助けられたお礼のつもりが……
「ごめんね~散らかってて」
「……あ、はい」
一言で状況を伝えると、私の予想していた光景が広がっていた。
そんな中、せめてもと四人掛けのテーブルの上を片付ける桜華さん。いつ食べたのかわからない空のコンビニお弁当や、飲み終わったペットボトルをゴミ袋に放り込み。捨てる際の分別は気にせず、とりあえず必死だった。
「あ、適当に座ってちょうだい」
一人暮らしの筈なのに幾つものグラスを重ね、キッチンへと運んでいく。
「……わかりました」
しかも洗うのかと思えば、そのままシンクに入れるだけ。
ただでさえ悲惨な状況に蓋をする辛うじた応急処置。
……なんか、見てると不安だな。
これといって家事に腕があるわけでもなくも、桜華さんの手際を見ているとぎこちない。まるで自分の家のはずなのに必要なあれこれを独り言のように呟き、手当たり次第に戸棚を開けてはリビングとキッチンを行き来する。
「ふぅ……お待たせ」
「いえ、大丈夫です」
ようやくひと段落したのか、満足げな顔をする桜華さんが向かいの椅子に腰かける。
こうやって面とすると、どこからどう見てもしっかりとした大人の女性だ。私よりも年齢は上で、座っているだけなのに凛としてみえる。
「あっ! 今、飲み物持ってくるね!!」
「お、お構いなく……」
何かを思い出したように席を立ち、小学生男子のような落ち着きのなさ。これで何度目かのキッチンとリビングの往復し――、
「何か飲めないのってあったりする? お水とお茶、あとはコーヒーくらいしか……あ、オレンジジュースもある」
思いつきでの行動が印象的だ。
「お茶で大丈夫です」
改めてひと段落し、渡されたペットボトルのお茶を両手で包み込む。
「昨夜はほんとぉ~にぃっ、ご迷惑おかけしました」
テーブルに額がくっつきそうなほど深々と頭を下げ、桜華さんからの謝罪に戸惑ってしまう。
助けられたのは私で、こうしてお礼をされるのは逆だ。
「むしろこっちが先に助けられたので、頭を上げてください桜華さん」
「それはそうかもだけど、ほらタクシー代とか払ってくれたでしょ? あれもしっかりと返すつもりだったのに急に帰っちゃうし、気を悪くさせたんじゃないかなって」
「お、驚くことはありましたけど……気にしないでください」
昨日の出来事を思い返し、桜華さんのことが直視できなくなる。
そう、あれはちょっとした事故だ。不意に抱き着かれて気が動転し、かと思えば急に服を脱ぎだしたことに情報処理が追いつかなかった。
こうして冷静に考えると、見ず知らずだった桜華さんと濃い時間を過ごしたと思う。
「だからどうか、頭を上げてください」
「本当に怒ってない?」
「私が怒るようなことはありませんでしたから」
「そ、そうなの?」
恐る恐ると顔を覗き込んでくる桜華さんに、私は何度も首を縦に振った。
大人な雰囲気から一転、子供じみた態度へと変わる。感情に喜怒哀楽があり、まるでジェットコースターのような人だ。
「とりあえず、タクシー代返すね?」
「助かります」
現金を直接手渡しする光景は、確かに人目を憚らないと色々な誤解を生みかねない。元より返ってくる見込みもなく、あの状況から助けられたことを考えれば安い物だ。
これでしばらくは安心かな。
温かくなったお財布を鞄にしまうと、私と桜華さんの間が僅かな沈黙が生まれた。
「……」
「……」
正直、これで桜華さんの用は済んだはずだ。
どう立ち去ろうかと言葉を探し、視線をあちこちへと彷徨わせる。ただ残念なことに、目に付くのは部屋の散らかりようばかり。
「……桜華さん、ちょっといいですか」
「は、はい」
どこか緊張した面持ちの桜華さんを前に、私は席を立った。明日も学校があるため制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を何度か折って捲る。
「この部屋片づけていいですか?」
「……いいの?」
普段は自分の部屋で手いっぱいなのに、謎に湧き上がるこの気持ちに身を任せる。
「いや、一緒に片づけるんですよ」
「……へぇ?」
