赤船来航
「何だあれは?隕石か?」
金閣寺を楽しむ一人の観光客が空を仰ぐと、迫りくる一つの物体を視認した。それは物体であり、とても隕石のような自然物の形状とは似つかないものだ。
「んん、黒船?」
さらに視線を凝らすと、それが船のような構造をしている事が確認できる。そして間違いなく、金閣寺に降り立とうとしているのだ。
「た、大変だ!」
危機感を感じて、その観光客が大声を上げる。
すると周辺にいる人々も異変に気づいて、空の方に視線を移動させる。
「何あれ!」
「こっちに落下してくるわ!」
集団の目に映ったのは、高速で飛来してくる船だった。全体の色は赤色、大きさそのものは巨大とも言えないが、デザインは絢爛であり、見るものを怯えさせる何かがそこに潜んでいる。
謎の飛来物はそのまま軌道を修正することもなく、金閣寺の池に着地するつもりであるという意思を感じさせる。速度を加速させ、遂に金閣寺の後頭部まで差し掛かると、一人の観光客が叫びを迸らせた。
「赤船の来航じゃ!!!」
空から赤船が金閣寺に飛来してきたのだ。
バシャーーーン!!!
金閣寺に着地した赤船は、暴力的な水飛沫と振動を発生させた。周辺に居合わせた観光客はびしょ濡れになって、乾ききった大地は潤いを与えられた。代わりに池に溜まっていた水は全て無くなり、底が裸にされてしまった。
そして大地を揺るがす振動が収まり辺りが静寂に包まれると、赤船の扉が開帳して、そこから一人の生命体が姿を現した。
「ほう、ここが京都と呼ばれる場所か」
なんと赤船から登場したのは、鬼と呼ばれる伝説の生き物だったのだ。
全身は茹でダコの如く赤く染まり上がり、その体を隠すのは申し訳程度の布だけである。片手には混紡のような、先端が丸い凶器を持っている。
そして何よりも特徴的である電気を帯びる頭部の二本角を、空いた片手で触りながら、その鬼のような生命体は、体の向きを転換させて、金閣寺と対峙した。
「絶対的に美しい……」
その金色に輝く壮大な建築物を双眼に収めると、鬼は、まるで己が連続する時空の中で存在しているという事実を忘れるかのように、ただ立ち尽くした。
その金閣寺の美しさは絶対的であった。時空間から独立して永遠に輝きを放つ建築物。その名称すら鬼には理解されていないという概念的な障壁によって、彼を、金閣寺の有する視覚的な美に対して盲目にすることは到底有り得るはずがなかった。
その鬼にとって金閣寺とは客観的な経験であった。あくまでも金閣寺から万物が切り離され、介在する余地はないのだ。ヴァルハラの絶対芸術しか知らぬ此奴には、金閣寺が象徴する日本人の精神の真髄とも形容される、もののあわれなど、といった感動は己の魂の内に未だに発露される事はなかった。
だが鬼にとって京都は異国であるとともに、戦慄的であった。既に彼の中に、日本の精神の精髄の発露となる現象の発端が確固として発生していたのだ。その鬼の魂に宿った絶対的な金閣寺は、彼の眼前で聳え立ち刹那の内に揺れ動く金閣寺と乖離し始めて、遂に遥か彼方、つまりは不可逆的な距離にまで離されてしまったのだ。そして双方は地平線の彼方に滔々とただ流される一方で、二度と交わることない。それは同時に甘美的であり、儚いものである。
鬼が金閣寺の魔力に取り憑かれている間、周辺の観光客達は当然ながら、然るべき対応を取っていた。
「大変だ!赤船に乗って鬼がやってきたぞ!警察を呼べ!」
その声は、鬼の耳には、届くことはなかった。
数分後。
「お巡りさん!こっちだ!」
「あ、赤船だって?鬼だって?さっきの地震は、もしかしてそれが原因だったのか?」
最寄りの交番からやってきた警官一人が、赤船来航を目撃した観光客に連れられて、金閣寺の外までやってくる。
警官の年はまだ若く20代前後であり、勤務経験も豊富ではない。もちろん赤船来航など経験したことも、見聞したこともないだろう。
彼が門を潜って、敷地内に到着する。そして金閣寺辺りに視線を送ると、
