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精霊の加護

 ――生まれ育った国を追われ、辺境の地まで逃れてきた私は、夜の静寂に包まれる泉の(ほとり)に立っていた。

 公爵令嬢であった証を一つずつ手放し、最後に残った銀の髪飾りまで売り払って、ここまで生きながらえてきた。


「何も無くなってしまった……」


 唯一、人から想われていた証の髪飾りまで手放した時、私は自分の魂までも売り払ってしまったような気がした。


 月光に照らされ、揺れる水面を見つめながら思う。

 そうまでして生きながらえて、なんの意味があるのだろう。

 これまでの努力も、積み重ねてきたものも、全て水泡に帰した。

 この先、どれほど生き続けたところで、待っているのはきっと空虚だけ。


 ただ愛されたかった、ただ認められたかった、ただ必要とされたかった。

 誰か一人だけでも、私を想ってくれる人がいたら――そんな願いは、叶わぬ夢だった。


 絶望していても、星々の光を反して煌めく泉は、この世のものとは思えぬほどに美しい。


「こんな綺麗な場所で終えられたら……素敵かしら……」


 水に足をつけ、冷たさに震えつつも、深みへと歩みを進める。


 水が足首を、膝を、腰を包み込んでいく。

 やがて足が届かなくなり、泳ぎながら更に奥へと進んでいく。

 瞬く星々が水面に映り込み、どちらが夜空か水中か、境界が曖昧になっていく。


 冷たさも感じなくなり、身体から力が抜け、私は深い泉の底へと沈んでいった――。



『……乙女が……世を儚むなど……』



 意識が薄れゆく中、誰かが囁いたような気がした。





 ――ぽた、ぽた、ぽたり。


 水滴の滴る音に気づいて、私は重い瞼を開く。


 そこにいたのは私を抱き上げている老齢の男だった。

 真っ白い髪と髭は長く、顔には年を感じさせる深い(しわ)が刻まれている。

 そして、泉のように(あお)く美しいその瞳には、神々しいまでの輝きが宿っていた。


「まだ年若い乙女が自ら命を絶つなど、これほど悲しいことはない……」


 男は揺らめく目を潤ませ、憐れむような眼差しで私を見つめていた。

 水辺に座る男の腕に抱かれた私の身体からは、静かに水が滴り落ちている。


「……わたくし、生きて……?」

「生きているよ……わたしの泉でこんなに憐れな娘を、死なせるわけにはいかない……」

「あなたは……泉の精霊、なのですか?」


 男は鷹揚(おうよう)に頷いて見せ、私の顔にかかる濡れた髪を()き、穏やかに語りかける。


「その美しく見事な銀の髪は(いにしえ)の巫女の末裔(まつえい)だろう。一途で清らかな血筋の娘が世を儚むなど、さぞ辛い思いをしてきたのだろうね……話してごらん。この老いぼれにも、何か力になれることがあるかもしれない」

「……わたくし……わたくしは……っ……、……」


 話そうとするけれど、辛い思い出が脳裏を過ぎり、気持ちが張り詰めて言葉に詰まり、上手く話せない。

 何も言えず、惨めに震えるだけの私を、精霊様は優しく抱き寄せ、大きな手で頭を撫でてくれる。


「うんうん、ゆっくりでいいよ。わたしは人よりもだいぶ気が長いからね。無理はしなくていい。少しずつ、ゆっくり話しておくれ」


 誰からも(かえり)みられることのなかった私を、思いやってくれる言葉に、抱きとめてくれる温もりに、涙が込み上げてきて、(せき)を切ったように溢れて止まらなくなる。


「……っ……う、うぅ……うあぁぁぁぁ――」


 凍てつきひび割れていた心に温もりが染み、嗚咽を漏らして泣き縋った。

 優しく宥めてくれる精霊様に、私はこれまでの思いの丈を打ち明けたのだ。


「そうか。大変な思いをしてここまできたのだね……」


 精霊様は慈しむように抱擁(ほうよう)し、私の背中を優しく撫で、言葉を続ける。


「よく頑張ったね、キャロル。だが、もう思い詰める必要はないよ」


 そう言って、精霊様は穏やかな眼差しで近くにある村を見やる。


「この土地に住まう人々は皆、行き場を失って辿り着いた者たちだ。だからこそ、互いに支え合い、慎ましくも温かな暮らしを紡いでいる。キャロルのことも、温かく迎え入れてくれるよ――」