私の申し出に驚く桜華さんは、さらに瞬きを繰り返して真っすぐと見据えてくる。
だから私も、有無を言わせずに見つめ返す。
◇ ◇ ◇
最初はてっきりと、仕事が忙しくて家事に手が回らないのかと思っていた。
「で、掃除道具はこの先にあると」
「た、確かねぇ~」
笑って誤魔化そうとする桜華さんに、私は呆れを隠せなかった。
玄関を入ってすぐ、宅配で届いた某通販サイトのロゴ入りが印字される段ボールの山。その先にある収納スペースに、掃除機などが入っているとのこと。
どこからどう見ても掃除をする意思どころか、しまった場所すら曖昧な記憶力。
本当によく、今まで生活ができてきたなと感心してしまう。
「とりあえずここからですね。……カッターとこれらを縛るヒモとかってありますか」
「ん?」
「……せめて、ゴミ袋くらいはありますよね」
「たぶん?」
別にカッターはなくとも段ボールは解体できる。けど、こうも注文をする生活ならば縛るヒモくらいはないと捨てられない。
挙句、ゴミ袋の予備すら買われていない状況。
もしかしたら、すべて使い切った果てのレジ袋かもしれない。
「近くのコンビニで必要なもの買ってきますね」
「あ、お金は出すよ!」
掃除をするにしても、まず必要な物がない。
財布を取りにリビングへと戻ろうとしたが、慌てたように私を追い越す桜華さん。そして自分の鞄ごと持ってICカードを渡してきた。
「いくらかはチャージしてあるから、足りなかったらこれも」
そういって一万円札を一枚、何に入れるでもなくそのまま手渡してきた。
……いや、多すぎますよ。
最寄りの駅から少し離れたホームセンターに行けば、ちょっとしたDIYの材料でも買えそうだ。私も興味本位で動画を観たりもするけども、勝手に他人の家を改造するわけにいかない。
元より、メインは掃除だ。
「千円くらいあれば足りると思うので、こっちだけで大丈夫です」
「他にも飲み物とかも買ってきていいからね」
どこまでも他人を信頼しきった桜華さんに、私は少し怖くなった。
どれだけ親しくても自分名義のICカードは渡さないし、本人確認が必要とされる場合もある。いくらとチャージしていなくてもお金であることには変わらないのに、足りないと一万円札の上乗せ。
もし私が悪い人で、このまま帰ってこなかったらどうするのだろうか。
玄関をでる時、見送る桜華さんに横目を向ける。
「どうかした?」
「……何でもないです」
まさか目が合うとは思わず、素っ気なく言葉を返してしまった。
あまりにも純粋というか、他人を疑ったことがなさそうな桜華さんに申し訳なく思う。勝手に人柄を想像して、こうして大金ともいえる一万円札を手渡してきた。しかも掃除に必要じゃない物も買っていいと言われてる。
「なぁ~んか、試されてる気がするんだよな」
私としては掃除をさせてほしいとお願いした立場で、初対面の相手に恩を売るなんて考えていない。
目に見えない妙な感覚が纏わりついてくる。
「まあ、鞄は置いてきたし大丈夫でしょう」
ここで鞄を片手に部屋をでれば戻ってこないことを疑われ、同じマンションに住む身としては顔を合わせた時が気まずくなる。
そんなつもりは元よりなく、私は一万円札を握りしめ近くのコンビニへと走った。
マンションとコンビニを往復して一〇分少々。私は買ってきた物のレシートとお釣りを桜華さんに返した。
「じゃ、始めますか」
「よろしくお願いします」
「……一緒にやるんですってば」
まるで他人任せで敬礼してみせた桜華さんに、ツッコミを入れてしまう。
私がいない間に着替えたのか、パンツスーツからゆるっとした白のニットセーター。すらっとした生足を覗かせ、いかにも掃除をするには適さない格好。
……下、ショーパンとか履いてるんだよね?
同性なのに大人の魅力に当てられ、ちょっとだけ緊張してしまう。
「ここは私がやるので、洗い物とかしてもらってもいいですか」
「はぁ~い」
一瞬驚いた表情をされたけど、桜華さんは素直に指示を受け入れてくれた。
キッチンへと向かう後ろ姿をよそに、ひっそりと胸を撫で下ろす。
……こ、この気持ちは何だろう?
