飯事
クラムチャウダーを飲み干したヨグ先輩が、おなかすいたとだけ呟いた。
それを耳にした我々に去来したのは、もはや名状しがたい現状に対する絶望であった。
銀色の寸胴鍋、通常三十人前を調理することが出来るサイズのそれから口を離したヨグ先輩は、赤毛の料理人が慌てて運んできた肉うどんをすすり始めた。
金髪の料理人が空いた寸胴鍋を片付けて、空いた場所にローストチキン五羽とマッシュポテトとサーモンと野菜のオーブン焼きが乗せられる。うどんの合間にチキン三羽が骨ごとなくなった。
厨房では百人の料理人たちが怯えた表情を取り繕うこともできないままに調理を続けている。十あるオーブンのうち半分はパンを、二つは仔牛のローストを、三つでフィッシュパイを焼くためにフル稼働している。
さらにミートローフとアップルパイと、ほうれん草とベーコンのキッシュが焼かれるためにオーブン横に置かれている。
ひたすらにレタスを洗う者、トマトを切る者、その他野菜類の下ごしらえを行う者たちの一団は、もはや野菜のために作られた処理機械のように最適化された動きを繰り返していた。その隣には黙々と卵を割り続ける集団が、腰まで殻に埋もれていた。
うどんが底をつく前に、オニオングラタンスープを完成させることができた。マカロニサラダと一緒に持って行くなり、ヨグ先輩は左腕を伸ばして寸胴鍋を取り上げた。かわいそうに、スープの鍋を持って行った料理人は恐怖で涙を流していた。
半日前、カダスの城に顔を出した我が先輩、ヨグ=ソトースは、にこやかに言葉を繰り出すいつもとは違って無表情であった。
お疲れだろうと食堂に連れて行き、卵サンドを出した。一瞬でたいらげた後、ヨグ先輩は一言、おなかすいたと言った。次は生クリーム山盛りのパンケーキを出した。きれいに食べたヨグ先輩は、おなかすいたと言った。
そうして深夜二時をまわった今まで食べ続けている。
いつぞや、イブン=ガジの粉で退治された息子さんみたいだなあと思いながら先輩の暴食を眺めていたのだが、ふいに気がついた。
これはまるで、不浄の中にあるティンダロスの猟犬が抱えるものと同じ性質のような、すなわち飢えではないかと。
ミートローフとキッシュを交互に食べ続けていた先輩は、はたと何かに気付いたように手を止めた。
「食事するの忘れてた」
あなたが半日にわたって続けていた行為は何なのですかという問いは、先輩に向けるにはあまりに意味の無いものであった。
彼は、一にして全、全にして一なるもの、時間と空間すべてに偏在するヨグ=ソトースなのだから。
いわば先輩の身体とは宇宙そのものだ。数多の宇宙の一つではなく、全ての宇宙が先輩なのだ。
そんな、この人間の身体で換算などできようはずも無い途方も無く巨大な神性が人間並みの食事を摂る?
そんなものは、鍋のへりにくっついたタマネギのひとかけらを、茶碗に残った米粒ひとつを舐めるにも値しない。
にこにこと紅茶を飲み、菓子の見た目を楽しみ、うどんを啜ること、すべて、飯事のようなものだ。
先輩より確実に小さな我々が生存のために栄養を摂るのに、自身も参加して楽しんでいるにすぎない。
「古い宙域を食べてくるよ。うっかりしてた」
巨大な蛇ウロボロスが自身の尾を食べるように、先輩はかつて自分であった、今自分である、いつか自分であろう宇宙を喰らいに立ち上がった。
「あの……」
「一人で食事なんて、味気ないからね」
後輩たる私、ニャルラトホテプの首根っこをつかんで。
そばにいた料理人が、私にバスケットをひとつ渡して、慌てて後ずさっていった。
そしてヨグ=ソトース先輩の、触手じみた腕の一つに抱えられて、あちこち宇宙を駆け回る私もよく知らない、たぶん深宇宙と呼ぶような暗いところを漂っている。
そのうち私もぱくんと頂かれるかもしれないとは覚悟している。だって覚悟するしかないし。
この私が食べられても、別の場所にたくさん私はいるから引き継ぐだけだし。先輩から逃げる方法なんてないし。
そうやって虚無を抱えつつ、見えるのは黒だけだ。
なぜって、前方に見える全てを先輩が食べているから。
星も、小惑星も、細かな塵も、名も知らぬ文明が造り出した機械も、生き物も、全てを一瞬で喰らっていくからだ。
「ニャル君はなに食べてるの?」
滅亡というにも一瞬すぎるおわりを眺めていたら、先輩のお望みを忘れてしまっていた。
あわててバスケットの布を取る。中には星形に模様がつけられた小さなパイがいくつか。
「あーっと、これはミンスパイですね。もうすぐ年末だから試作品を仕込んでいたんでしょう」
手のひらサイズのパイをかじってみる。
伝統的な味がする。
レーズン、カランツ、リンゴ、オレンジピールにレモンピール、ナツメグに砂糖、そして赤身の肉。これは牛肉だろう。
「丁寧に作られた味がします」
いつものお茶会のテンションで、感想を述べた。
「それはよかったね。こっちも、熟成された年月の味がするよ」
彼の身体の透明なところが、笑うように揺れる気配がした。
「おいしいね」
「おいしいですね」
「カダスに帰ったら、ミンスパイ作ってもらおうっと」
「もう二週間もすれば作ってもらえますよ。楽しみにしていてください」
「そうだねえ、それは楽しみだ」
「美味しかったよ。ごちそうさま」
こうして先輩の、実に六千年ぶりだという食事から生還した私は、執務室で紅茶を飲んでいる。ヨグ先輩と二人で。
「肉無しのミンスパイ、おいしいね!」
「クルミが良いアクセントですよね。しかし先輩なら、過去存在した肉入りパイも、肉無しになったパイも、知っているでしょう」
「そりゃあ、原始の植物の果実から自動生産される缶詰まで、すべての食料を知っているのが私だよ。でも知識と実食はちがうよ」
「そうですか」
「複数で食事をする行為が楽しいって、ニャル君、君が教えてくれたんだよ?」
「そうでしたっけ?」
「とぼけないでよ」
ヨグ先輩はそう言うが、いつ先輩を誘って食事をしようと思い立ったのか、本当に記憶があやふやだった。
たしかなのは、宇宙をまるごと持ってきても足りないほど巨大なヨグ先輩を、小さな小さな生き物の食事という娯楽に引きずり込んで、これからも付き合わせ続けるだろうことだ。
「次はイチゴの季節ですから、イチゴスイーツ食べ歩きしますよ」
「わーい、誰誘うの? ニャル君の奥さん?」
「まずは二人で楽しみたいんですけど」
「へえ」
「駄目ですか?」
今はスーツの男の形だが、ちらりと上目遣いで見上げてみると、すっと顎をすくわれた。
「実はね、君と二人きりの食事が、いちばん楽しいんだ」
にんまりと私を見つめる先輩に、なんだか気高い鳥を撃ち落としたような満足感をおぼえて、口元がゆるんだ。