 精霊様の仰った通り、その村は他の地域とは違い、髪色で差別されることも、よそ者だからと疎外されることもなかった。

 村の人々は皆、穏やかで優しく面倒見の良い者ばかりで、慣れない慎ましい暮らしも温かみがあった。

 何かできる仕事はと探し、読み書き計算など教養を教えると重宝され、私はすぐに村に馴染んでいったのだ。


 はじめた小さな店の仕事を終え、私は泉へと足繁く通うようになっていた。


「また来てくれたのかい」


 水辺まで駆け寄ると、精霊様は決まって手を伸ばし、私の頭を撫でてくれる。

 嬉しくて笑みをこぼすと、銀の髪を梳いた指先が頬を撫で、精霊様が覗き込んで囁く。


「わたしはキャロルの笑顔が見れて嬉しいよ」


 いつも穏やかに微笑む精霊様は、私の話に耳を傾けてくださる。


「村での暮らしはどうだい?」

「皆さん優しくて、本当によくしていただいています。困ったことがあれば、気兼ねなく頼りなさいと言っていただけました」

「うんうん、この村の者は心根の優しい者たちばかりだからね。少々、大雑把(おおざっぱ)なところはあるが――」


 村のことを語る精霊様の表情は、親が子を想うかのように慈愛に満ちていた。

 きっと、私を救った時のように、精霊様はたくさんの人を救い導いて、途方もなく長い間この土地と人々を見守ってきたのだろう。

 村人たちの暮らしを慈しむように見つめる精霊様の姿に心が温かくなる。


 だけど、日を追うごとに(やつ)れていっている様子が心配だった。


「あの、精霊様……お加減が悪いのでしょうか?」


 精霊様の頬はこけ、皺が深くなり、声はしゃがれていた。

 前にも増し、老いて瘦せ衰えた弱々しい姿になってしまっていたのだ。


「そうだね……わたしは年老いた古い精霊だ。長年この土地に人が住めるよう瘴気を払い続けてきた。そのために力を使い果たしてしまったようだ」


 どこか寂しげな表情で、自らの細く節くれだった手を見つめて呟く。


「もうすぐ、顕現して姿を見せることもできなくなってしまう。わたしは深い眠りに落ち……いずれは消滅してしまうだろうね……」

「!? そんな……わたくしに何かできることはございませんか?!」


 精霊様の身体が薄っすらと透けて見える。


「ありがとう、キャロル。その気持ちがわたしはとても嬉しいよ……だが、人の力でどうにかできるものではないのだ」

「そんな、嫌です! わたくしにも何かできることが、きっとあるはずです! だから、どうか!!」


 叫び縋りつくだけで何もできない、自分の無力さに涙が溢れる。


「数多の精霊に加護を受ける聖女ならば、力を分け与えることもできたかもしれないが、精霊が減ったこの世にそんな聖女はいないだろう……仕方のないことなのだ」

「精霊様……精霊様!」


 精霊様の姿が、月光に溶けるように薄らいでいく。

 それでも、精霊様は慈愛に満ちた微笑みを絶やさない。


「姿が見えずとも、力が続く限りはこの土地を、ここに住まう人々を守っていくよ……キャロルの笑顔も見守っている……」


 透き通る指先が、涙に濡れていた私の頬を撫でる。

 いつもと変わらぬ優しさが、どうしてこんなにも儚いのだろう。


「力が衰えすぎて、祝福の加護を与えてやれないが……わたしは心からキャロルの幸福を願っているよ……」


 涙で滲んだ視界の中、精霊様の微笑みが泡のように消えていく。

 最後の最後まで、私の髪を優しく梳く仕草さえ、何も変わらないのに。

 

「精霊様……っ……!」


 取り残された私は、声を上げて泣き崩れた。

 姿が無くなってはじめて、愛する存在を失ったのだと気づいたのだ。


 泣き(しき)る涙が泉に落ちて波紋を広げていく。

 すると、水面から立ち上がる風が私の背中を撫でた。

 それはまるで、精霊様の温かい手のようで――『泣かないでおくれ』そう囁いているようだった。


 姿は見えなくとも、確かにそこにある温もりを感じ、私は涙を拭う。


「精霊様が救ってくださったこの命……これからは、精霊様が愛したこの土地と人々のために生きていきます。ですから、どうか、わたくしのことを、ずっと見守っていてください……」


