第3話
私は男の腕の中で風を感じていた。
その、なんというか、お姫様抱っこのまま運ばれているのだ。
しかしなんという疾さだろう。
彼はこの足場の悪い森林を、夜の闇の中でさながら狼の如く俊敏に駆け抜けていく。
それでいて、私を抱える腕はあくまで優しく、窮屈さも感じない。
なんという脚力!
そしてなんという優しさ!
「すまないね。ここは走り辛くてトップスピードは出せないんだ。まだかかりそうかい?」
どこが走り辛いというのか。
熟練のシーフも真っ青の走りである。
平地ならどれほどの速度が出るというのか。
「もうすぐ森を抜けます。そしたら町の灯りが見えるはずだから…」
言いかけたその時、ふいに風が止んだ。
いや、男が止まったのだ。
なにかと思って顔を見上げる。
(顔が近い!顔が火照るのを感じる!)
その顔は前方をまっすぐ見つめていた。
「ミツケタゾ、ニンゲン!」
「ニンゲン!ニンゲン!」
ゴブリンだ。
子供のような体躯を持ち、緑色の肌をした亜人。
頭は悪いが、群れて行動するためすぐに仲間がやってくるのが特徴だ。
それが前方に三匹!
脚さえ無事なら軽く捻ってやる所だが、今はそうもいかない。
「驚いたな。ずいぶん顔が緑色の奴もいるものだ」
口調は余裕を崩さないが、顔を見ると本当に驚いているように見える。
ゴブリンくらい珍しくもないでしょうに。
この男の本心が見えない。
「カエセ!ホウセキ!カエセ!」
「オサ!オコッテル!」
ゴブリンどもがなにやら喚いている。
宝石というと……脱出する時についでに拝借したこの赤い宝石の事かしら。
それで奴らのリーダーが怒っていると。
「君、何か心当たりはあるか?」
「ありません」
即答した。
何度も言うが、泥棒は嘘つきなのだ。
「と、言う事だ君たち。人違いのようだよ」
男はあくまで紳士的態度で、しかし静かな威圧感を言葉に含ませてゴブリン達に語りかける。
しかし無駄だ。
ゴブリンに話は通じない。
「カエセ!ニンゲン!カエセ!」
だんだんゴブリンが興奮してきた。
危険な雰囲気だ。と思うのが早いか、
そのうち一匹のゴブリンが唐突に石を投げてきた。
彼が素早く跳ねてかわす。
「あっぶな…っ!なにすんのよ!」
「カエセ!カエセ!」
次々と石が飛んでくる。
男はふぅ、とため息をつくと、一瞬のうちに近くの大木の後ろに身を移し、私を降ろした。
「あっ……」
「ここで待っていてくれ。少し痛い目を見てもらおう。」
彼は比較的しっかりとした木の枝を拾うと、ゴブリンの前に無防備に身を晒した。
「ニンゲン!イタ!イタ!」
ゴブリンが石を拾う。
彼は棒を右手に持つと、その手を伸ばして棒を立て、左手を上腕のあたりに置いて前を見据えた。
まるで狩人が弓を引くのを彷彿とさせるそのポーズには一切の淀みはない。
まるで何年も、何十年も同じ事を繰り返したかのような迷いのない動き。
私はその動きに、そしてその真剣な眼差しに見惚れていた。
ゴブリンが振りかぶり、一石を投げた!
男は棒を両手で持つと、頭の左に立てて構えた。
初めて見る構えだ。どんな剣術とも違う。
しかし不思議と、その姿を見て負ける気がしない。
彼はきっと勝つ。
どこか妄想めいているが、私はなぜか確信していた。
右足がゴブリン側に素早く踏み込んだ。
その刹那。
カキーン!という快音が響く。
何をしたのか、全く見えなかった。
おそらくは棒を振ったのだろうが、太刀筋が見えない。
前からミシミシと音が聞こえる。
見ると、ゴブリンの横の木の幹に……
穴が空いていた。
ぽっかりと。
そうか。この男はゴブリンの投げた石を打ち返したんだ。
そして、その打石は前方の木の幹を射抜いて……
「いやいやいや!それだけで木に穴が空くはずないでしょ!」
私のツッコミは、倒木がゴブリンを押し潰す音にかき消された。