質とするような現実の経験を越えた領域、彼ら近代のリアリズム作家においては、そうした宗教を対象化して、その問題を真剣に考えるからこそ、そこから漏れているこの世界の悪魔的現実はリアリズムとして残される事になる。
これは宗教というものの恐ろしさを物語るとも言える。要するに、宗教、つまり超越的なものを求めるという我々の弱さ、救済への願望を積極的に我々が認めなければ、我々は救済への祈りを知らずに自分の思考の中に織り込んでしまうのである。
その結果、今のインターネットでみられる多くの人々のように、現実を歪めた希望的な認識が支配的となる。それはあたかも神が作り上げたこの世界はそれなりに合理的であらねばならないかのようだ。
もっとも、今の人々は神の手のかわりに「政治」という万能の手段を望んでいるのだろうが。政治さえ良ければ世界はバラ色に変わる…これはマルクスを開祖とする新しい宗教に他ならない。
この現実を歪めた希望的な世界においては、リアルな現実において罪なく不幸に死んでいく人々はその存在を無視される。仮に言及される事があったとしても、本気で相手の身に立って考える事はない。この認識は常に傍観者的である。彼らは自分達の歪んだ世界観を改められたくないので、弱者を直視しない。
村上春樹の場合は、村上に似た主体が救済される事が望まれているので、その過程で邪魔なものは排除される。弱者は切り捨てられる。それは冒険の一コマの風景を形作るだけだ。
それでは、可能性としては、弱者はどのようにして救済されるのかと言うと、現実に救済される事は不可能である。現実はコントロール不可能な地獄であるから。救済は現実から押し出されて、「あの世」のような彼岸で成されると想定される他ない。
「カラマーゾフの兄弟」のラストでは少年イリューシャの葬儀が営まれる。そこでアリョーシャは演説をする。この演説は感動的だがどこか紋切り型でもある。「カラマーゾフの兄弟」で提起された様々な問題は果たして本当に解決されたのだろうか。
「ドン・キホーテ」のラストも同様に紋切り型となっている。ドン・キホーテは改心し、騎士道物語の夢から覚める。ドン・キホーテは熱病でそのまま死んでしまうのだが、彼は死ぬ前に神父に終油の秘跡を受ける。
この終油というのは、日本で言うと、死ぬ前に坊主が気休めのお経を読むようなもので、私などは西洋の小説をよく読むと、死ぬ前に終油を受けるシーンが頻出して、あほらしいというか、不思議な気持ちがしたものだが、しかし一周回って考えてみると、現実における地獄的な問題は解決不能なので、最後には紋切り型の符牒を最後に貼っておくしかないという人類の「知恵」とも考えられる。
これは例えば、僧侶としてはエリート中のエリートだった親鸞が一周回って「南無阿弥陀仏」と唱えれば人は救われると説くようなものだろう。
実際のところ、南無阿弥陀仏と唱えたところで救われないし、その事は親鸞もわかっていたのだろうが、しかし救われない問題について考え続けても仕方ない事を悟った人間というのは、愚者が「南無阿弥陀仏」を心の底から信じるのと同様に、やれやれとため息をつきながらどうにもならぬ現実に対して最後にのっぺりとしたありきたりの札を貼るのかもしれない。
それが意味がないとわかりつつも、最後の気休め、最後の紋切り型の終焉として、言葉や印を置く。そしてそれは必ず宗教の形を取る。悲惨な現実を現実内部で救えないなら、「あの世」のような超越的なものを想定するしかないから、宗教というものが最後には要請される。
とはいえ、それは理性が嘘であると証明済みでもあるから作家は仕方なく、最後の最後に気休めの符牒としての経や、十字架、終油のような印をそっと置いて幕を下ろすしかない。
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私は文学というものを以上のようなものとして考えている。
文学というものは、徹底的にリアリズムであるべきだと私は考える。この場合のリアリズムとは、現実性というより真実性という意味においてであるから、「1984年」とか「すばらしい新世界」のような作品も私の中ではリアリズムの範疇に入る。これらのディストピア小説は現実の地獄性を設定として更に強めているのであって、それは現実よりも現実的だと評価するからだ。
まず、現実とは地獄であるというリアリズムの認識がある。これは大抵は、若い頃からの夢から覚めるという経験と共に現れる。