 星空の下、美しく煌めく泉に誓いを立て、私は生きたのだ――。



 ◆



 まだ暗い夜明け前だと言うのに、村人が慌ただしく何かを探している。

 村から去ろうとしていた強盗たちも、そんな村人たちに行く手を阻まれた。


「おっと、こんな夜更けに大勢集まって、皆さんどうされたんですか?」


 強盗の親分は身なりを整え、人の良さそうな教師の仮面を被り直す。

 店の下働きの男が前に出てきて、焦った様子で説明する。


「キャロルさんを探している。俺のところに重要書類が送りつけられてきて、何かあったのかもしれないと店を見にいったら、荒らされていたんだ。それに血の跡まで残っていた……」

「それは心配ですね。僕も探すのを手伝いましょう」


 心配そうに言った教師の衣服に、わずかに飛び散る血の跡を見つけ、下働きの男の表情が険しくなる。


「お前が……やったのか?」


 下働きの男は呟き、恐ろしい形相で教師へと詰め寄っていく。

 熊のような大男に近づかれて後ずさる教師は、慌てて言い訳する。


「ちょ、ちょっと待ってください、誤解ですよ! これはその、魚をさばいた時に飛んだ血で……」

「今の季節にそんな血が飛び散るほどの大物は獲れない。ここじゃ、流通は干物や燻製が主で生物(なまもの)は扱わないんだ……よそ者は知らないだろうがな」


 周りにいた村人たちの目の色も変わる。


「あ……ああ、そうだった! 鳥か兎だったかも。パサついて魚みたいな味だったもので……なんにしても、僕では――」


 ズドンッ!


 教師が言い訳しつつ、そろりと通り抜けようとしたところで、猟銃を持っていた狩人が教師の横にあった木を撃ち抜いた。


「ひいぃっ!」


 悲鳴を上げた教師は腰を抜かして尻もちをつく。


「この村で狩人はワシだけだ。獲物を売ってやった覚えはないぞ」


 そう言いながら次の弾丸を詰め、狩人はガチャリと教師に狙いを定める。

 教師が両手を上げて怯えていると、子分たちが寄り集まっていく。


「ボ、ボス! 囲まれて逃げ道がないですよ!?」


 村人たちは周りを取り囲み、険しい表情で強盗たちに詰め寄っていく。


「キャロルさんを、どこにやったんだ?」


 強盗たちは屈強な農夫に取り押さえられ、農具が振り下ろされる。


「ギャァァァァァァ!!」


 夜の静寂を裂き、断末魔がこだました。




 半殺し状態で縛り上げられた強盗と、下働きの男から事の顛末(てんまつ)を聞き、村人たちは悲しみに打ちひしがれる。


「実現できるかわからないから、確約されるまでは黙っていろと言われていたんだが、キャロルさんは瘴気病の者を救うために、この村に教会を建てようとしていたんだ……そのために必死に金を貯めていたのに、強盗に襲われるなんて……」


