朧げな記憶の少女
まるで過去の私と邂逅した気分だった。
勤めている会社の最寄り駅を利用するようになって二年ほどが経ち、何ら変わり映えのしない光景。中・高校生よりも大学生や社会人といった、大人が多く目立つ場所だと思う。それもこれも飲み屋などが軒を連ね、仕事終わりに寄るには便利らしい。
当の私は、お酒の匂いだけで酔ってしまう。
それでも学生、制服を着た子たちがいないわけでもない。
今だって、駅の方から歩いてくる制服姿の男の子が目の前を横切った。
……あの子、あんなところで何してるんだろう。
慣れたとはいえ毎朝の通勤ラッシュには気が萎え、帰りもほぼ同様で揉みくちゃにされてへとへとな日々。
それが続いて、疲れが限界を迎えた錯覚をみたのかと思った。
誰かとの待ち合わせをしていたが来ない、もしくは時間より早く着いてしまった様子で待ち惚けしている女の子。
その面持ちが、どこか深刻そうに悩んでいるように映った。
今すぐにどうしようと考え、けどそれが本当に合っているのかと迷走でもしているのか。絶え間なく流れる人の往来を気にも留めず、何かを探し求めている。
それが漠然としていて先が見えずに、進むべきキッカケや出来事をただ静かに待つ。
そんなほぼ受け身の状態で、運に任せた半ば自暴自棄。
私の場合は選択肢が二つあって、その片方を進んできた。今となってはそれが正しいのかわからないが、こうして無事に社会人をやれている。
まあ、結局は私の有りようだったのかもしれないんだけど……。
けど目の前にいる女の子は真剣で、ただ何となく生きてきた私なんかが声をかけていいのかと二の足を踏んでしまう。
「……ていっても、私が声をかけたら不審者に思われるか」
どのくらい女の子をみていたかわからないが、傍からしてただの怪しい人でしかない。それに何かと悩みの尽きない多感な時期、無遠慮に大人が横やりを入れていいものかも考えものだ。
……大人も悩みがないわけじゃないからね?
女の子からすれば私は他人で、力になれることがなさそうだ。
こうして目を惹かれたのも偶然でしかなく、やっぱり疲れているのかもしれない。ああ、働きたくないな。
帰っても一人には慣れたとはいえ、ここ数か月は私には応えたようだ。
「……?」
だから変わらず駅に向かおうと、脚を動かそうとして再び縫い付けられた。
明らかにナンパ目的で周囲を見渡す二人組。最近はみかけなくなった居酒屋のキャッチとは風貌が大学生っぽく、飲み屋街の方からも離れている。
これから飲みに行くにしては不自然で、女の子をみて吟味していた。
本能が告げる警告音に近くの交番を探すも見当たらず、土地勘も駅と会社くらいしか知らない。たとえ人通りがあっても、女の子が咄嗟に声を上げて助けを求められるか。もしくはその場から逃げだし、二人を振り切れるかが疑問だ。
「コ、コンビニ!?」
本当に偶然で、少し懐かしく感じた過去との邂逅。
目にとまってしまったから見過ごせず、気持ちだけが焦って落ち着かなくなる。気づいたらお世話になるコンビニへと駆け込み、苦い思い出しかないカップ酒を手に取っていた。
「袋、大丈夫です!!」
若めの店員さんに驚かれたが、私は気にせずにICカードで会計を済ませた。
そして店をでると同時に蓋を開け、水と見間違えてしまう液体を一気に煽る。
うぅ、この匂いと……味は……。
口の端から零すのも気にせず、大きく息を吐いてスーツの袖で拭った。
「まずっ……」
個人的に飲めたもんじゃないと思いつつ、急激にふらつき始めた視界で歩きだす。
そこからはよく覚えていない。
ただ一言。
「助けて!」
その言葉を耳に、私は女の子を引っ張っていた。