さっきよりも妙な感覚が強く、胸が苦しくなる。
「よし、取りかかろう」
それでも一呼吸置けば落ち着き、私は段ボールの解体を始める。
開封されたのとそうでないの移動させていると、いつの間にか段ボールの壁が出来上がっていた。
ちょっとした閉塞感があったけど、とりあえず場所を作りながらバラしていく。
「きゃ!」
「桜華さん!?」
キッチンから短い悲鳴に続き、食器が割れる乾いた音。
心配で駆けつけたかったが、道を阻む段ボールが邪魔をしてくる。積んだのは私自身だけど、まさかこうなるとは思ってもいなかった。
微かに慌てた声や物音が聞こえるが、状況が全くわからない。
「食器を割ったなら素手で触らないで下さいね!」
だから辛うじて声を張り、段ボールをかきわけてキッチンへと駆け込んだ。
「ごめんねぇ~心配かけて」
だが時すでに遅く、桜華さんは人差し指を銜えていた。
「桜華さん、足もとには気をつけてこっちに来てください」
「そ、そんなに子ども扱いしなくても……」
わざわざ手を伸ばすほどでもない距離だが、どこか抜けた雰囲気が拭えない。
不満げな表情をしながらも桜華さんは私の手を取り、軽く飛ぶように来てくれた。
「バンドエイドは鞄にあったはずだけど、消毒液って持ってなかったような……」
「これくらい舐めとけば大丈夫だよ」
「そうは言いますけど……まあ、それでいいなら」
リビングの椅子に桜華さんを座らせて、鞄からバンドエイドを取りだしていた。
けどそれが大げさすぎたのか、桜華さんは柔らかい笑みで切った指先を見せてくる。ぷっくりと赤い雫が浮かび上がるも、それほど深くはなさそうだった。
手持ち無沙汰になったバンドエイドをしまおうとも考えたが、私は桜華さんの手を取る。
「次は気をつけてください」
「そうするね」
せっかく用意したのもあれで、桜華さんの人差し指にバンドエイドを巻いた。
はにかんだ桜華さんと目が合わせづらくて、私は割れた食器を片づけてから玄関で段ボールの解体をする。
桜華さんといると、やっぱり調子が狂うな……。
大人のようで子供、年上なのに年下的な感覚で接してしまう。
それが嫌というわけではないけど、ちぐはぐな関係に戸惑いを隠せない。
整理のつかない感情を抱えながら手を動かし、あっという間に段ボールをヒモで縛り終えていた。
「確かに掃除道具はある」
ようやく収納スペース前に辿り着き、扉を開けて一安心した。
もしここになければまた買いに行く羽目になる。しかも今回は最低でも掃除機からフローリング用の床拭きシートと、コンビニで気軽に買える物ではない。
それに重量もあって一人で運ぶどころか、今日中に終わらせることが出来なくなる。
そうなると、日を改めてここを訪ねなくてはいけない。
「ホコリはかぶってなさそうだから、使ってはいるのかな?」
どうにか最悪な状況から回避し、私は目に留まった掃除機に手を伸ばす。コードを引っ張り、近くにコンセントがないか探した。
家電には詳しくないが、家で使う軽くて持ち運びが楽なのと似ている。
だから後は、コンセントがあれば十分だ。
「桜華さん。この辺にコンセントってありませんか」
キッチンにいるはずの桜華さんに声をかけると、なぜかびしょ濡れの姿で現れた。
「い、いったい何があったんですか!?」
「それがねぇ~洗剤を流してたらこうなってたの」
家事が不慣れとはいえ、ここまでとは予想外過ぎた。
せっかくの白いニットセーターが水を吸い、今にも滴り落ちそうなになっている。
……どうしてこうなるの?
呆れて私のようなんてどうでもよくなった。
「その格好だと風邪ひきますから、お風呂にでも入ってください」
「ソラちゃんだけに任させられないよ」
「……いえ、仕事が増えるだけなのでお気遣いなく」
子供のように渋る桜華さんの背中を押し、私は脱衣所へと向かわせる。
「着替えとかってどこにありますか」
「それくらいは自分でやるよ!」
扉越しに叫んだ桜華さんに、私は不安だったけど食い下がった。もし逆の立場だったら、気心が知れた仲でも恥ずかしいかもしれない。
微かに聞こえる衣擦れの音を耳に、静かにその場から離れた。
コンセントは呆気なく見つかり、私は何事もなかったように掃除機をかける。
玄関の掃除機がけが終わったらキッチンで洗い物、その後にリビングのゴミを分別作業。それからトイレにお風呂場もしておかないとかな? ……床磨きはまとめてやろう。
あれこれと頭でスケジュールを立てながら、脱衣所から漏れ聞こえる桜華さんの鼻歌を掃除機音でかき消す。
「やること多いな」
言って後悔したけど、請け負ってしまった身としては放置できない。
しばらくの間無心になり、ただひたすらに手を動かし続けた。
キッチンはものの見事に水浸しで、洗剤もどのくらい使ったのか泡まみれ。せっかくの水切り桶にグラスを並べているも逆さま、しかも底に溜まった水面に泡が浮かんでいる。
「洗い直しか」
どこか淡い期待があったが、予想通り過ぎて肩を落としてしまう。使ったら洗う癖もないようで、一人暮らしとは思えないほどの数がある。
ここに焦げついた鍋とかがなかっただけでも、少しはマシかもしれない。
軽く中を濯ぐだけで済み、さほど時間はかからなかった。
「冷蔵庫の中は、見たくないな……」
ここまで来たら徹底的に、と気を奮い立たせようとして抑制する。
だって、色々な意味で怖いもん。
見たところコンビニやお惣菜の食べ残しはなさそうで、その日買ったのを消費しているのだろう。飲み物も多分、グラスを洗うのが手間でペットボトルや紙パック。
しっかりと計画的な一面もある。
「あ、冷蔵庫は何にも入ってないから大丈夫だよ」
「それはそれでって!? お、桜華さん! 服を着てください!!」
隠そうとせず裸体を晒す桜華さんに、私は自然と叫んでしまった。
この人……本当に何なの!?
