一人目の精霊
「やぁ、君がキャロルだね?」
扉の向こうにいたのは、不思議な子供だった。
男とも女ともつかない幼い姿をした、人ならざる者だ。
背中には透き通った美しい羽が生え、身体が宙に浮いている。
「はい……あなたが、お母様の言っていた精霊?」
「うん、そう。僕は過去を司る一人目の精霊。君が後悔のない生き方を選択できるよう、手伝ってあげる」
そう言った精霊は柔和に微笑んで見せた。
幼い顔には似つかわしくない老成した表情に、人知の及ばぬ存在感に、畏怖の念すら抱いてしまう。
「さぁ、僕の手を取って、過去の時空を案内してあげる」
差しだされた小さな手を見つめ、ごくりと唾を飲みこむ。
人ならざる者にどこかへ連れていかれようとしているのだ。わずかな疑念と不安、恐怖心が湧いてくる。
しかし、母が伝えに来てくれたのだ。きっと悪いものではないはず。そう信じて、恐る恐る手を伸ばした。
「!?」
精霊が手を握ると、ふわりと体が浮きあがり、空を飛ぶような浮遊感に包まれる。
まわりの景色が、時を遡るように目まぐるしく移り変わり、やがて見覚えのある場所へと収束していく。
降り立った先は、遠い昔の懐かしい風景だった。
「ここは……もしかして、公爵家の庭?」
忘れかけていた美しい光景。母との思い出の庭園だ。
花々が咲き誇る庭園の東屋に、聖歌を口遊む母の後姿を見つけ、思わず駆け寄る。
「お母様!」
呼びかけても母からの返事はなく、穏やかに歌っているだけだった。
東屋の柱に手をかけようとすれば、手はすり抜け、何かに触れている感触はない。
自分の手を見つめ、私が困惑していると、精霊が語る。
「ここは過去の時空だから、干渉することはできないんだ。僕らは見ることしかできないよ」
「そう、ですか……」
回りこんで母をよく見れば、眠っている幼い私を抱きかかえ、子守唄のように聖歌を口遊んでいた。
聖夜に歌われることの多い歌だったが、私は母の歌う聖歌が大好きで、よくせがんで歌ってもらっていたのだ。
歌い終えると、母は決まって私を抱き寄せ、優しく囁いてくれる。
『わたくしの可愛いキャロル。あなたの幸福を何よりも願っています』
儚くも優しく微笑む母の仕草からは、深い愛情が伝わってくる。
この頃の私は確かに愛されていた。母の愛に包まれて幸せだったのだ。
再び母の姿が見られて嬉しく思う。けれど、目の前にしてなんの思いも伝えられないもどかしさに、切なさが込み上げてくる。
幼い頃の記憶が甦ると同時に、視界が揺らいで辺りの景色が移り変わっていく。
そこは母の質素な寝室。危篤状態で床に臥せる母に、幼い私が縋りついている場面だった。
『……わたくしの可愛いキャロル……どうか精霊のご加護があらんことを……』
ひどくか細いかすれた声で、母が最後に言い残したのは、そんな言葉だった。
『……おかあさま? ……おかあさまぁ……っ……うわあぁぁぁぁん』
絶望する幼い私の感情が流れ込んできて、私の目からも涙が伝い落ちていく。
私が六歳になった頃、身体の弱かった母は持病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。
母の最期を看取ったのは私と数人の使用人だけで、その場に父の姿はなかった。
視界が揺らぎ、形式的に執り行われた簡素な葬儀の場面へと移り変わる。
母の墓石の前。幼い私は寄る辺なく、父に縋る思いで呼びかけた。
『おとうさま……』
私を見下ろすひどく冷たい眼差しを、今でも覚えている。
『はぁ……銀の髪と言えば聞こえはいいが、まるで老人の白髪頭だ。母親に瓜二つだなんて気味が悪い。わたしにはまったく似ずに不出来なのだから、本当に公爵家の血を引いているのかも怪しいものだ……』
政略的に異国から嫁いできた母は、この国の人とは色彩が異なっていた。
そして、私は母の色彩のみを引き継いで産まれてきてしまったのだ。
『ごめんなさい……おとうさま』
視界が揺らぎ、幼い私が寝る間も惜しんで勉学に励んでいる場面に移り変わる。
幼い頃は、自分が不出来で至らないから、父に認めてもらえないのだと思っていた。
だから、公爵家の者として恥じない立派な令嬢になれば、きっと父からも認められて、愛してもらえると思い込んでいたのだ。
父に認められたい、愛してもらいたい、母のように抱きしめて欲しい。
その一心で、立派な令嬢になれるように取り組んでいた。
けれど、どんなに良い成績を収めても、認めてもらえることはなかった。