走りづらいヒールにもたつきながら駅の改札には向かわず、通りかかったタクシーが目にとまって手を上げる。真っすぐと前に進めているのか不思議だったが、どうにか乗り込んで家の最寄り駅を叫んでいた。
動きだす車内に私は身を任せ、シートに深く座り込む。
ダ、ダメだ……。意識が、遠のいてきたかも……。
重くなる瞼を開けていられず、ひんやりと感じる窓におでこを押しつけた。
……。
…………。
………………。
「……んっ?」
気づくと私はタクシーを降りていて、微かな雑踏音に辺りを見渡した。
どこか見慣れた光景に、心配そうに肩を貸してくれている女の子。近くから見ればまったく過去の私とは似つかずで、くっきりとした二重の奥に宿る黒い瞳。肩口で切りそろえられた黒髪にほぼノーメイクに等しく、しっかりと校則を守る性格なのかもしれない。
一目見て根が真面目な印象を与える女の子が、あんな場所で何をしていたのか。
「き、気持ち悪い……」
込み上げてきた嘔吐感に口もとへ手を当て、急いで女の子から離れた。
私のエゴとはいえ女の子を助け、この体たらくは格好がつかない。元より恩を売るつもりなければ、身体が勝手に動いていた。
「み、みず……」
視界の端に映った、見慣れた最寄り駅のコンビニ。私の生活にとって中心にも等しい場所を求めて一歩、踏みだそうとしたけど気力が湧いてこない。
「お、お水ですか? ……今買ってきますね」
その言葉を置き去りに、女の子は慌てた様子で駆けだして行った。
ああ、本当に良い子だな。
情けなくもその場にしゃがみ込み、深く息を吸ってゆっくりと吐きだす。気分は相変わらず最悪だが、誰かに何かをされていることに心の方に余裕ができてきた。相手が学生で見ず知らずだからか、多少なりの恥は甘んじて受け入れよう。
それから水のペットボトルと一緒にレジ袋を渡され、優しいその気遣いにどうにか笑みで応えた。
運よく女の子の前でもどすことはなく、親身にも家まで送ってくれるとのこと。
そこで初めて名前を知った、ソラちゃん。
どんな漢字を書くのかわからないし、訊いたところで多分覚えてない。頭は良い方でもなければそうでもなく、大学を卒業して働いていることに疑問を感じたことは多々ある。
だけど、そうしないと生きていけない。
親のスネをかじるのもいいが、理由もなく会社を辞めれば驚かれるだろう。それに私なんかが甘えてもいいのか? そんな生活を続けていく末に呆れられ、また放り出されるかもしれない。
……いや、あれは私が悪いわけじゃないな。
さっきよりも容体は回復しつつも、ソラちゃんに身を任せる。
「次はどっちですか」
「あっち」
こうして誰かと一緒にみる光景はいつ振りか。
最初は車だったけど、ちょうど同じ時期の四月から中学が始まる。だからそのため、通学路の確認がてら三人で歩いた。
先を歩くお義父さんの後ろに続き、隣からしきりに話しかけてくるお義母さん。
慣れない環境に戸惑いはしたものの、私にとって新たな生活が始まることに胸躍っていたのかもしれない。
それもつかの間だったけど、かけがえのない想い出だ。
鞄から取りだした鍵をソラちゃんに渡し、ようやく帰宅することが出来た。明日も仕事だと考えると、体調的に不安と憂鬱でしかない。
それでも帰ってきた我が家の安堵感に靴を脱ぎ、覚束ない足取りでリビングに向かった。
そこからは、ほとんど記憶がない。
あるとすれば何かにぶつかった痛みと、ソラちゃんの叫ぶような声。ここまでせっかく送ってもらったのに、何一つとしてお礼ができていない。
それにもう夜も遅い。
またさっきみたく知らない人に声をかけられたら逃げられるか? 時間的に補導なんてされたら目も当てられない。
勝手に助けておいてさらに迷惑をかけるとは、今度会った時はお詫びが必要だろう。
……今度って、何時のことだ?