急に叫んだから驚いてか、小走りで遠ざかっていく桜華さん。扉の開閉音を耳に、声を荒げて上下する肩と呼吸を整える。
聞きたくなかった冷蔵庫事情も知り、私はキッチンを後にリビングへと移動した。
戻ってきたリビングを目の当りに、改めて感心してしまう。
……いい意味でだ。
こんな環境でよく寝起きができるなと思う。ゴミとか毎日のようにだしておいて気にならないのか、しかもこの惨状なのにやろうとしない心意気とは。
リビングの隣、おそらく桜華さんの寝室がある一室。バタバタと騒がしい物音には触れず、私はゴミの分別を始めた。
◇ ◇ ◇
それからどのくらい経ったのか。
「きゃ!?」
これで何度目かになる桜華さんの短い悲鳴に、私は一度手を止めた。
「桜華さん、割れ物は素手で拾わないでくださいよ」
「わ、わかってるってば!」
念のためリビングに顔を覗かせ、桜華さんに釘をさす。
そして何が起きたのか把握しておく。
……これといって何かが割れた音どころか、掃除の指示はだしてないし。今だって私が分別したゴミをまとめ終わったから、共有ステーションまで何度か往復するだけで済む。
ようやく片づいたといえる。
玄関からリビングに向かい、ふと足を止めてしまう。
「桜華さん。こっちの部屋とかは片づけなくていいんですか」
リビングで何が起きたのか気になるも、それ以上に手をつけなくていいと言われた空間。
3LDKの内、玄関から始まってリビングとキッチン。それに洗面所やお風呂場など生活に必要最低限の場所しか掃除していない。
残り二つの空間は手つかずだ。
「う、うん、だいじょ~ぶ! こっちは物置というか……使ってないから」
「はぁ……」
慌てたようにリビングから駆けてきた桜華さんに、私はどこか不思議に感じながら背中を押された。
「で、今度は何をしでかしたんですか」
「ちょ、ちょっと驚いただけで何もしてないもん!」
「本当ですか?」
何かを隠す桜華さんを怪訝に、私はリビング内を見回した。
部屋に放置されたゴミの中から発掘された、円柱状の掃除ロボ。充電が終わったのかさっそく働いてくれているが、掃除機をかけたばかりだ。それに市販の床拭きシートもかけている。
こうして働いているということは、私の目に見えないゴミを集めてくれていた。
こんな頼りになる機械を放置しておくとか、逆に欲しいくらいだ。
桜華さんが悲鳴を上げるようなことは起きていない。
そうなると――、
「……寝室、まだ片づけてないですか?」
「か、片づけてる途中だもん!」
視線をリビングの横、桜華さんが寝室にしている扉へと向けた。
同じ間取りだからわかる私を横に、入ってこないでと扉の前で立ち塞がる桜華さん。さすがに他人で、プライベートもあるため任せている。
ただこうも必死になられると、不安でしかない。
「聞きますけど、何もしてないわけじゃないですよね」
「そ、そんなことするわけないじゃん!」
「……」
昨日の今日で、あって数時間と経っていない関係。
にもかかわらず、どこか接しやすい友達的な感覚がある。それでも楓や夢凪とは別で、年が上の人はいないからかもしれない。
なのに話しやすい、どころか急に距離が縮まった気でいる。
だから強気に視線で問い詰めてしまう。
「少しくらいは片づけたもん……」
「……ならその言葉、信じます」
尻すぼみに肩をすぼめる桜華さんに、私は腰に手を当てた。
「じゃ、私はゴミを捨てに行ったら帰りますね」
「え?」
この状況がいつまで続くか不明だが、とりあえずは私の気が済んだ。これで最低限の生活には支障がない筈と願いたい。
