勧誘(一)
南太平洋の海原で、ひとり釣り竿をたらす。釣果はまだない。
小さな漁船は灯りのすべてを消して、星明かりのみで見える世界を演出している。
青く光る星々に、黒くゆるやかにうねる水平線。島はかすかに輪郭が見えるくらい遠い。
ああ、贅沢だ。
リゾート観光に組み込まれた夜釣りという最高峰の癒やしの空間だ。
「すこし移動しましょうか」
半魚人の青年、唯一の同行者にして船長がエンジンを始動する。
海中の動向については、ここ数日の実績ですっかり彼を信頼しているので私はただ頷いた。彼が釣りに出掛けて、手ぶらで帰ったことなどないのだ。
甲板に腰を下ろして、音もなく降り注ぐ星影を見る。
あまり立ち寄らない星域をただ見上げる行為は、まるで星々を渡り歩く技術などまだ持たぬ人類と同じで、ただ空に現れた美しい光をつなげて遊ぶ天文学者になった気分で、いい心地だ。
「旦那、ちょっとおかしいです」
ぼーっと座っている私に、船長は困った様子で声をかけてきた。
「なにが?」
「誰もいないんです。このあたりに」
「今日はなにか、祭りがあったっけ?」
「いえ平日ですよ。でも、これはなにか、皆逃げていったみたいな」
「逃げた、ここから、ダゴン一族の、クトゥルフの領土から? 逃げた? なにから?」
そんなことがあるのか、と二人して首をかしげたその時、歪んだ旋律、忌々しくも耳によく馴染んだ旋律が、星空から、降ってきた。
「やあやあ我はトルネンブラ、彼方の宮殿にて旋律と拍動を束ね、我らの魔王を寝かしつけるもの。蕃神の踊りを導き、偉大なる白痴をこの世界に縛るもの。人の身にて我の旋律を浴びた奇跡を光栄に思うがよい!」
それは、形を持たぬ音そのもので。
決して途切れない旋律の連続による空間の歪みで。
けれど視覚には現れず、やはり聴覚に感じ取れる波で。
海面を圧迫して船を揺らす巨大な圧力で。
神殿にてアザトースを世話する、私の同僚だった。
「……そこにいるのは、ニャル先輩ではありませんか」
「……視察中で忙しい私になんの用かねトルネンブラ君、蕃神たちに万事任せてきたはずなんだが主はどんな暴れ方をしたというんだね」
「あー、アザトース様は今もぐっすりですよ。私は私の個人的な仕事があるのです」
話の間にすこしづつ音量を下げていく同僚は、今は海面が波立たない程度まで縮んだ球体の歪みに落ち着いていた。
「楽団に欠員が出そうなので、補充に来たんです」
「このリゾートエリアに?」
「このリゾートだからですよ。前にクトゥルフさんが揚がってこられた時、芸術方面に才能のある人間がたくさんクトゥルフさんの思念波を受信しましたよね。」
「そんなことあったな」
「このリゾートもクトゥルフさんの眷属が運営しているからか、芸術家といいますか、クリエイターがよく長期滞在しているのです。今も十人以上いるって、部屋番号と一緒に教えてくれたんですよ」
ダゴン一族、さらっと個人情報流出させてる。
船長を見ると目を逸らされた。
まあ、人間にばれなきゃいいのだが。
「そういうわけでして、とりあえず肉体ゲットしてきますね。お仕事中失礼しましたー!」
しばらく待っていると魚も戻ってきたし、一時間くらい釣りをして、私の島に戻った。
船長が魚の詰まったカゴをのぞき込んでぶつぶつ言っている。明日の朝食もおいしくいただけそうである。
「朝食は焼き魚でよろしいですか」
「うん、連日焼き魚が飽きないの不思議だけど、おいしいから頼むよ」
「明日は本島にて、レクリエーション施設をご視察いただく予定です。ではごゆっくりお休みください」
船長で、秘書でもある半魚人の青年は、一礼して去って行く。同時に色素の薄い半魚人のメイドが出迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、旦那様。トルネンブラ様にも困った方ですわね」
「君は知ってたんだ」
「ええ、たしかにご招待したと伺っておりますが、もっと静かにいらしてくれると思っておりました。実はまだお部屋の片付けが終わっておりませんの」
盛大な降下の余波で観葉植物が枯れたり、混乱した昆虫や鳥が飛び回って壁に追突したり、散々だったのだとメイドは語った。
「あれも芸術家だからね……宇宙にとって一番価値の高い」
「さようですか」
短い返事に静かな怒りがみえる。
気持ちはよく分かる。分かるが何十億年の付き合いでずっとこうなので、諦めてほしい。せいぜい数十日の滞在だろうから。
謝罪と励ましをこめて、メイドに言った。
「うちのがごめんね」
メイドは銀色の瞳をすこし細めて、答えた。
「お風呂場は無事でしたから、ごゆっくり」




