送還
それは突然起こった。
適当にとった寝台が八割を占める安宿の部屋でうとうとしていると、床が抜けた。
抜けた先はいわゆる次元の隙間で、なおも下方への引力が私をどこかへ強制的に運んでいく。
私を召喚して知識だの能力だのを求めるものは少なくないが、召喚されてやるにしても私の気が向いたときだけで、そもそも虚弱で無知蒙昧な人間その他が私の気を引くことができようはずもない。
私が力の一端を披露してやるのは仕事のためか、ひまで仕方ないときに人間の観察でもするかという気分になった時のきまぐれでしかない。
一方的に引きずられるように召喚されるなど、ありえない。
ならば何処かの神格の呼び出しか。要件は仕事用の通信端末へ、と常々伝えているのだが、はるか過去から存在なさる方々は、ちまちましたものはお嫌いらしい。
いや、そういえば持ってきたのは財布だけだ。どんなくだらない要件か知らないが、長々とお説教を聞かされる羽目になりそうでげんなりしてくる。
はたして嫌々召喚されたのは締め切った石室で、そこにいるのは薄汚れた揃いのローブを被った人間が一ダースだけだった。私の傍らに置かれているのは、箱に固定された黒い結晶体。輝くトラペゾヘドロンか。
たしかにこの箱を閉ざし完全な闇の中に置けば、私は現れることになっている。しかしこれは、いまは深海深くに沈んでいて未だ引き上げられてはいないはずだが。
ともかくこの人間どもが私の気分を害したのに違いない。輝くトラペゾヘドロンに呼び出されたときの姿である「闇をさまようもの」へ姿を変えると、人間どもはその場に平伏した。
巨大な黒い翼で一薙ぎすると建物はあっけなく崩れ去ったが、それでも人間どもは平伏している。私の燃える三眼をありがたがっているらしく、ぶつぶつ呪文めいたつぶやきすら聞こえてくる。
信仰なんてどうでもいい。
寝起きを邪魔された苛立ちのままに、破壊をくれてやった。
砂漠にガレキの山ができたところで、ほこりっぽいので温泉にでもいくかと再び人間の姿をとった。
「そろそろ帰ったらどうだい」
「うん?」
なんとガレキの中から声がした。死体は一ダース分たしかにあったと思ったが。振り返ってみると、ガレキの下から死体のひとつが立ち上がった。
「そろそろね、フルートと蕃神たちだけじゃあきついんだよね。宥めてあげてくれないかなあ」
ゆったりした、それでいて威圧感のあるしゃべり方。
「……まだ休み足りないです先輩」
「こんなに待ってあげたじゃない。それに、この子たちがかわいそうでねえ」
死体だったヨグ=ソトース先輩の後ろから、フルートを握りしめた従者がおろおろと出てきた。
休暇の終わりは大抵こうだ。門の鍵にして守護者であり、すべての次元、時空に連なるヨグ=ソトース先輩にかかれば見つけられないものはない。どんな辺境の星に隠れても、先輩はその土地のものに意識を送り込んで私を回収しに来る。
「ちょうどこの男たち、私に力を借りたがっていてね。骨董商に化けて集会に参加させてほしいと頼んだら簡単に入れてくれたよ。お土産も喜んでくれたしね」
全員洗脳したくせに、白々しい。
「それで、なかなか真面目に僕を呼ぼうとしていたんだけどさ。契約するにはニャルラトホテプに仲介してもわらないといけないんだよって教えてあげたんだ。それでこの輝くトラペゾヘドロン。僕がそこらへんの石を核にしてそれっぽくしてみたんだけど」
神格との契約を取り持ち、契約書を管理するのはたしかに私の仕事である。あれらの望みが契約に値するものだったかは知らないが。
つまりはトラペゾヘドロンもどきを介して、先輩に引きずってここまで連れてこられたわけだ。抵抗できなかったのも納得である。
「それで? 帰るでしょ?」
ニコニコ顔の先輩と、今にも泣きだしそうな従者。
「先輩と鬼ごっこなんて無駄なこと、やりませんよ」
なんせ相手は全時空を見渡す存在だ。逃げられっこない。即引き戻されなかっただけましである。
「いい子だね。それじゃあ戻ろうか」
先輩がそう言うと、もうそこは魔王の宮殿であり、我が主アザトースが延々と夢を見、冒涜的な戯言を垂れ流していた。
傍らにはフルートと太鼓の奏者が一時も絶えぬことない断末魔めいた音楽を奏でつづけ、さらにその横で形を持たぬ神々が狂気的な踊りを続けている。
我が主アザトースは盲目白痴であるために、自らの意思で動くことがかなわない。私は動けない主のかわりに動く忠実なしもべであり、夢においては地球の神々の守護者なのだ。
また我が主の世話をし、神々の伝言を運び、地球の神々の後見人として立ち回る日々が始まる。
私は這い寄る混沌ニャルラトホテプ。
窮極の混沌に住まうアザトースのしもべ。
私はニャルラトホテプ。
蕃神たちの魂魄にして使者。
私はニャルラトホテプ。
千の貌を持つ無貌の神であり、すべてを嘲笑うもの。
我が主がまた罵詈雑言をまき散らし、何色ともつかない液体が宮殿の床にへばりつく。拭き取ろうとかがみ込んだ私の顔が、液体の表面に映っている。
私はたしかに笑っていた。