第2話 全てを失った日
3メートル四方の、窓の無いホコリっぽい部屋。冬は座っていると体の芯が冷えてくる。それがルチアの部屋だった。
床や机の上には、所狭しと歴史書が積まれている。
「……よし」
両頬をペチンと叩いて気合いを入れる。
(私の降霊術を活かす道の1つは、歴史の勉強。皇太子妃になるなら、一層頑張らないと)
ルチアの聖女としての能力、降霊術。死者と会話できるほど魔力は強くないが、死者の記憶をのぞき見る事なら出来る。
ルチアは修行を重ねて、ある程度は自らの能力を制御できるようになった。歴史上の人物の記憶をのぞいて勉強に役立ててきたのだ。
(近世末期以降の、帝国の重要人物たちの記憶を見ていきましょう)
ルチアは歴史書を開くと、そこに載っている故人たちの肖像画に手をかざして念を込めた。
「死者のみなさん、見てきた歴史の1ページを私に教えて下さい……」
3時間後。
ルチアは疲弊しきった顔で額の汗をぬぐった。汗でじっとり湿った背中が、冬の寒さで急速に冷えていく。
古ぼけた水差しから水をくんで飲み干すと、使いすぎた魔力が少し回復するのを感じた。
「帝国の歴史、血塗られすぎじゃない?」
思わずつぶやく。
3時間ぶっ通しで見た帝国の歴史は、目を覆いたくなる出来事の連続だった。
先住民への侵略と差別とジェノサイド。
別大陸から連行した異人種の奴隷化。
そして、40年前に起こった、皇位をめぐる骨肉の争い。
(現皇帝のチェーザレ陛下は、この皇位継承争いで母親を殺されている。だから苛烈な性格になったのかしら。交戦相手だった我が王国に黒龍を召喚するくらいに……)
でも、とルチアは思う。
(母親があんな最期の言葉を遺したのに、どうして残虐になってしまったのかしら)
チェーザレの母親の記憶をのぞいたルチアは、やりきれない思いでため息をついた。
(ダメだ。いくら歴史の勉強をしても、いくら死者の記憶をのぞいても、さっぱり分からないわ。どうして人間は憎しみあうのか)
頭を抱えるルチア。
ルチアの能力は、近い将来たくさんの人々を救う。しかしその事を、この時のルチアは知るよしもなかった。
(どうしても理解できないの。黒龍が召喚されたあの日の事。どうして私たちが『死ねばいい』と思われたのか。どうして身も心もボロボロに傷つけられなければならなかったのか)
考えていると頭痛がしてくる。
(いけない。能力が暴発する前兆だわ)
その瞬間、ルチアの脳内に流れこむ情報の奔流。
あの夏の日、黒龍の惨禍で殺された人々の記憶だ。
(熱い、熱い!)
黒龍の吐く炎に焼き殺された男の子の叫び声。
(水を下さい……。水を……)
黒焦げになって焼け跡を逃げ惑う令嬢の、ヒリヒリする喉の感触。
(お願い、目を開けて!)
若い婦人が取りすがる、首のダラリと垂れた赤ん坊。
死んでいったのは、黒龍の炎に焼かれたり、黒龍が巨大な卵から孵化した時の熱線や爆風にやられたりした者たちだけではなかった。
(血が、血が止まらないよぉ)
無傷で避難できたのに、1ヶ月後に口から血を垂れ流して死んでいった少女のうめき声。
(紫の斑点……。黒龍の呪いじゃあ……)
舌に現れた無数の内出血のしるしに怯える老人。
黒龍の惨禍を無事に生き延びた者たちも、原因不明の高熱、血便、貧血などで次々死んでいった。人々は「黒龍の呪い」と呼んで恐れ、患者を遠ざけた。
やがて白い目は、黒龍の被害者全体に向けられるようになる。健康体のルチアまで「呪われ聖女」呼ばわりされた。
ルチアはそんな扱いに対して、不満を抱く気力すら失っていた。
(私は生き残ってしまったんだもの。お母様や他の亡くなった人たちを差しおいて。幸せになる資格なんか無いんだわ)
ルチアの母は、ガレキの下敷きになって生きたまま炎に焼かれた。ルチアの目の前で。
直前まで、ルチアと母はかくれんぼをしていた。ルチアは雨戸の陰に隠れていて助かったが、鬼役だった母はまともに爆風を浴びたのだ。
火だるまになってもがきながら、母の口はパクパクと動いていた。
ルチアが助けようと手を伸ばした瞬間、ゴオッという音と共に崩れ落ちる母。
炎が迫る中、幼かったルチアは思わず逃げ出してしまった。
(最期にお母様は、何を言おうとしていたのかしら)
ルチアがいくら修行を積んでも、母の記憶だけは見る事ができなかった。
(きっと『助けて、ルチア』って言っていたんだわ。でも私は見殺しにしたの)
あの夏の日の惨劇を、ルチアは片時も忘れた事はない。
(私の人生が苦しいのは、あの日生き延びた罰なのね)
自分がかくれんぼで鬼になっていれば。自分が母を助けていれば。
叔父から何度も母の死について責められたのもあって、ルチアの罪悪感は際限なく膨れ上がっていた。
しかし、そんな人生の中で、唯一ルチアの光明となっている記憶があった。