こっちから勝手に申し出て、ある程度の目途が立ったから帰るつもりでいた。
そのことを驚いたのか、桜華さんは壁時計に視線を向ける。
「……だってまだ八時だよ?」
「……いや、八時ですよ?」
不思議がられたので、逆に問い返してしまう。
普段の私だった帰宅して家でゴロゴロとしている。明日の授業で提出のある課題があればするが、まだ新学期が始まったばかりでない。
それに何かあれば楓大先生様がいる。
どうにか泣きついて、丸写しはしないが教えを乞えばいい。
それで何度も切り抜けてきた。
けど今日だけは、時間もあって気が向いたからここにいる。
「まだなんにもお礼してないよ?」
話はあると言われ招かれたが、確かにそうだ。
「……タクシー代返してもらいましたし、それだけ大丈夫です」
「けどけど、ほら! 夕ご飯とか食べてかない」
「帰れば用意してくれてますし、そこまでしてもらわなくても……」
お母さんには帰りが遅くなると連絡を入れている。
まさか同じマンションの下階。しかも出逢って間もない女性の部屋に招かれ、掃除をしているのは予想外だろう。
挙句夕飯まで食べてきたとなれば、絶対に小言で怒られる。
勝手に大掃除を始めてお腹は空いているが、桜華さんが料理をする姿が思いつかない。どころか、ここまでコンビニやスーパーの総菜で生活をする人ができるのか? 私が手伝わないと掃除もままならないのに料理をする。……食べてもお腹を壊さないよりも、口にしても大丈夫なのか不安でしかない。
桜華さんの力量を危惧していると、インターホンが鳴った。
「はぁ~い。……あ、そうです。今開けますねぇ~」
「……?」
まるで顔見知りが来たのか、桜華さんは玄関へと消えていく。
それが数回と続き、私は頭痛を覚えた。
「これ、なんですか?」
目の前に広がる光景に、桜華さんに聞かざる得ない。
「え、お礼も兼ねた夕飯だよ?」
そういう桜華さんは、すでに席をついている。
テーブルに並ぶデリバリーの数々、いつの間に桜華さんが注文したのか驚きを隠せない。ピザに始まりお寿司、私でも知るお店の総菜やデザート。
これでもかと運ばれ、女子二人で食べ切れるか疑問でしかない。
もし断ったら桜華さんが一人で食べることになり、それすらも数日かかる可能性がある。挙句、ダメになって捨ててしまうのは目も当てられない。
……遅いかな?
念のためお母さんに連絡を入れ、私は席に着いた。
「その、いただきます……」
「うん!」
自信はなかったけど、わざわざ桜華さんが用意してくれた。それに、こうした夕飯にもちょっとだけ憧れもないわけじゃない。
いつもご飯を作ってくれるお母さんには申し訳ないが、私は両手を合わせた。
「普段からこんな生活送ってるんですか」
「ん~そんなことはないんだけど……ちょっと、訳ありかな」
家ではスマホをいじりながらだと当たり前のように怒られてしまう。テレビを観るにも朝はお父さんがニュース番組、夜はお母さんが好きなバラエティーが流れている。これといってこだわりもなければ、某ネット配信サイトも登録はしていて各部屋でも観れるから気にしない。
それに家族以外と食べる機会も、夢凪に付き合って学校帰りくらいだ。
しかもほぼ初対面の相手に招かれ、ここまで手厚くされることがあるだろうか?
「ん~美味しぃ~い」
「そうですね」
大掃除で身体を動かして、時間的にもお腹が空いていたため何でも美味しかった。
こういったジャンキーな食事も……たまにはありかな?