 やるせない思いに表情を歪ませ、下働きの男は告げる。


「俺のところに送られてきた重要書類、これはこの村に教会が建設されることを確約したものだ」

「そんな……それじゃ、あたしたちはそんな婆さんに酷いことを言ってたってことなの……」

「金の亡者なんて散々悪しざまに言っていたのに……それなのに、救おうとしてくれていたのか……」


 村人たちは強く胸を打たれ、深い後悔に苛まれて涙をこぼす。

 おのずと泉の畔へと集まり、村人たちは精霊に祈った。


「精霊様、どうかお願いです。キャロルさんを助けてください」

「お願いします、精霊様。今一度、キャロルさんを帰してください」

「キャロルさんにもう一度会わせて。謝らせて、お礼を言わせてください」


 村人たちは一心に願い、星空の光を反して煌めく泉へと祈り続けたのだった。



 ◆



 冷たい水底に沈んでいき、何も感じなくなっていたはずなのに、不思議な温かさを感じた。


「……キャロル……」


 どこか聞き覚えのある優しい声に名を呼ばれ、私はゆっくりと目を開く。


 そこには私を腕に抱きかかえている、見たこともないような美しい男がいた。

 夜の水面を思わせる艶やかな長い黒髪と、光を反して煌めく泉のような碧い瞳。


 目が合うと柔らかく微笑んでくれる。その表情と神々しい瞳に、私は見覚えがあった。


「……精霊様?」


 前にお会いした時の姿とは違う、若々しい姿ではあったけれど、泉の精霊様だとわかった。


「キャロルの献身が三人の精霊の心を動かし、わたしは力を取り戻すことができた。これで大切にしていた土地も人々も救うことができる。ありがとう、キャロル」


 年々瘴気が増し、精霊様が消滅するかもしれないと、ずっと不安だった。

 だけど、愛しい精霊様が元気な姿でわたしの目の前に現れてくれた。

 また微笑みかけてくれた。それだけで胸がいっぱいになる。


「はい……精霊様のお力になれて嬉しいです」


 泉の水がキラキラと輝いていて、私はハッとして血の気が引く。


「あの、精霊様……」

「なんだい?」

「泉の水を血で汚してしまって、申し訳ございません……」

「なんだ、そんなことか。気にしなくていいよ」


 謝罪すれば、精霊様は笑って許してくれた。


「わたしも謝らねばならないことがあるのだが……許して欲しい」

「精霊様が?」


 精霊様が謝ることなんてあるのだろうかと、首を傾げてしまう。


「キャロルの傷を治すのに、力の加減を間違えて……若返らせてしまった」

「え……?」


 水面に映る自分の姿を見て驚愕する。


「えぇっ!?」


 何十年も昔の、精霊様と出会った頃くらいの、若い娘の姿になっていたのだ。


「キャロルともっと共にありたいと思ったせいか、欲目がでてしまったかもしれない……すまない」


 不安そうに私の顔を覗き込んで伺う、碧く澄んだ瞳に見つめられ、精霊様のお顔の近さに胸が高鳴ってしまう。


「許してくれるだろうか?」


 心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなってきて、年甲斐もなく恥ずかしくて、しどろもどろになりつつ頷く。


「はっ……はい……」


 精霊様は安心したように満面の笑みを浮かべるもので、余計に胸がキュンキュンして苦しい。


「ふふふ。キャロルは本当に可愛いらしい乙女だ」

「か、可愛いくなんて……こんな婆に、恥ずかしいっ……」


 肉体の年齢に感情まで振り回されているのか、どうしていいのかわからず、恥ずかし過ぎて両手で顔を覆う。

 精霊様はそんな私の手をやんわりと取って、煌めく美しい瞳で見つめる。


「わたしの力が弱まり深い眠りに落ちていた間、さぞ大変な思いをしてきたことだろう……わたしが慈しんできた土地と人々を守り続けてくれたキャロルを、わたしがどれほど愛おしく想っているか、わかるだろうか」


 恥ずかしいのに、愛おしげに見つめる眼差しから目が離せなくなる。


「愛しいキャロルへ、わたしからの加護を贈らせて欲しい」

「私などに……加護を与えてくださるのですか?」

「他でもない、キャロルだからだ。わたしの聖女になっておくれ」


 精霊様が私を聖女として選んでくれた。

 それが、これ以上ないほどに嬉しい。


「はい」


 私の返事と共に、水面に映る星々が瞬きを増していく。

 やがて淡い光が私たちを包み込み、精霊様の碧い瞳が神々しく輝いた。


『夜空の星々よ、清き水面よ、この誓いを見届けよ』


 精霊様の声が響くたび、光の波紋が揺らめき、幾重にも広がっていく。


『汝を愛し、汝を守り、汝と共にあらん。我が唯一の聖女と定め、永遠(とわ)の祝福を捧げん』


 誓いの言葉と共に、精霊様は私の額にそっと口づけた。

 全身を包み込む温かな光は、精霊様からの永遠の愛と祝福の証。

 しばらくして光が収束していき、見えない力に守られていると感じる。


 星々が見守る聖夜。私は愛する泉の精霊様から加護を贈られ、聖女となったのだ。


「さて、加護を与えたことだし、そろそろあの村に帰してあげようか」


 唐突な精霊様の言葉に戸惑ってしまう。


「あの……私なんかが、あの村に帰ってもいいのでしょうか……私は村一番の嫌われ者で……」

「皆が帰りを待っているよ。キャロルを帰してくれと、ずっと祈っているからね。わたしが独り占めしているのは、少々忍びないのだ」


 不安を拭えないでいる私に、精霊様は穏やかに微笑んで囁く。


「心配しなくても大丈夫。その目で確かめておいで」



 ◆


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