第11話 何でお前が生きている
今回は残酷な描写が多いです。苦手な方は飛ばして下さい。
次話冒頭に簡潔なネタバレあらすじを載せます。
10年前。
その夏の日は朝から暑く、雲一つ無い快晴だった。
カッシーニ分家邸のバルコニーからは街全体が見渡せる。サンタアクアは、大きな河の三角州の上に出来た街だ。「水の都」と呼ばれている。
赤いレンガ作りの可愛らしい家々。
合間を縫って流れる川面の、キラキラした光。
その上を行くゴンドラは、まるでおとぎ話の世界から抜け出してきたようだ。
ところどころに点在する公園では、プラタナスやハナミズキが涼しい木陰を作っている。
海の方で煙突から白い煙を上げているのは、サンタアクアの一大産業である造船所。
そこで占領地から連れてこられた人々が働かされている事を、当時のルチアは知らなかった。
朝食の後、「癒しの聖女」だった母は、ルチアの家庭教師代わりになって歴史を教えてくれていた。しかし、幼いルチアはすぐ飽きてしまった。
「お母様、休憩しましょうよ」
鉛筆を鼻と上唇の間に挟んで主張するルチア。
「そんな調子じゃ、立派な聖女になれませんよ。能力発現前から勉学に励まなくては」
困り顔の母。
「ちょっとだけよ。良いでしょう?」
ルチアは甘えた声を出した。
「空が真っ青で綺麗なんだもの。庭でかくれんぼがしたいわ」
この頃はまだ、ルチアは甘え上手で無邪気で勉強嫌いだった。
「仕方ないわね。1回だけよ」
根負けした母は、庭に出て噴水の縁に座り目を閉じた。そのまま数を数え始める。
「いーち、にー、さーん。もーいーかい」
「まーだだよ!」
ルチアは隠れる場所を探した。バラの茂みの中? いやいや、トゲが痛そう。
その頃、帝国の天空馬車がはるか上空に現れた。
「また偵察か」
「サンタアクアは爆撃された試しが無いからなぁ」
地上の人々は気にも留めない。
ルチアたちのかくれんぼは続いていた。
「よーん、ごー、ろーく。もーいーかい」
「まーだだよ!」
ルチアはまだ迷っていた。噴水の裏? いやいや、すぐに見つかってしまう。
帝国の天空馬車は、呪わしい黒龍の卵を積んでいた。直径1.5mほどの黒い球体だ。
「いいか、投下から45秒で卵が孵化して黒龍が顕現する」
「それまでに急上昇して逃げないといけませんね」
乗りこんだ魔導師たちが会話している。
母は相変わらず数を数えていた。
「なーな、はーち、きゅー、じゅー。……もう良いでしょう?」
ルチアは慌てて雨戸の裏に隠れた。
「もーいーよ!」
その瞬間。
目のくらむような紫の閃光が上空で炸裂した。続いて凄まじい爆風。
体が浮き上がったと思った瞬間、ルチアは気を失った。
どれくらい経っただろう。
ルチアは気がつくと、雨戸の下敷きになって倒れていた。
背中に感じるのはガレキの感触。
(家を爆撃が直撃したのかしら……)
そんな事を考えながら何とか這い出すと、目に飛びこんできたのは地獄絵図だった。
家は丸ごとガレキの山になっていた。バラの茂みが炎を上げて燃えている。そして、崩れ落ちた噴水の下敷きになってうめいているのは……。
「お母様!」
母の顔はやけどでパンパンに腫れ上がっていた。美しかった赤毛はチリチリに焦げ、腕の皮膚はズルリとむけて垂れ下がっている。
「ルチア……」
ルチアはガレキをどかそうとしたが、子どもの腕ではどうにもならない。
「お母様、今助けを呼んでくるわ!」
何か言おうとする母の言葉を待たずに、ルチアは駆け出した。
崩れたレンガ塀を乗り越えて外に出ると、見渡す限りの家がペシャンコになっていた。
あちらこちらで火事の火の手が上がっている。空は煙のせいで夕暮れ時のように暗かった。
そして街の中心部には、炎を吐き出して暴れ回る、巨大な黒龍が顕現していた。
「お母様が下敷きになっているんです! 助けて下さい!」
ルチアは、逃げていく人々の群れに呼びかけて走り回る。しかし、誰もがそれどころではなかった。
大半の者がやけどを負っていた。
むけて垂れ下がった皮膚が地面につかないように、腕を前に突き出して歩いている。
服は焼けてしまい、みんなほとんど裸。
黒龍の卵が孵化した時の熱線を、ルチアは雨戸のおかげで運良く浴びずに済んだのだ。
川は炎を逃れて飛びこんだ人たちで一杯だった。
大やけどを負って飛びこんだ人たちは、長くは泳いでいられず、次々と沈んでいく。
さっきまできらめいていた川面は、今や赤く膨れあがった死体でいっぱいだった。
黒焦げで死んでいる母親の乳房を必死に吸う赤ん坊。