「な、何だあれは!!!」
大声を上げた。
それもそのはずである。目撃者の証言どおりに、金閣寺の隣には赤船と鬼があるのだ。
「おい!何をしているんだ!そこは立入禁止だぞ!」
勇敢にも警官は急いで移動して、背中を見せる鬼と限界まで肉薄した。
「ん?」
すると警官の存在に気付いた鬼は体の向きを翻らせた。そして一寸の怯えを見せることもなく、彼は口を開いた。
「ほう、お主がこの日本の王か?」
「お、王?俺は警官だ!今すぐそこから立ち去れ!」
警官の方もその謎の生命体に怯むことなく、警告を告げる。だがしかし鬼は命令に従う気など無いようである。
警官から視線を外しながら、鬼は言った。
「我はこの日本の王に用がある。今すぐ、王を連れてくるのだ」
毅然としたまま鬼はそんな無茶難題を口走ると、
「さもないと、こうだぞ!」
片手に握られている混紡を天にかざした。すると一瞬にして晴れ渡っていた天気は、雷鳴轟く曇天に変わり、空は分厚い雨雲に覆われてしまった。
そして数秒後空から、耳をつんざく轟音とともに、混紡の先端部分に雷撃が飛来してきた。
「ひぃぃぃ!!!」
そんな恐ろしい光景を目撃した警官は遂に恐れをなして、直ぐ様、鬼から距離を取って、後方の木の裏に隠れてしまった。
「何をしているんだ!日本の住人よ!王を連れてくるのだ!」
それからさらに時間が経過。
天候が加速的に荒れていく中で、鬼は同じような台詞を繰り返し吐いていた。どうやら日本の王を所望らしいが、もちろん日本にはそんな者はいない。
警官と観光客は安全な距離からその様子を観察していた。鬼は人間に対して危害を与えるつもりはないらしく、こちらにはやってこないのだ。
既に異常事態に気付いた金閣寺周辺の住民たち、そして観光客も屋敷の外に集まってきており、空前絶後の事態にまで発展してしまった。
「どうなってんだ!?」
「さあ!何か、赤船が飛来してきて、鬼が暴れてるとか」
「やばいんじゃないか!?」
そんな門外に屯する群衆を掻き分けながら、一人の女性が声を張り上げた。
「ちょっと、どいて、どいて!」
彼女は女子大学生ぐらいの年であり若者である。服装は伝統的な片手には日本刀が握り込められて、まるで侍とも形容できる。顔には汗が張り付き先程まで稽古をしていたことを思わせる。
何とか群衆から抜け出すと、彼女は門を潜った。そして鬼が屹立する場所にまっすぐ向かっていく。
地面を蹴り上げて、ただ通路を突っ走っていく。その途中で、木の陰に隠れている警官を脇目で目撃した。
「葵!危ないぞ!」
警官である彼とは近所付き合いであって、顔見知りであった。
「ちょっと何コソコソ隠れてるのよ!警官なんだから、ちゃんと対処しなさいよ、秋津!」
秋津という名の警官はそう指摘されても、全身を震え上がらせてその場から動く事が出来なかった。
「あんな鬼のような奴、相手に出来るわけないだろ!」
「もう、頼りないんだから!」
そんな弱腰な警官を走り越えていき、池の手前で立ち止まり、鬼と対峙した。
「いい加減にしなさい!」
眼の前に新たに登場した人間を見ながら、鬼は言った。
「ほう、お主が日本の王であるのか?」
「違うわ!私の名前は葵よ!侵略者を成敗しにきたのよ」
葵は剣の鞘を抜きながらそう返答すると、鬼は混紡を下げてから、
「成敗?我は決して戦いをしにきたわけじゃない!サタンという我の崇高なる名に誓うぞ!この国の王と交渉して、この地球を我が故郷、ヴァルハラの支配下に置くために舞い降りたのだ!」
「さ、サタン?ヴァルハラ?い、いずれにせよ、覚悟しなさい!」
サタンと名乗る者のあまりにも乱暴な要求に呆れながら、彼女は剣を構えた。
その動作を見て、鬼は、
「なんと野蛮であろうか!もし我を傷つけようとするならば、こちらも容赦はしないぞ!」
サタンの傍若無人な宣言に対して、彼が、またも傍若無人な返答を返すと、彼女は我慢ならず、遂に地面を蹴り上げる。そして血なまぐさい戦いを開始しようとした瞬間だった。