そう感じながら食べる手が止まらず、次は何を食べようかと視線がいってしまう。
だから自然と私の言葉数も減り、空腹が満たされていく。
「桜華さんって、どんな仕事してるんですか」
「私? 事務職っていうのかな、いつもデスクに座ってパソコンと向かい合ってるよ」
急な質問だったからか、桜華さんは驚いたような表情をしていた。
私的にも唐突だったと思ったけど、楓や夢凪と違った大人の視点から聞けることがある。
「実は進路のことで悩んでて、何かお話聞けないかなぁ~って思いまして……」
「進路かぁ~私で役に立てることあるかな?」
首を傾げた桜華さんが、口にしたお寿司を頬張りながら考え始めてくれた。
生活力はアレだけど、初対面の相手に対して真剣に話を聞いてくれる。それだけで嬉しくて、つい耳を傾けてしまっていた。
「私もあれこれ悩んだけど、とりあえず大学には行ったかな? 両親もそれを望んでいるみたいだったし、その内やりたいことでもみつければいいやって感じだった気がする」
「……そう、なんですね」
それを聞いて考えてしまう。
桜華さんも私と似ていて、楓の言葉通り『とりあえず』で大学に進学した。
「ごめん、参考にならなかったよね」
「そんなことありません。聞けて良かったです」
困ったように笑う桜華さんに、私の方こそ申し訳なかった。
……やっぱりそんな感じでいいのかな。
それでもどこか、胸に引っかかりのようなモノが取れた気がした。誰かに言われて決めるのも変な感じがするけど、少ない意見を参考に至った私なりの答えだ。
「ソラちゃんって真面目なんだね」
「……どこがですか?」
柔和な笑みで別のお寿司を頬張る桜華さんに、私は不思議で仕方なかった。
真面目と言われるほど頭も良くなければ、ただ何となく日々を過ごしている気がする。しっかりと目標を掲げる楓や、小さい頃の夢を叶えようとする夢凪とは違う。
だからこうして進路について悩まされてる。
「ほら、そういうところだよ」
眉間を人差し指で軽く小突かれ、私は面をくらってしまう。
「しっかりと将来のことを考えて、自分なりの答えをだそうとしてる」
「けどそれって普通じゃないですか」
今度は揶揄うように笑う桜華さんに、私は痛くない額に摩って唇を尖らせてみせる。
けど、桜華さんは動じない。
「私はソラちゃんみたくそんなに悩んでないんだよ。周りから求められるがまま進んで、こうして社会で働いてる。……今だって、何がしたいとかみつかってないもん」
まるで自分のことを下げる口ぶりに、陰りのある桜華さんに戸惑ってしまう。本能的に触れてはいけない話題と察するも、上手く返せる言葉が見つからない。
「私と同じで桜華さんもみつかってないだけで、その……一緒に探していくのじゃダメですかね!」
励ますために咄嗟と口してみたものの、よく意味がわからなかった。
それは桜華さんもだったらしく、目を丸くさせている。
ううっ……何言ってるんだろう。
沈黙の間に私の思考は高速回転を始め、傍からすれば告白じみたセリフに近い気がする。
あまりにも恥ずかしくなってきて、桜華さんから視線を逸らしてしまう。
「そっか、一緒にか……」
「いえこれは言葉のアヤというか、ただ勝手に私が思っただけで……大人でもそういうこと悩むんだなって……」
これ以上の言い訳は変な勘違いを生みそうで、私は口を紡いで顔を俯かせた。
「……大人か。……そっか、ソラちゃんからそうみえてるんだ」
けど桜華さんは、機嫌よさげに笑い始めた。
何がそんなにおかしいのか、それでも桜華さんが気を悪くしていないのは感じる。こんな時どんな表情をすればいいかわからず、私は苦笑いを浮かべた。
「そんな大人から、ちょぉ~と提案があるんだけどいいかな?」
「……提案ですか」
ひとしきり笑って満足したのか、桜華さんは企みじみた表情で顔を近づけてきた。
少しだけ怖い感じもしたが、ここ数時間接してきてわかったことがある。桜華さんは裏表ない大人で、子供のような喜怒哀楽の感情表現が豊かだ。家事は壊滅的だけど、それもどこか私の空想していた『立派な大人の像』を壊してくれた。
悪い人ではない。
だから、耳を傾けた。
「アルバイトとかしてないんだよね?」
「そうですね」
「よかったらウチで働いてみない?」
「……学生の私なんかで出来る仕事なんですか」
勝手な想像だけど、事務職はお茶を汲んで書類整理。桜華さんも言っていたパソコンと一日中向かい合い、私にそれが務まるか不思議でしかない。
それに学生のアルバイトにしては、時間の融通が利かないと学業に支障がでる。雇う側としても授業の関係で遅れ、勤務時間が不規則だと困りそうだ。
「そ、そんなに悩まれると私的に困るんだけど……」
「ちなみにどんな仕事ですか?」
グルグルと一人で考えていても始まらない。
思い切ってアルバイトの内容を訊いてみると、桜華さんはぎこちなく張りついた笑みをしていた。落ち着きもなく視線を彷徨わせて、肩を竦めて人差し指でテーブルを指し示す。