防火水槽に飛び込んだまま息絶えて浮かんでいる妊婦さん。
生きたまま火がついた馬が、狂ったようにいななき走り回っている。
誰も呼び止められなかったルチアは、母のところに戻ることにした。
「お母様! 私が頑張って助け出すから……。ああっ!」
やっと帰ってきた我が家の庭。そこで目にした光景に、ルチアは悲鳴を上げた。
母が生きたまま燃えていた。
バラの茂みから飛び火したようだ。
全身火だるまになってもがく母と、確かに目が合う。
母は何か言いたげにパクパク口を動かし……。次の瞬間、ゴオッという音と共に崩れ落ちた。
母を飲みこんだ炎が、ルチアにも迫る。ルチアは思わず逃げ出してしまった。
その後ルチアは、避難する人波に揉まれて街をさまよった。
黒龍は数時間後には、足の方から真っ黒い雲に姿を変えて消滅した。自らの強大な魔力に体が耐えられなかったのだ、と誰かが言った。
黒い雲はいつまでも上空に残り、タールのような粘り気のある黒い雨を降らせた。
壊滅した街からは、一晩中火の手が上がり続けた。
街中が見るに耐えない姿の負傷者であふれている。
「水を下さい」
「助けて下さい」
ルチアにはどうすることも出来ず、見殺しにするしかなかった。
何体もの死体につまずいた。
最初は毎回詫びていたが、次第に感覚が麻痺していく。
時々踏んづけて、焼けた皮膚がむけて滑った。腐った死体は、ルチアがつまずいただけで関節が外れ、肉が飛び散った。
靴底に穴が開いて足が痛くなっていたルチア。自分と同い年くらいの子供の死体から脱げた靴を拾って履いた。
正常な感覚なんて、とっくにすり切れていた。
翌日。焼け跡で助けたジーナに見送られて、ルチアは救護所にたどり着いた。
救護所は完全にパンクしていた。スペースも薬も圧倒的に足りていない。
床に敷かれたゴザの上に横たえられた負傷者たち。焼けただれた肌に塗れるものは、ひまし油と赤チンしかない。
ウジ虫が耳に入りこむと、重傷者は決まって正気を失う。しかし、耳栓にする脱脂綿すら不足していた。
叔父が救護所に迎えに来たのは、その日の午後だった。
「叔父様!」
ルチアは叔父に飛びついた。
「ルチアか! 姉上は?」
当時の叔父は、まだ20代の青年だった。真っ青な顔の叔父に、ルチアは泣きながら母の最期を語った。
話を聞いた叔父は、しばらく沈黙していた。
「……お前が、かくれんぼしたいだなんて、わがままを言うから」
叔父は声を怒りに震わせ、ルチアを我が身から引き離した。ルチアはビクリと身をすくめる。
「姉上は立派な癒しの聖女だった。綺麗でお淑やかで優しくて、僕の憧れだった」
叔父はガックリと膝をついた。
「その靴、お前のじゃないだろう。死体から盗んだのか」
図星だ。ルチアは黙りこんでしまった。
「何でお前が生きているんだ? 姉上じゃなくて、お前が生きているのは何でなんだ!」
叔父の絶叫は、10年後の今もルチアの耳に焼きついて離れない。
(忘れるところだったわ。私は生き延びるべき存在じゃなかったって事)
ルチアはフラフラと庭園をさまよった。
前方に灯りが見える。いつの間にか宮殿近くに戻ってきていたようだ。
紳士淑女の話し声が聞こえてくる。披露宴はまだ続いているらしい。着飾った人々は、自分とは別世界の人間のようにルチアには思われた。
(ジーナを呼んで帰ろう。ロレンツォ様には、明日詫びよう)
しかし、近づいてみると、何か様子がおかしい。人々は歓談しているのではなく、戸惑いおびえてささやきあっているようだ。大広間の中心に人だかりが出来ている。
ルチアの姿をみとめたジーナが飛んできた。
「ルチア様、ララちゃんが……」
動転したジーナに手を引かれるまま人だかりの中心に進む。そこには衝撃の光景が広がっていた。
チェーザレが青筋を立てて玉座の前に立ち上がっている。彼の足元には、割れたワイングラスと……。血を吐いて倒れ伏すララがいた。息をしていない。
立ちすくむルチア。チェーザレはこちらに気づいて近寄ってきた。口元には薄ら笑いを浮かべているが、視線は氷のようだ。
「呪われ聖女よ。お前のお気に入りだった給仕が死んだ。朕のワインの毒味をしたら血を吐いたのだ」
チェーザレは告げた。
「このワインは、お前の夫のロレンツォ皇太子から朕に贈られたものだ。……これが何を意味するか、分かるだろう」
チェーザレがルチアの後ろに視線をずらす。そこには、ルチアを追ってきたと思しきロレンツォが立っていた。
ルチアはロレンツォと共に、絶体絶命のピンチに立たされた。