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閑話1・歌舞伎町の最終兵器

 夕方から夜になる、いわゆる『黄昏時』の歌舞伎町を矢代は歩いていた。矢代のトレードマークである白いシャツに臙脂のエプロンは煌びやかな歓楽街では異質に見える。いいカモにしか見えない矢代は案の定、道行くキャバクラのキャッチやガールズバーの女の子達に声を掛けられている。だが、誰も彼に対して客引きをしているのではなく、気さくにあいさつを交わしているのがわかる。その対応は矢代が立派な歌舞伎町の住人であると示していた。

南国の熱帯魚のように派手で露出が激しいドレスの女性が矢代に近づいて、腕を絡めてきた。矢代の肉付きの悪い二の腕に、女性の豊満なバストが押し付けられる。普通の男なら鼻の下を伸ばすか、美人局を警戒しそうなシチュエーションでも矢代の顔色は何一つ変わらない。相変わらず口元に穏やかな笑みを浮かべ、開いてるのか閉じてるのかわからない細目をしなだれかかる女性に向けた。


「司さんやっほー」


「ああ、こんばんはルミさん」


「ねね、大事そうに抱えてるこの紙袋何?」


「ああ、これですか?頂き物のワインですよ」


「わぁ良いな美味しそう~~!!」


「ふふ、ごめんなさい、これはお渡しできません」


「ちぇ~」


「ルミ、司さんを困らせてないで客呼んできな!!」


「げ、ママに見つかった!!じゃあね司さん!」


「ええ、行ってらっしゃい」


 カツカツとヒールを鳴らしてルミと呼ばれた女性は人混みに消えていった。人混みに紛れる寸前にひらひらと舞うドレスの裾がまるでグッピーの尾びれのようだなと、とりとめのないことを矢代は思う。

原色の尾びれが人混みに消えていったのを見届けた矢代は自分の店に足を向ける。ひらりとエプロンの裾を翻し、矢代は身体の向きを変えた。その瞬間、ドン、と後ろからぶつかられてしまう。矢代はふらつくもなんとか転ばずに済んだ。急なことにきょとんとした顔をする矢代は身体に纏わり付く、どろりとした黒い靄のようなモノに気付く。そして、おやおやと笑みを深めた。そんな矢代の耳に怒鳴り声が届くと共に、肩を掴まれ身体を反転させられる。うわ、と小さな声を上げて矢代は何が起こったかわかりませんと、わざとらしい表情を浮かべぱちぱちと数度瞬きをした。衝撃で眼鏡の位置がズレたというのに、変わらず明瞭な視界に映るのは見知らぬ三人組の若者達だった。矢代の肩を掴むリーダー格の男が、ギッと睨み付ける。いきなり敵意を向けられ目を白黒させる矢代は無力な一般人そのものだ。


「おい、兄ちゃんなんかいうことあるだろ?」


「……と、言いますと?」


「はぁ?お前、兄貴にぶつかっといて何寝ぼけた事言ってんだ?」


「ぼやぼやしてねぇでちゃんと前見ろよ」


 自分を取り囲んで凄んでくる三人に矢代は釈然としない思いを抱えている様だ。歩き出してすらいなかったところにぶつかってきたのはそちらでは?という言葉は飲み込んだ。ここで余計な事を言うともっと面倒くさい事になるのは目に見えている。


「それは申し訳ないです」


「悪いって思ってんなら、誠意を見せて貰わないとなぁ?」


「誠意、ですか?」


「例えば、お前が持ってるその紙袋とか……な?」


「後は有り金おいていって貰おうか。ぶつかられた迷惑料って事で」


「お断りします。そもそも、僕は歩き出してすらいませんでしたから……ぶつかってきたのは貴方でしょう?」


「……穏便に済ませてやろうって言ってんだよ」


「勝手に因縁をつけてきたのは貴方方でしょう」


「あぁ!?んだと、こっちが下手に出てやりゃあ調子に乗りやがって……!」


 反抗的な態度に業を煮やしたリーダーが、矢代の胸倉を掴んだ。そんな中、矢代は心底不愉快そうに眉を寄せる。目の前の男達と言葉を交わす毎に身体に纏わり付く靄がどんどん増殖し、それと共に質量も増していくのがわかる。靄なのにどろりと粘度があるモノが触れるのは端的に言って気持ちが悪い。矢代はコレが何かを知っている。この靄は人の悪意や害意が溢れ出して形になってしまったモノ。矢代の店に来る客は大抵この靄を纏っている人ばかりだから、見慣れている上に、特に何も感じていなかった。なぜなら、自分の店に惹かれる人間はそういうものだと割り切っているから。だが、こんな予想外の場所で靄が身体を這う感触は悍ましいの一言に尽きる。

言いがかりを付けられていることよりも、身体に纏わりつく靄が不快で矢代は一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちが抑えられない。