「ウチっていうのは、ココのことで……あの、定期的にお掃除をしてくれないかなぁ~っていう仕事でして……はい……」
「…………」
私はたっぷりと時間をかけて言葉を噛み砕き、さらに意味を理解するため頭を悩ませる。
至った結論からどれだけ経ったかわからないが、チラチラと視線を向けてくる桜華さんと目が合う。
さすがにいつまでも黙っているのも悪く、率直に思ったことを口にする。
「イヤです」
「なんでぇ!?」
勢いあまって椅子を後ろに倒して立ち上がった桜華さんに、私は眉根を寄せる。
「だって、今日みたいなことをするんですよね? それって桜華さんが家事面倒で、都合よく私に押しつけたいんじゃ――」
「違うもん! いや、家事ができないのは事実だし、都合がいいと思ったけど……」
「ほら」
食い気味に反論してきたかと思えば、尻すぼみに声が小さくなっていく桜華さん。
そんな姿を目に、私の中で共感していた気持ちが冷めていく。
「待ってね、今家事代行サービスとか最低賃金の相場。それらを照らし合わせてソラちゃんが納得いくアルバイト代を――」
「必死すぎるッ!?」
スマホを片手に画面をタップし、ここで発揮されるOLとしての力量なのか。どこか緩い雰囲気の桜華さんとは思えない変わりように、私はツッコミを入れてしまった。
……はぁ、この気持ちは何なんだろう。
内心でため息を吐き、私を置き去りにネットで検索し続ける桜華さんを見据えた。
家族や友達といる時間とは違い、ゆっくりかと思えば慌ただしくなる空間。それもこれも桜華さんが原因で、私の知らない世界をみせてくれる。
それに、ちょっとだけ私と似た側面を持ち合わせていた。
出逢いからして偶然で、昨日の今日とは思えない距離の縮まり方。勝手かもしれないけど、どこか気心が知れたお姉さんのような存在に感じている。
……お姉ちゃんには申し訳ない。
「これ! この額ならどうでしょうか!?」
突きつけられたスマホのメモ帳画面に、私は小さく噴きだしてしまった。
そこには学生が月々出費する平均額を踏まえた上で、家事代行サービスや日本の最低賃金と照らし合わされている。そこから月々の支払額や方法と、この短時間で調べた文面が羅列されていた。
「もちろん必要で買った物のお金は返すし、交通費もだすよ!」
「いや、同じマンションですから」
そのことすら忘れた交渉に、私は目の前のスマホを優しく払い除けた。
まるで捨てられた子犬のような表情をする桜華さんに、真っすぐと向かい合う。
「この条件を吞むとして、私からも二つ要求があります」
「な、何でしょうか」
緊張した面持ちで背筋を伸ばした桜華さん。年下を相手に畏まり、どうにか引き留めるなら何でも呑む覚悟をした瞳。
だから私も真剣に向かい合う。
「週に三回、曜日は火曜と木曜。それと日曜にしてください」
「わ、わかった」
毎日通うわけにはいかないというか、ご近所の目もあるからの週三回。これでも多い方かと思ったけど、日を空けるほどおそらくこの部屋は汚れていく。
なら、二日に一回だったら掃除をする私の負担にもならない。
これが一つ目、学業とアルバイトを両立するための目算スケジュール。要相談した時期もあるが、曜日を固定しておくことで楓や夢凪と遊ぶ時間も作れる。
掲げた人差し指に次いで、中指を突き立てた。
「その内、日曜は一緒に家事をしましょう」
「……?」
私からの申し出に、桜華さんは眉を潜めて問うてくる。
「いつまでも私任せにして、桜華さんは恥ずかしくないんですか?」
「……た、確かに」
これだけで私の言いたいことを理解したのか、桜華さんは顎に手を当てて考え込む。
そして二つ目は、桜華さんの自立を促すことだ。
これまでしてこなかっただけで、家事とかは慣れの問題な気がする。偉いことを言える立場ではないが、自分の部屋は気づいたら勝手に掃除をしているからだ。
それが桜華さんには身についていない。
それは見て知っている。
だから、私と一緒にする機会を作った。そうすればミスしてもフォローできるし、桜華さんのためにもなって一石二鳥だ。
「これを守ってくれるなら問題ありません」
「わかった。それでお願いします」
間を置くことなく頭を下げた桜華さんに、私は苦笑いを浮かべてしまった。
……そこまで必死になられると、私の方こそ頑張らないといけないじゃないですか。
辛うじて部屋やお風呂場などの掃除はできるけど、料理の方はお母さん任せだ。授業での調理自習や気が向いた時にキッチンは立つが、胸を張って上手いとはいえない。私なりの成長も必要になってきた。
ほぼ見切り発車で、あれこれと条件を並べただけの関係性。
けど正直、このまま桜華さんと離れたくない気持ちもある。
何故かはわからない。
ナンパから助けてもらったことへの恩、あまりのだらしなさに見かねたのか。他にも気さくに接しられる人で居心地がいいなど、私の中でも答えはわからない。