若い作家は世界に対して希望を持ち、夢を持つ。それに対して、現実を経験して年を重ねた作家は、夢が嘘であると知る。夢が破れていく過程がそのまま文学の過程となる。シェイクスピアの「あらし」に次のようなセリフのやり取りがある。
ミランダ「おお、なんて不思議なの! ここにこんなに立派な人たちがたくさんいるなんて! 人間ってなんて美しいのだろう! ああ、素晴らしい新しい世界! こんな人たちがいるなんて!」
プロスペロー「お前にとっては、全てが新しい」
この二行の間に私は全ての人々の人生の過程が詰まっていると常々考えてきた。若いミランダにとっては世界は希望に満ちているが、老いたプロスペローにとってはそうではない。
こうした観点からみると、村上春樹という作家は未だに夢が破れていない、と言っていいだろう。
それは彼の世代的な問題もあるが、それと共に村上の傍観者的な資質が問題になる。ただの傍観者は偉大な作家になれない。彼は当事者としての、本物の苦痛の表現、歓喜の表現、救済の願望、破滅へ至る暗黒、それを描く事ができない。
村上が弱者を作品の中で単なるイベントの一つとして取り扱う事は、彼の作品が人間の本質の全体を覆う事ができない事を意味する。
ロシアの哲学者シェストフは特にこの点を強調した。シェストフは、「溝に落ちた人間」という比喩で、強調した。
溝に落ちた人間をもし誰も救えないとしたら、どうだろうか。もう二度と助かる見込みのない、溝に落ちた人間がいたとしたら、どうだろうか。
「まあ、仕方ない。来世はきっと良い目にあうだろうよ!」と陽気な傍観者は述べて去っていくだろう。あるいは溝に落ちた人間に対して同情の言葉を述べたり、悔やみの言葉を述べたりする者もいるだろう。
彼らはいずれ、全員去っていくだろう。いつまでも残っていてもしかたない。
しかし、シェストフが問いかけるのはそれがもし"あなた"だったら、という事なのだ。あなたが溝に落ちた人間の側だったらどうするか、という事だ。
シェストフは溝に落ちた人間としての"当事者性"をドストエフスキーとニーチェの中に見た。これら作家と哲学者は二人共、溝に落ちた人間と自分を認識した、その深淵から言葉を発していると解釈した。それというのは、シェストフ自身が溝に落ちた事を人生のどこかで認識したからに他ならない。
村上の主人公は溝に落ちる事はない。ただ溝に落ちた人間を眺めて、通り過ぎるだけだ。
しかしこの世界は、そのような溝に落ちる人間を生み出す世界である。そして、もし文学が目指す真理が物理法則のように例外を認めないのであれば、たった一人のそのような人間がいただけでも、世界に対する楽観的な見方を改めなければならない。
世界の真実性を見つめようとするとどうしても、このように世界そのものを地獄とみなければならない、という結論に終始するだろう。そして世界が地獄であるとしたら、いかにして人間は救済されるか、あるいは少なくとも救済を求める事はどうして可能になるのか、それが考えられなければならない。
この問題を回避して、傍観者としての人間の幸福を描く事は、人間の表層を描く事にとどまるだろう。
村上春樹において、超越的な問題との対決を回避する事によって、弱者が切り捨てられるというのはこのような論理によってである。このために、村上の小説は人間の本質、世界の全体を描く事が不可能になる。
村上の小説において、幻想的な雰囲気が充満し、徹底したリアリズムを欠いている事。主人公が理想的な存在であり、問題はあるがそれは必ず解決可能である事。これら、全てが解決可能だという前提から逆算される村上の作品世界は、結局、人間の欲望はいつかは叶えられるという世俗的な現代の神話をなぞっているに過ぎない。
村上の作品は現代の神話が崩れていくと共に読まれなくなっていくだろう。時と共に。資本主義が我々に見せる夢が消失していくと共にその作品の魅力も次第に薄れていく事だろう。
村上春樹が、いかに自分が「無意識的に作品を書いているか」を強調したところで、作家が自分の中にないものを書く事は不可能なのだ。
村上春樹という作家は、世俗的なものを神聖化しようとする時代に生まれた作家であり、村上春樹自身もそうした時代の子である事は否めない。私にはこのような作家の作品が永続的に読まれるとは思えない。
村上の作品は人間の本質を描き得ていない。というのは、村上の中にある傍観者的資質が人間の中のある部分を疎外するからだ。
しかし、人間の深淵、本質というのはシェストフが指摘したように「溝の底」からしか見えないものではないのか。種類が違えど、過去の偉大な文豪はみなそれぞれ、自分のはまり込んだ「溝」を心の中で飼っていたように私には思える。