『はぁ……公爵家の者ならそんなことはできて当然だろう。そんな些末なことでいちいちわたしを煩わせるな……それに引き換え、我が息子はわたしに似てよくできた子だ。まだ幼いながら、わたしを煩わせることなどないのだからな。将来有望な自慢の息子だ』
腹違いの弟は他愛無いことでも手放しで褒められ、その扱いの違いを見せつけられて、私はようやく出来不出来の問題ではなかったのだと理解したのだ。
視界が揺らぎ、親族が集まる聖夜の晩餐へと場面が移り変わる。
創造主の誕生と世界の始まりを祝う年に一度の聖夜は、愛する者たちで集まり祝うことが慣例の行事とされていた。
公爵一家が楽しげに笑い合う声が食堂に響く。
『聖夜、おめでとう。今年の贈り物は、お前達が長年欲しがっていた物を用意したぞ』
『わぁ! 本当に用意してくれたんですね。こんなに嬉しいことはありません。私はお父様の息子に生まれて幸せです!』
『まあ、なんてことでしょう! もう手に入らないと諦めていた貴重な品ですのに、こんなに素晴らしい贈り物は他にありませんわ!』
『そうかそうか、そんなに嬉しいか。苦労して用意した甲斐があったな。ははは』
離れた場所ではあったが、同じ晩餐の席に着いていた私も、祝いの言葉を口にした。
『聖夜、おめでとうございま、す……』
私が声を発すれば、場の空気が一瞬にして凍りつき、冷ややかな視線を向けられる。
『お前に用意した物はない。必要があれば家令に言え』
贈り物を期待したわけでも、何かを強請ろうとしたわけでもなかった。
ただ一緒に聖夜を祝いたかっただけ。それすらも叶わない。
『………………』
一人で孤独感に苛まれ、苦痛な時間を過ごすだけの夜。
その頃から、私は聖夜が大嫌いになった。
視界が揺らぎ、王宮の庭園、王子と二人で茶会をしている場面へと移り変わる。
公爵令嬢として厳格に育てられた私は、政略的に王子の婚約者として選ばれた。
『僕達の婚約は政治的なものだけど、それでも、僕はお互いに思い合える夫婦になりたいと思っているから……ちょっとした贈り物を作ってみたんだ』
気恥ずかしげに差しだされたのは、銀細工の髪飾りだった。
『これを、わたくしに?』
『受け取ってもらえたら嬉しい』
この国には想い人に手作りの髪飾りを贈る風習があり、夫婦円満の象徴でもあった。
少し歪ではあったが、思いが込められた温かな贈り物が、私は本当に嬉しかったのだ。
『ありがとうございます……一生、大切にします』
『そんな、一生だなんて大げさだよ。あはは……来年はもっと上達するから――』
太陽のように明るく微笑む彼を、私は心から慕っていた。
はじまりは政略的なものでも、彼とならきっと温かい未来を築いていける。そう信じていたのだ。
王族の婚約者になったことで、父からも少しは期待され、彼の隣に立つ王子妃として恥じぬよう、私はさらに勤勉に、意欲的に努めた。
しかし、令嬢たちからは妬み嫉み僻みの対象とされ、顰蹙をかってしまう。
『公爵令嬢だからって家格で選ばれただけじゃない。あんな白髪頭、王子妃には相応しくないわ』
どんなに辛いことがあっても、彼が微笑みかけてくれるだけで、私の心は満たされた――けれど、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。
精霊に祝福された“聖女”が現れたのだ。
創造主の化身とも分身ともされる精霊は、人知を超えた力を司る、人ならざる存在。
そんな精霊に寵愛され、加護を受ける乙女を、人々は聖女と呼んでいた。
聖女がいるだけで、繁栄がもたらされることから、平民でも王族との婚姻が許されていた。
視界が揺らぎ、国を挙げて聖女誕生を祝うパーティー会場へと場面が移り変わる。
彼女が現れた瞬間、会場は息を呑むような静寂に包まれた。
純白の衣装がふわりと舞い、その姿はまるで天使のようだった。
透き通るような白い肌に亜麻色の髪をした乙女は、可憐に微笑んだ。
『王子様、またお会いできましたね』
『君はあの時の――』
精霊に導かれ、彼女は彼と運命的な出会いを果たした。
二人は瞬く間に惹かれ合い、恋に落ちていく。
本来ならば二人を祝福し、私は潔く身を引くべきだったのだ。
だけど、私にはできなかった。
視界が揺らぎ、聖女である彼女と私が対峙している場面へと移り変わる。
『彼の隣に立つにはどれほどの努力が必要か、あなたにはわからないでしょう……でも、わたくしは努力し続けてきたのです。それが、彼との未来のためだから……』
愛する彼を失いたくない一心で、悲鳴を上げる思いで訴えた。
『精霊に祝福されるあなたは皆からも愛され、これ以上ないほど多くのものを持っているではありませんか。望めばなんだって手に入るのでしょう……ですが、わたくしには彼しかいないのです! お願いですから、わたくしから彼を奪わないでくださいっ!!』