「あうあうあー」
「ん?」
「え?」
赤ん坊がどこからともなく、ハイハイしながら二人の間にやってきたのだ。
その生まれたばかりの赤ん坊は何故か両目が塞がれており、そして全身の血の色が見るからに悪く、青ざめていた。恐らく野次馬の中の誰かからはぐれて、ここまでやってきたのだろう。だかしかし、サタンはそんな事情など知らぬ。
サタンは突然の乱入者に対して睥睨した。
「むむむ……?」
「あううー」
あろうことか、そんなサタンの戦慄的な肉体、そして威圧感に怯えることなく、なんと赤ん坊は彼に向かっていくのだ。そして彼女は水が枯渇した池をハイハイしたまま、サタンと手が触れる位置まで到達してしまった。
「え」
その時、葵は直感した。
大変だ。赤ん坊はサタンによってやられてしまう。あのような、か弱き存在にとって、たとえ鬼の小指を持ってしても、命の轍を途絶えさせる事は容易すぎるだろう。
「やめて!!!」
サタンの魔の手から赤ん坊を救出しようと、葵が地面を蹴り上げた瞬間だった。
「ほう」
なんとあろうことか、サタンは混紡を再び下げて、まるで天使の羽根のような優しい動作で、赤ん坊を持ち上げたのだ!
そして赤ん坊を抱えながら、サタンの口から発せられるとは思えない滑らかな声で、
「こんな所に来たら、危ないであろう」
そう告げたのだ。
「あうあうあー」
赤ん坊は何かを言おうとしているらしいのだが、それを言語化することは出来ずに、サタンからただ担がれていく。
そして乱入者によって戦闘に一時的休戦が持ち込まれた。
天地が頒かつほどの態度の違いに対して、葵は驚きながら、こう言った。
「い、意外と優しいのね……」
「優しい?我の故郷であるヴァルハラでは、赤ん坊に対して決して乱暴してはならないのだ!
これは義務である!」
と言いながらサタンは赤ん坊を池から移動させて、最寄りのベンチに座らせた。
「ほら、戦闘が終わるまでここにいるのだぞ」
「あうあうあー」
赤ん坊の頭を撫でてから、サタンは再び先程までの場所に闊歩していき、葵と対峙した。
「……」
だかしかし、戦慄していた場の空気はサタンの意外なる一面の表出によって瓦解し始めていた。緊張を持って後ろから見ていた見物人達はお互いの顔を見合わせて、一息をつく。
謎の侵略者は心優しきものだった!そう溜飲を下げて、皆は再びサタンの方向へ視線を固定させる。
そのまま場は何とか和やかな結末に収まるだろうと、誰しも思っていたのだが。
その期待を破ったのはサタンであった。
「良し、戦闘再開だ!」
なんと、サタンは未だに戦う気で漲っているらしい。混紡を構えたのだ。
予想外の展開に葵は戸惑いながらも、
「し、仕方ないわね!それじゃ、いくわよ!」
と答えて戦闘態勢に移行した。
するとサタンには今度、何か策があるらしい。大仰に顔面を歪ませてから宣言した。
「一発で終わらせてやる!!」
サタンは己の角から発生する電気を混紡に放出させて、溜めていっている。数秒もすると混紡は電気に塗れて、表面部分から溢れ出るように放電現象が起きる。
圧倒的な電力だ。赤く染まり上がった雷光がほとばしり、その威力を物語る。
あまりの閃光によって葵は視界を奪われてしまい、葵はただその場に立ち尽くした。
「な、なによそれ!」
さらに押し寄せる圧倒的な衝撃波のようなものに、葵はただただ口を動かすことしか出来ない。
無防備に晒された葵を前に、サタンは攻撃を開始した。
「喰らえ、ヴァルハラ秘伝の鬼電術の最奥義、超鬼電!」
サタンは混紡から全ての電気を解き放ち、津波の如くの電撃を放った。一本の線として電撃は葵に向かって空中を走る。
もうだめだ。
葵は本能的に悟った。
そして意識を己の内の永遠に伏せた。
一瞬とも思える永劫の後。
だがしかし、再び瞼を開く頃には、衝撃的な光景が展開されていた。
その究極奥義が直撃したのは、対峙する葵ではなく、なんとまたハイハイしながらやってきた赤ん坊だったのだ!