「お、桜華さん。そろそろ顔を上げてくれません?」
「そうは言うけどほら、しばらくはソラちゃんのお世話になるし……」
交渉はすでについたはずなのに、テコでも動こうとしない桜華さん。頭を下げたままの姿に、私の方が困ってしまう。
これじゃあどっちがお願いする立場なのか。
「いい加減にしてくれないと、このお話はなかったことにしますよ」
「それだけは止めてッ!!」
コロコロと変わるその態度に、私の頬は自然と持ち上がる。
「とりあえず冷めちゃったこれ、どうにかしましょう」
「……そう、だね」
少し冷めたピザを温め直し、ネタが乾き始めたお寿司を小皿に取りわけてラップする。食べ切れないとわかった総菜は冷蔵庫にしまおうとして、冷やされたデザートが静かに待っていた。
「よかったら持って帰る?」
「……賞味期限に余裕があるので、明後日食べますね」
他人様の冷蔵庫事情で残っているかは疑問だったけど、桜華さんの食生活からすれば大丈夫な気がした。
別に食べたいわけではないが、興味がないわけじゃない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ~」
まるで私のことを食いしん坊と勘違いしたのか、ニマニマとした表情で頬杖ついていた。
「意地悪なこと言うなら家事しませんよ」
「ごめんなさい冗談です。他に何か食べたい物があれば買ってくるので見捨てないでください」
掌返しで深々と頭を下げてくる桜華さんに、私は自然とため息を吐いてしまう。
それから苦しいながらも夕食をお腹に詰め込み、普段より遅くなった帰宅となった。これといったお母さんからのお咎めはなく、着替えもせずにベッドの上で横になっていたら急な睡魔が襲ってくる。
特に争うこともなく身を任せ、気づいたら眠りに就いていたと思う。
◇ ◇ ◇
「で、進学にしたんだ」
「とりあえずそうすることにしてみた」
「ま、無難だよね~」
翌朝、進路の相談に乗ってくれた楓と夢凪には状況を報告した。
特に驚くどころか、まるで予想していたかのような表情で頷いてくれる。
これでいいのか分からないが、あれこれと悩んでいた一歩を踏みだせた気がした。他にも桜華さんの一件で不思議な関係となり、どうなっていくか今後わからない。
目下、家事スキルのアップが必要となった。
「ん?」
朝のちょっとしたHR前、楓や夢凪と他愛もない時間を過ごしていた。
震えたスマホをポケットから取りだし、自然と頬が上擦ってしまう。
「なになに、ソラちゃん機嫌よさげだ~」
「へぇ~珍しい」
「え、私って普段どんな表情してるの」
あまりにも二人が不思議がるため、逆に気になってしまう。
これといって機嫌が良いとか悪いはないし、朝起きた時の気分で毎日を過ごしていると思う。特に昨日は疲労と満腹感からぐっすりと眠れて、体はすっごく軽かった。
顔を見合わせる楓と夢凪は、考え込むように首を傾げる。
「授業の時とか結構上の空だよね」
「そうそう。何か考えてるように黙ってるかと思えば、よく話は聞いてくれてるよね」
「あと隠し事が下手かな?」
「うんうん、表情にでるからカワイイよね」
「ごめん、もうこれ以上は止めて」
こうして面と向かって言われると、どうやら私はぼんやりしているらしい。そんなつもりはないし、隠し事が下手と言われると疑問だ。
「ほら、考え事してる」
「まあそれが、ソラちゃんの良いところだよね」
「褒められてるってことでいいのかな!?」
二人に揶揄われ、私は声を上げてしまった。
その間もポンポンと通知音が鳴り、さすがにしつこくてサイレントモードにした。
ひとしきり私を弄って満足したのか、楓と夢凪の興味が自然とスマホに向けられる。
「で、誰からよ」
「もしかして彼氏ぃ~」
「そ、そういうのじゃないからホント!!」
頬杖をつく楓に、首を伸ばして画面を覗こうとしてくる夢凪。他にも周りから向けられる視線に、私は小さく頭を下げた。
相手は桜華さんだ。
昨日の帰りに連絡先を交換し、朝起きたらしょうもない通知が数件溜まっていた。特にみられて恥ずかしいわけではないが、桜華さんとの関係を説明しないといけない。
どうにかこの場を乗り切ろうと頭を悩ませていると、どこか生暖かい視線。
「そっか、颯来にも春がね」
「なんかあれだね、嬉しいような悲しいような」
遠くを見据える二人に、私は我に返って表情筋を念じるように揉み解す。
しっかりしろ、感情を表にだすな。
結局恋人疑惑を拭えぬまま予鈴が鳴り、私の一日が始まった。担任からの事務的な連絡を耳に、桜華さんから送られてきた画面にため息を吐く。
……料理か。図書室とかにレシピ本とかあるかな?
内容的には、桜華さんが私の手料理を期待しているとのこと。週に三回家事をする契約を結んだが、当然のように料理もそのうちに含まれていた。しっかりと内容を確認しなかった私のミスで、テスト勉強よりも難しいかもしれない。
色々と考えることは増えたけど、どこか胸がワクワクしていた。