3 もう少し近付いて
カーテンの隙間から朝日が漏れている。アイゼンベルグ領初めての朝は清々しい目覚めだった。
「おはようございます、セレスティアお嬢様。よい朝ですね」
「ええ、おはようリリウ。人生最高の目覚めと言っても過言ではないわ」
「お嬢様が楽しそうで何よりですが……」
セレスティアが唯一この地に連れてきた侍女リリウは、幼い頃からカーヴィル家で共に育った気の置けない仲だ。年の頃も同じくらい。信頼できる侍女であり護衛でもある。
もちろんセレスティアの男の趣味も知っているのでご機嫌の理由もバレている。構わない。
「とにもかくにも、わたしがこの領地にとって有用であると示さなければならないと思うの」
リリウに手伝ってもらい身支度を済ませた後、さっそく考えるのは今後のことについてだ。下心を抜きにしても、この地に必要としてもらうのは大事だろう。好印象を得ておきたい。
なんだか王都の動きもきな臭いので、そちらも気になるところではあるのだが……。
「お嬢様の場合、ここの領主様ではないですがそれこそなるべく口を開かず微笑んでいれば一番印象がいいかと存じますが」
「なんてこと言うのあなたは」
「僭越ながら、リリウの率直な意見でございます」
しれっとした顔で言うリリウはにこりともしない。表情に乏しいが、これで案外感情豊かな侍女である。
「まあ、それは冗談としても。お嬢様は幼い頃から礼儀作法を厳しく学び、社交の場ではささいな厭味からあからさまな敵対までちぎっては投げちぎっては投げ、素晴らしい対処をなさってきました」
「……ふふ。確かに厭味の十や二十は受け流せるわ」
己の名誉のために言い添えておくなら、ちぎって投げたりはしていない。断じて。
魔力を持たなかったので外から色々言われることはあったが、魔力を持たないことで通常魔力のコントロールの訓練に費やすはずの時間を丸々他の勉強に充てられた。良し悪しだ。
今回セレスティアを辺境に片付けたことで得をしそうな奴らは……と頭の中でピックアップしつつも、とはいえ今すぐ対処できるものではないなと一旦おいておく。同じ理由で、アイゼンベルグ家が力を持ちすぎるのが気に食わないと思っていそうな家の心当たりも挙げつつ今は静観だ。
あまりセレスティア一人が大っぴらに動いて目立つのはよくない。アイゼンベルグ家にも迷惑がかかる。
となると。
「すぐに何かできるとしたら……家事かしら」
領地にとって有用とはすなわち、領主にとって有用ということ。領主の働きの助けとなること。しかも、使用人にはできない範囲で。
セレスティアは裁縫だけでなく、普通の貴族であればやらないような炊事・洗濯・掃除も趣味の一環として腕に覚えがある。例えば刺繍やレース編みをプレゼントにしてもいい。キッチンが使えるなら更にできることも増える。
だが、この家の使用人たちと打ち解けないまま出しゃばっても心象を損ねるだけだ。
まずはこの屋敷の造りを把握し、どこに何があるか、どこで誰が働いているかを覚え、親しくなることが先決。あわよくばギルベルトの将来の伴侶として認められたい。周囲の人間の後押しというのはどこへ行っても大事なものである。
「何にせよ行動あるのみね」
「あまりはしゃがれませんよう。リリウも他の侍女たちから領主様の女性の好みを聞き出して参ります。そんなものがあればの話ですが」
優秀な侍女リリウは、最後まですんとした顔のままお辞儀をした。
ならばセレスティアも、やるべきことをやるだけだ。
色々と後処理があるから、と昨日の夕食の席は共にできなかったギルベルトだが、どうやら朝は大丈夫だったらしい。姿を現したギルベルトは顔色もそこまで悪くなく、セレスティアはひとまずほっとした。
「セレスティア嬢。どうだろう、昨夜はよく眠れたか?」
「ええ、とても。お気遣いありがとうございます、ギルベルト様」
ところで、これは最初からずっと思っていたことなのだが。
「ギルベルト様。あの……遠すぎませんか?」
「……なんのことだろうか」
絶対分かっているくせに濁された。なんのことって、ギルベルトが一定の距離よりもセレスティアに近付いてこないことである。セレスティア自身、魔力を乱すという体質故に他者との距離は一定に保つ癖がついているのだが、それにしたって遠すぎる。
セレスティアは平均よりもかなり精神が打たれ強い自信がある。そうでなければ魔力ゼロで公爵令嬢など務まらない。こうもあからさまだと傷付きはしなくとも気になりはする。結婚したいと思っている相手であればなおさらだ。
「これではお声も聞き逃してしまいそうな距離ですので。わたし、何か失礼を致しましたか?」
「そんなことはないよ。ただ、あなたは魔力を持たない御令嬢だと聞いていたから」
「魔力を持たない奴は近寄るな、と」
「いや語弊があるだろその言い方……おれが傍にいると魔力酔いしてしまうかと思ったんだよ。だからうかつに近寄れなかったというか」
ああ、なるほど。疑問が一気に二つ解消された。
「ひょっとすると、こちらで働いていらっしゃるみなさまも魔力量が豊富に見えるのはそれが理由でしょうか?」
「うん。ある程度おれの魔力に耐性がないと困るからな。おれのような人間のもとで働かせるには過ぎた者たちばかりでちょっと申し訳ない気持ちもあるんだが……だからあなたの縁談の話を持ち込まれたとき、絶対に性格の悪すぎる奴が関わってるなと思ったんだ」
ふつうにかわいそうだろ、一緒に暮らしている奴のせいで具合が悪いのは……とぼやくギルベルトである。
ギルベルトの優しさは素直に受け取っておくことにするが、それはそれとしてセレスティアは三歩ほど一気に距離を詰めた。びくっとされたが気にしない。
「ご安心ください。わたしは魔力は持ちませんが、幸い他者の魔力で酔ったことは一度もありません」
「え、そうなのか? これは失礼な言い方になってしまうかもしれないが、意外だな」
「本当に一度もないのです。むしろ、わたしの傍にいると魔力が乱れるからと嫌がる方がたくさんいらっしゃいます」
「そんな奴に敬語使わなくていいだろ……うん、そうだな、試しに握手させていただいても?」
「ええ、ギルベルト様さえよろしければ」
手を差し出すと、やはり優しい手つきでそっと手を握られる。温かい手だな、と思った。子供体温だ。
ギルベルトは何度かぎゅっぎゅっとセレスティアの手を握り、「こちらはなんともないが」と首を傾げる。
「あら……ふふ。よかった。その豊富な魔力を乱すなんてできないのですわ、きっと」
「あなたはどうかな」
「わたしも特に、問題ありません」
そういうことなら、とギルベルトは朝食の席を近付けるように周りに指示を出している。よかった、謎にテーブルの端と端に用意されていたカトラリー類はセレスティアたちのもので正解だったらしい。こんな距離感では深まる仲も深まらない。
席がテーブルの正面で向い合せになったのを確認して、セレスティアは思わず笑顔になった。
「今後もこのくらいの距離で一緒にお食事ができると嬉しく思います」
ギルベルトは「あなたの望むようにしよう」と目を細める。
いつかこの人の隣に立てるようになりたい、と、改めて思った朝であった。