「あうあうあー!!!」
間違いなく致死量の電撃を喰らった赤ん坊は、そのまま宙高くに飛翔していき、金閣寺の身長まで達すると、そこから垂直に落下を開始する。
「あ、あうー?」
しかしながら赤ん坊は傷ついてはいなかった。むしろその逆で、それまで塞がれていた彼女の両目は開かれた。サタンと人間の間の神秘的な調和の元で、鬼電の効果は良好に作用してしまったのだ。
そしてその開かれた双眼で、赤ん坊は宙を舞いながら、葵とサタンを捉えたのだ。
「まま、ぱぱ!!!」
そして彼女の儚く終わるはずであった人生に於いて、始めて人間の姿を視認したのだった。
圧倒的な超鬼電術は、使用術者であるサタンをも一時的な盲目にしていた。そして電撃が去って、視界が良好になると、予想外の相手が攻撃を喰らっていた事を視認した。
「は!!!」
そこでサタンは今日一番の大声を上げたのだ。
さらに続けて、
「我は何たる大罪を犯してしまったのだ!!!」
赤ん坊がまた近づいていることに気づかずに、あろうことか己の必殺技を当ててしまったのだ。
か弱きものに対して暴行を振るうなど、ヴァルハラでは極刑にも値する行為であり、決して軽率に許される犯罪ではない!
「どうにかしなければ!」
だがそんな事を今、悔いている暇はない!なぜなら赤ん坊は加速しながら落ちてくるのだ。もしこのまま地面に落ちれば、さらに大変な事態に発展する。いやもっとも、既に彼女は息をしているかどうか、それすらも危ういのだが。忍。
「大丈夫か!!!赤ん坊よ!!!悪かった!!!返事をしてくれ!!!」
降下してきた赤ん坊を優しく両手で捉えてから抱き抱えると、勢い良く訊ねた。同時に顔を覗き込むと、しかしながら、意外な程までに傷は見られないし、何故か、さっきよりも元気である。そして何より両眼が開かれていて、彼女の口から驚くべき台詞が発せられたのだ。
「ぱぱ!」
「ぱ、ぱ……?」
その言葉の意味は理解していた。だがどうしてサタンに対してそのような関係性を表す
言葉を使うのだ?
そんな疑問について思考を巡らせていると、
「野郎、この鬼め!!!赤ん坊を傷つけやがったな!!!」
光景を目撃していた野次馬の連中が遂に怒りを爆発させながら、一斉に動き始めた。一直線上にサタンの方向へ走り出して、数秒の内にサタンは包囲されてしまう。
群衆に囲まれてしまったサタンは為す術もなく、そのまま縄でグルグル巻にされて身柄を拘束されてしまう。
「な、何をするのだ!我はヴァルハラの王だぞ!」
未だに抵抗を見せるサタンだが、どうやら先程の必殺技で力が尽きてしまっているらしい。暴れていても化け物じみた力を発揮させることもなく、縄を破ることは叶わなかった。
それからまるで祭りで神輿が担がれるように群衆によって、サタンは金閣寺の敷地外に連行されていった。