「兄ちゃん達そこまでにしときな」


「俺達ずっと見てたけど、司さん何もしてないっすよ」


「ていうか、お前ら他所モンだな?じゃなかったらその人に因縁付けるなんて命知らずなことはしねぇよ」


「ここの住人にとって司さんに手を出すなんてご法度なんだよ」


「俺見てたぞ。ルミちゃんに声かけてあっさり袖に振られた後に矢代さんと親しそうにしてたから面白くなかったんだろ」


 いつの間にか4人を取り囲むように、近くの店の黒服達やホストが集まっていた。皆、三人組の若者を敵だと認識しているのがはっきりとわかる。急に敵意を向けられた三人組は、先程までの威勢の良さはどこへやら……その瞳の奥に怯えが滲んだのを、矢代は見逃さなかった。


「あの、僕に非がないとのことですし……離していただけますか?」


 弱り切ったような声で矢代はぼそぼそとした言葉を放つ。ゆっくりと瞼を開け、じっと闇を溶かしたような瞳で矢代はリーダーを見つめた。怒りも悲しみも憎しみも何も、何も映さない瞳に見つめられリーダーの身体は恐怖に支配される。ただ、その感情を恐怖だと自覚する前に、身体中の血液が沸騰して頭に上る。衝動に突き動かされるまま、振り上げた拳を矢代の頬に叩きこんだ。針金細工のように細い矢代の身体が一瞬浮いて、地面に叩きつけられる。派手な音を立てて割れたワインの瓶から、血の様に濃い赤紫の液体が流れだした。妙に年季の入った眼鏡がカツンと音を立てて地面に落ちた。アスファルトの地面に倒れた矢代は顔色を変えずに溜息を吐き出す。受け身を取らなかったせいで強かに打ち付けた身体中が軋んだ。地に伏せたままの矢代の肩を三人組の内一人が蹴りつける。何が可笑しいのか、それを見て三人組はゲラゲラと下品な笑い声を上げた。

周りの歌舞伎町の住人たちは予想外の出来事に反応が遅れてしまっている。我に返った一人が慌てて三人組を止めに入った。


「お前ら何やってんだ!」


「ち……邪魔しやがって……兄貴どうします?」


「もういいだろ……お前ら行くぞ」


「俺達に口答えするからこうなるんだよ!」


「気持ち悪い目をしやがって……」


 ゲラゲラと下卑た笑いを上げながら三人組は去って行く。矢代はじっと闇に飲まれたような瞳で、その後ろ姿を地に伏せたまま見つめ続けていた。



「お兄さん、大丈夫ですか?」


 成り行きを見ていたホストの一人がしゃがみこんで、矢代の背中を支える。起き上がった矢代の頬にハンカチで包んだ保冷剤をホストは充てがった。新品のスーツが汚れるのも構わずに、矢代を助け起こしたホストはどうやら新人らしい。いつものよう目を細めながら、ぼんやりする矢代をホストは心配そうに見下ろす。


「歯とか折れてない?」


「ええ、大丈夫です。ちょっと唇が切れただけで……」


「全く酷いことしますね」


「……因果とはめぐるものです」


「え?」


「ぎゃああああああ!!!!!!」


「人が刺されたぞ!!!!」


 突如響いた叫び声を皮切りに、数十メートル先が慌ただしくなる。呆然とするホストの目には先程、矢代に因縁をつけて殴った男が仰向けに倒れているのが映った。それもただ倒れているだけじゃない。その腹からは包丁の柄らしき物が生えていた。じわじわと広がる赤に、漸くあの男が刺されたことを理解する。取り巻きの二人は情けなく腰を抜かしながら、逃げようと無様にもがいていた。刺した犯人と思しき女は、野鳥の様な金切り声を上げ、黒服達に取り押さえられながらも男に近付こうと必死の様子。


「な……え……?」


「……助けてくださりありがとうございます。怜桜(れお)さん」


「なんで俺の名前……」


 しゃがみこんだままのホストの肩をポンと軽く叩き、矢代は騒ぎになんて興味がないとばかりに振り向きもせずにその場を立ち去っていく。






「という事が先日ありまして」


「へぇ、そりゃ災難だったな」


「でも、司さんに喧嘩売るなんて命知らずな奴もいたもんだ」


 あの刺傷事件から二週間ち、歌舞伎町ではよくある痴情の縺れとして人々の記憶から忘れられつつある。それ位、歌舞伎町の住人達からすると珍しくもないことなのだろう。

そんなある日、矢代は『Erlosung』でケイたちとまったりとお茶をしていた。前日の客の斡旋のお礼と情報交換とするつもりが、だらだらと取り留めのない話ばかりに花が咲いてしまう。珍しく……いや、この場合は矢代が来ることをわかっていて敢えてなのだろう……『Erlosug』も来客の予定がないらしく、ゆっくりしてけよ、とのケイの言葉に矢代は全力で甘えている。


「そういえば怜桜さん、先月の売上ナンバーワンだそうですよ」


「へぇ司くんの祝い?」


「ええ、助けていただけましたし」


  でも……そのまま傲って落ちぶれないといいんですがねぇ。


 そう言って矢代はにこり、と綺麗に微笑んだ。


「おお、こわ……さすが歌舞伎町の最終兵器」


「最終兵器だなんてそんなそんな……僕は基本的には人畜無害ですよ?」


 さらりといつもの微笑みで告げる矢代に、ケイの背筋に怖気が走ったのは言うまでもない。


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