微睡む意識の中、ぼんやりとそんなことを考えていると瞼が重くなっていった。
◇ ◇ ◇
「あ、あだまが……われる……」
レースのカーテンから差し込む朝日に、目が覚めた私の第一声だった。激しい頭痛に倦怠感、それに何故かリビングで下着姿という格好。
まだ春先とはいえ、これで風邪をひいたら上司に呆れられる。
脱ぎ散らかしたと思しきスーツはシワだらけで、微かにお酒の匂いも香っていた。
そこでふと、意識が外側へと向ける。
「……私、どうやって帰ってきたんだろう」
部屋を見回せば変わらずの散らかりよう、休日に気が向けばゴミをまとめる程度。あとはステーションに向かえばいいだけなのに、まとめたことの達成感に満足してしまう。
その繰り返しが続き、はや数か月が経とうとしている。
私の方から申し出ておいて、この体たらくは100で怒られるだろう。
だがこの有り様だ、何かを盗まれた痕跡もなければ荒らされたかもわからない。
頭痛に苛まれながらも、私は昨日の退社から今朝までの空白な時間を振り返る。
「ソラ、ちゃん……」
呼び慣れない名前が頭の片隅に引っかかり、そこからさらに考えようとして頭痛に襲われた。
どこからか鳴るスマホのアラーム音。
微かだが遠くからで、今の私にとっては天敵でしかない。
ズキズキと痛むこめかみ辺りを抑えながら、ゆっくりとした足取りでリビングをでた。
すると、玄関まで通じる廊下の途中にスーツの上着が一枚。アラームと同時に震えるバイブレーションがフローリングの上で動き、ぶつかり合っていた。
「ああ、出勤しないと……」
事情を話して午前中に半休を取りたいが、午後からの惨状を目の当たりに耐えきれるか。
ただでさえ二日酔いで、辛うじて歩けている状態だ。
「けど、行かなきゃ……」
それでも湧き上がってくる謎の使命感に、私は上着から取りだしたスマホのアラームを止めて脱衣所に向かった。
目が覚めたら下着姿だったから脱ぎやすく、少し熱めのシャワーを頭から浴びる。
手短にシャワーを済ませ、これでもかと水を飲んだ。多少なりと体調は回復し、着替えを済ませて部屋をでようとした。
「……そういえば、鍵」
いつもは鞄の内側にしまっている。
だけど今日は見当たらず、何故かコンビニのレジ袋が入っていた。中には空になったペットボトルが一本と、中々に贅沢な使い方。
そんな違和感に、意図した行動が見え隠れする。
「やっぱり誰かと……ソラちゃんって子がいる」
どんな子だったか思いだせず、それでも迫る出勤時間に鍵を探した。
これといって盗まれて困る物は通帳くらいで、建物自体オートロック完備で外からの安全性は高いと思う。問題は内部だが、ほとんどが家族世帯で悪い評判を耳にしない。一日やそこら鍵をかけなくても大丈夫な気がしなくもなかった。
軽い気持ちで部屋を後にしようとして、玄関のドアノブに手を伸ばす。
かけられた鍵にドアは押しても開かず、遅れてポストの中から物音が聞こえた。普段は帰ってくれば鍵とドアチェーンを徹底しているが、今日の違和感は拭え切れない。
恐る恐るポストの中を覗くと、探していた鍵があった。
「もしかしなくても、閉めてくれたんだよね」
ハッキリと思いだしたわけではないが、ソラちゃんっていう子の優しさを感じた。
これで安心して出勤することが出来る。
改めて身なりを整えようと全身を写せる姿鏡の前に立ち、私自身と向かい合った。
「……あ、想いだした」
あの頃とは少しだけ背丈が伸び、髪だって染めてウェーブをかけている。中・高校はブレザーで、大学になってからの私服は毎日が選ぶのに大変だった。
だけど今、こうしてスーツを着ている。
こんな姿を、昔の私が想像していたのだろうか。
「いってきます」
いつしか言葉にしなくなった挨拶を誰に向けるわけでもなく口にする。
未だにシャキッとしない気分だったが、最寄り駅近くのコンビニでビタミン剤とおにぎりを買った。
おそらくソラちゃんは、私を介抱してくれたに違いない。
このコンビニでお水と一緒に、有料になった袋まで買ってくれた。事の発端からすれば私の自己満足で、普段では絶対に飲まないお酒の力を借りて自爆する体たらく。状況からして、タクシー代も払ってくれたに違いない。
もし再び遇うことがあれば、返金とお詫びも兼ねて何かご馳走しよう。
社会人になって久しく、制服でどこの学校に通う生徒かわからない。現役の時だって気にも留めてこなかったから、探すのはほぼ不可能だろう。
ただ何となく、また遇える気がしていた。
私の勤める会社近くに住んでいて、あの駅を普段から使うのなら可能性がある。それはこの最寄りでもそうで、意識してないだけですれ違ってるかもしれない。
そんな楽観的な考えを持ちながら会社へと出勤し、その日の帰りに鉢合わせた。
これが恋愛マンガや小説、ドラマとかなら物語が始まるのだろう。
けど、そんな都合の良いことが起きないのを現実だ。
「なにが気のせいなの?」
重いため息を吐く後ろ姿に、私は明るく声をかけた。