一
新月の夜、湖に浮かぶ満月に触れれば常世へ行ける。ある村ではいつの頃からか、そのような言い伝えがあった。無論、ただのお伽話である。
曰く、ある貧しい少年がある夜、湖に落ちた。その少年は上下もわからぬほど暗く冷たい水の中、ただ必死に手足を動かしていた。すると、ふいに黄金に輝く丸い光を見つける。なんとか近づくと、それは水面に降り注ぐ月光だとわかった。指先がその煌めきに触れた刹那、少年はこの世のものとは思えないほど美しい世界に立っていた。ある、月のない夜のことだった。
誰も、本気で信じているわけではない。――ある少女を除いて。
月明かりがなく薄暗いため、その顔ばせは窺い知れない。だが、よく見ると艶のない黒髪は垂れ下がったままで、着物の裾は所々擦り切れていた。そこから伸びるか細い手足には、痣や傷がいくつも残っている。どう考えても、転んだだけでは出来得ぬものだ。
まだ齢十歳にも満たないであろうその少女は、真っ赤な裸足には気にも留めず湖へ向かっていた。理由はただ一つ、現世から逃れるためである。誰もが法螺話と理解した上で囁き合う常世へ通じる門のことを、少女は疑ったことがなかった。否、疑う術など持っていないのだ。
少女の父親であるという男は、実のところ血の繋がりなどないただの荒くれ者である。少女が赤ん坊の頃実父は死に、この男が転がり込んできた。仕事もせず酒に浸り、機嫌が悪くなれば少女の母親に当たり散らす。季節の一巡が五度ほど繰り返されたのち、母もまたこの世を去った。男の怒声と暴力は、幼い少女ただひとりに向けられるようになる。
村人は、少女らを腫れ物扱いして近づかない。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。男はここいらでは有名な悪党で、下手に刺激しようものなら何をされるかわからない。よって、少女が短い手足を動かし必死に酒代を稼ぐのを、理不尽な暴力を受けるのを、黙ってみているほかなかった。
少女は、皆が男を恐れていることを知っていた。少女は、自身に向けられる憐れみの情に気付いていた。少女は、逃げれば男がどこまでも追いかけてくるとわかっていた。
ゆえに、男が酔い潰れた新月の日しか機会はないと、そう考えていた。つまり今日のことだ。
湖に着く。当然のことながら、丸い輝きが揺れているはずもない。だが、少女の瞳はまだ翳ってなどいなかった。
――この季節だとまだ水は冷たいだろうが、すぐに死ぬことはないだろう。水深はよくわからないが、水草に足を取られるようなこともなさそうだ。そう判断し、湖に身を投げる、はずであった。
背後から少女を引っ張るものがいた。すぐに男のことがよぎって固まるが、羽交い絞めにされたところを見るとあまり背丈は変わらないはずだ。少女が一瞬力を弱めたことで、バランスを崩し後ろの人間もろとも倒れこむ。
少女が下敷きにした人物は、うわっと情けない声を上げた。痩せぎすの少女よりも大分ひ弱そうな、まだまだ幼さが抜けない少年の声だった。
少女は機敏な動きで慣れ親しんだ地面に立つ。邪魔をしてきた少年をねめつけるように見ると、彼も慌てて同じように立ち上がる。背はいくらか少年のほうが高いようだった。
「君ねえ、何やってるの! まだまだ寒いっていうのに――」
「声が大きい」
怒った口調の少年に、少女は静かで鋭い一言を突きつける。誰かに気付かれでもしたらどうするのだ、こいつは。いや、そもそも誰だろうかと少女は訝しむ。村の子どもにこんなのがいただろうか。覚えがない。
「一体、何をするつもりだったの?」
声を潜めたその問いに、少女は仕方なく説明した。常世へ行くためだ、と。少年はそれを聞くと、驚いたような困惑したような、なんとも言えない表情になる。
「ええっと。その話って、作り話だと思うんだけれど」
言いにくそうに少年がそう告げると、少女は珍しく顔色を変えた。驚愕と失望が入り混じった眼で少年を見る。
「作り、話?」
「うん。だって、常世へなんて、行けるわけないじゃないか」
……そうか。作り話、か。所在なさげにそう繰り返すと、急に現実が押し寄せてくる。つまり、少女が男から逃れる術はもう、一切ない、ということだ。
思わず乾いた笑みをこぼしそうになる。少女が疑う心を持つことと引き換えに、まったく希望のない未来が待っていることを思い知らされることになるとは。
いや、まだ何か手はあるはずだ。男は案外隙がないし勘も鋭いが、酔っぱらうとあのざまなのだから。どうにかする方法はあるだろう。
ふむ、と少女が腕を組み思案顔をしているのを、少年は困った顔で見つめる。突然独り言をぶつぶつ呟いたと思ったら今度はだんまりだ。少年のことなどまるで目に入っていないかのようである。
「あ、あのー?」
遠慮がちに声をかけてみる。そこで、少女はようやく目の前の存在を思い出したらしい。「そういえば、お前は誰だ」と無遠慮に質問をぶつける。
少年は、少し考えてから答えた。
「僕は、村はずれに住んでるんだ。体が弱くて、あまり家から出られなくてね……」
いまいち答えになっていない気もしたが、まあ納得はする。見るからに貧弱そうだし。少女は村人から避けられているため、全員のことを知っているわけではない。ほどんど会話もしないのだし当然だ。
しかし、今の少女はもうさして目の前の少年に興味を抱いていない。体が弱いのになぜ真夜中のこんな場所にいるのか、という疑問すらどうでもいいくらいだ。彼女の心情は、明日もまた同じ生活が来ることを思うと憂鬱になる、やれやれまったく、と言ったところである。
対して少年は、彼女のことが気にかかるようだ。薄暗い中でも傷は存外目に付く。難儀なことである。
視線に気付いた少女は、「これが気になるのか」と無造作に腕を晒す。傷のことをなんとも思っていないような動作だ。少年は悲しそうに、目を背けた。
「痛く、ない?」
「まあ、そりゃあ。見た通り」
「それは、誰に?」
「継父に」
少女はあくまで淡々と答える。村人は皆事情を理解しているので、わざわざ問われるとは新鮮な反応だ。家族の者は少女のことを伝えたりはしていなかったらしい。まあ、虚弱体質なら自身のことで手一杯だろう。まさか顔を合わせることになるとは思うまい。
「これから、どうするの?」
悲しげな表情を浮かべたまま、少年は訊いた。
「もちろん帰るが。いつあの男が起き出すかわからないし」
「そっか……」
そう言ったきり、少年は押し黙る。それは退屈を覚えるほどには長い沈黙であった。少女はもう帰っていいかな、と様子を窺う。そろそろ体を休めておかないと身がもたないのだが。
梟の鳴く声だけが月のない夜空に響き渡る。
ややあって、少年は口を開いた。「次の新月の夜、また――」




