世界が変わった日 1
じのぶんを書く練習をするます
アスファルトを薄らと濡らす雨粒を受け、猫背の男が一人、恨めし気に天を仰ぐ。
時刻は午前四時。
男の右手には、お独り様サイズの膨れた可燃ごみの袋。
向かう先のゴミ捨て場には、既に幾つものゴミ袋が山積していた。
【ゴミ出しは、ルールとマナーを守りましょう】
【分別はキチンと】
【ゴミは朝の七時から八時三十分までにお願いします】
ガシャン、とゴミを放り込み、何か月も整えていないボサボサの頭を搔いた男は、西に見える濃い雨雲をその虚ろな目に捕らえると、小さくため息を吐き、三十メートルほどの帰路へと着く。
ガチャリ、と錠が落ちる。
一人の足音だけが聞こえていた住宅街に、深々と小雨が降る静けさだけが残った。
日が昇り、世界に音が溢れだす。
小鳥の囀り、奥様方の情報交換、車の排気音。
そのどれもを遮断し、朝方に眠りについた男が閉め切られたカーテンを開けたのは、空が紅く染まるころだった。
時計に目をやれば、針は天辺を少し回った程度。
夕焼けかとも思ったが、それには時間がまるで合わず、何よりも「紅すぎる」空に酷く不安を煽られた。
スマートフォンを見れば、表示は圏外。
全国を網羅する大手会社の電波が、こんな街中で途絶えるなどということは、男の記憶では十年以上遡らなければならないほどの珍事である。
現代人からすれば非常事態とも云える状態に、テレビをつける。 が、電源が入らない。
自宅のWi-Fiルーターが機能していない時点で予想はついていたが、こうなると現状が何もわからない。
引っ張り出したラジオもホワイトノイズを返すばかり。
試しにブレーカーを上げ下げしてみても、文明の利器が息を吹き返すことは無かった。
男は小さくため息を吐くと、おもむろに玄関から袋を持ってくる。
カラリ、と庭に面した大窓を開くと、袋の中身をむんずと掴み、庭に投げ放った。
袋には、大きく『野鳥の御馳走』とプリントされていた。
広い家で一人で暮らす男にとって、野鳥との語らいは外せない日課であった。
自分の食事よりも先に、彼らに餌を与える程度には。
程なくして、雀たちが庭を跳ね回りだす。
その姿に、日常が戻ってくる安心感を取り戻した気がした。
そんな男の姿を目ざとく見つけ、ベランダの手すりに鴉が舞い降りる。
わざとに金属を蹴りつけて存在を主張し、餌を強請るのだ。
追い払われないことを知った鴉は、毎日ベランダにやってくる。雨の日も、風の日もだ。
男はご近所トラブルの火種になりかねない鴉をあっさりと受け入れ、自分の食料を分け与えていた。
庭に来る鴉は二羽。 ダジャレではない。 鴉の行動はツーマンセルが基本である。
彼らは極上の餌場である男の庭を高らかに縄張り主張し、見張り役と食料確保役に分かれて行動する。
「空は紅いのに、お前らは変わらんな。 ん? よしよし」
手すりに停まり、小首をかしげ、羽を繕う鴉。
彼らにしてみれば、電気が止まっていることも、空の色が違うことも、生きるにおいては関係がないのかもしれなかった。
大好物のチーズとベーコンを与えられ、ご満悦な鴉。
平時であれば、森の方へと帰っていくのだが、おもむろに手すりを蹴りつけると、羽でバランスを取りながら、男の肩へと停まった。
いくら懐いているとはいえ、野鳥である。
特に、羽に何かが触れることを嫌がる鴉には考えられない行動だった。
現に、今までは手から餌を食べることもなかったのである。
「どうした」
「おいあほ間抜け。 もっと危機感を持て飯係」
肩の鴉を撫でようとした男の指が止まる。
「い、今しゃべらなかったか……」
いや、鴉が言葉を話すわけがない。
そう結論付けた男の足元からは更に。
「でかいの!」「でかいのあほ?」「でかいのごはん」「でかいのまぬけ」「まぬけってなに?」「ごはん!」
雀も話しているのか。
そうか、これは夢だ。
悪趣味な紅い空に喋る野鳥。
きっと現実の自分は熱でも出して、布団の中でおかしな夢を見ているのだろう。
男はそう結論付けた。
そこに見張りをしていたもう一羽の鴉が下りてくる。
今度は男の頭頂部にだ。
「ちょっと! 上位者に何て言い草よ! アンタは口が悪すぎるわ。 だから二年目なのにつがいが居ないのよ」
……上位者ってのが俺のことなら、その上位者の頭に停まるのはどうなんだ。
「はぁ? 鏡を見ろよ鏡を。 三年目の行き遅れにだけは言われたかぁねーな!」
「なによ! 弟の分際で姉に口答えしようっての!?」
「姉だ年上だって考え方が古いっつの! 今はタヨーセーの世の中なんだよ!」
「なんでも良いが、俺を挟んで喧嘩をするのはやめてくれ」
肩と頭でばっさばっさと揉められた男は、更にボサボサになった頭を撫でつけ、ガックリと肩を落とした。
れんしゅう、がんばるます