私に向けられていた彼の微笑みが、彼女に向けられていく。
それが、怖くて怖くて、耐えられなかった。
『平民の無知なあなたには、王子妃が務まるはずはありません!』
彼女が憎いわけではない。平民出身という理不尽な言葉を口にする自分が嫌で、情けなくて仕方がなかった。
それでも、他にどうすることもできず、ことあるごとに平民の身分違いだと主張し、二人を引き離そうとした。
しかし、そんなことをしても彼を取り戻せるはずはなく、私は無様を晒し、窮地へと追いやられていくことになった。
視界が揺らぎ、王侯貴族が集まる社交の場で、寄り添う二人に私が断罪されている場面へと移り変わる。
『そんなことをする人だとは思わなかった! 僕は今この場で、君との婚約破棄を宣言する!!』
『……っ……』
突き刺す彼の冷たい眼差しに射抜かれ、胸が引き裂かれる。
彼の目を見れば、私への気持ちはもうないのだと、まざまざと痛感した。
『……、……』
彼に伝えたい想いはたくさんあった。
だけど、息が詰まり、言葉が何も出てこない。
いくら弁明したところで、彼は信じてくれないだろう。
私への想いが少しでもあったなら、事実は違うと気づいてくれたはずだから。
『聖女にしてきた非道な仕打ち、報告されているだけでも数え切れない。決して許されることではない!』
それが、事実だろうと事実無根だろうと、聖女を妬んだ令嬢になすりつけられた罪だったとしても、もはやどうでもよかった。
彼が私に微笑みかけてくれることは、もうないのだから。
『聖女を貶めようとする者など、この国には要らない! 出ていってくれ!!』
胸を突き刺す彼の冷徹な目と言葉に、ただ熱い涙が頬を伝い落ちていく。
視界が揺らぎ、公爵家邸宅前で私は突き飛ばされ、追い払われている場面へと移り変わる。
『異国の聖女の血統だからと置いてやっていたが……貴様のような恥知らずは公爵家の者ではない! 即刻、立ち去れっ!!』
当然のことながら、擁護してもらえるはずもなく、激高する父にも見限られ、公爵家から追い出された。
いたるところで聖女を貶めようとした白髪頭の悪女だと罵声を浴び、道行く人に石を投げつけられ、国外追放を余儀なくされた私は、当て所もなく彷徨うことになったのだ。
着の身着のまま追い出され、持っていたのは身に着けていた衣装と装飾品、それに王子から贈られた銀の髪飾りだけだった。
異国へと逃れる途中、公爵令嬢だった証を一つずつ手放していった。
最後に残った髪飾りすらも、日の糧を得るためには売り払うしかなくなった。
『一生、大切にしたかった……』
王子との約束も、父への想いも、すべては失われ、もう二度と手に戻ることはない。
これまでの努力はすべて無に帰し、手元に残ったのはわずかな金だけ――だけど、その金が私を生きながらえさせた。
悲痛な経験の果てに、私は悟ったのだ。
どんなに思いを寄せ、懸命に努力しても、人の心は掴めない――だけど、金ならば掴める。
金を得る努力ならば、決して裏切られることはない。必ず目に見える形で、私の手元に残るのだから。
遠く離れた異国の地、辺境のこの村へと流れ着いた私は、わずかな金を元手に小さな店をはじめた。
村人へ読み書き計算を教えて小銭を稼げば、多少は重宝されたのだ。
それからは、金を集めることに心血を注ぎ、浪費は罪悪だと節制を貫いてきた。
金の亡者と揶揄される、村一番の嫌われ者となり、誰からも慕われない醜く年を取った老婆になっても――。
先ほどまで頬を伝っていた涙も、いつしか枯れ果てていた。
「……なんて惨めなんだろうね」
悲愴な記憶が蘇り、昔の自分の感情が流れ込んできて、ひどい喪失感と失望感を再び味わった。
「思い出したくもなかった。こんな気持ちは……」
「キャロル……」
心配そうに私を窺う精霊を睨みつけ、苛立たしさに声を荒げて問う。
「何故、こんなものを見せるのです? 忘れていた過去を掘り起こして、どうなるというのですか?」
感情的に喚く私を精霊はただ静かに見つめて答える。
「そうだね。過ぎ去った過去は変えられない……だけど、未来を変えることはできる」
「未来を変える? こんな老いぼれに未来があるとでも? 笑えない冗談はよしとくれ」
吐き捨てると、精霊はゆっくりと近づいてきて、柔和に微笑む。
「これは試練だ。君が最後にどんな未来を選択するのか、僕は楽しみにしているよ――」
私の額に精霊が手をかざすと、身体が落下していくような感覚に襲われる。




