発散
旅らしく時間をかけて移動なんてもうやらない。今私を見た者は私を美丈夫と認識しているか、不安を覚えるほどに疲労を蓄えさせてくれたバスを見送った。
さっそく司書に紛れて貸出禁止書籍の閲覧履歴をチェックすると、セラエノ断章が金庫から出された形跡があった。
セラエノ断章といえば忘れもしない、生ける炎クトゥグアの野郎。せっかく静かな森に別荘を作ったのに、奴に森ごと燃やされたのだ。思い出したらまた腹が立ってくる。こだわって作らせた内装も、厳選したコレクションもみんな燃えたのだ。休暇をとろうとすればこの仕打ちだ。私が何をしたというのだ。ああ忌々しい。
怒りにまかせて閲覧履歴をスクロールしていくと、貴重な書籍を読み漁り、どうやら時間旅行を望む奴がいるらしいことが分かった。
過去に行きたいのか未来を覗きたいのかなんて興味はないが、時間の法則から外れるとなると、あれが来るときまっている。ひとつ見物してやるとしよう。
閲覧者の住所は街から外れた粗末な一軒家で、案の定大量の印や護符を置いたり貼ったりしてあった。ドアも窓も板でふさがれ、また大量の印と護符。意味のないことを熱心にやりとげたものだ。一応の礼儀として玄関をすり抜けて中に入ると、球体のシェルターがリビングだったであろう部屋を埋めていた。
そして部屋の隅と球体のすきまに青白い煙が渦を巻いていて、その中に、飢えて瞳をぎらつかせたティンダロスの猟犬が獲物を狙っていた。細長く突き出した口からは鋭い歯がのぞき、独特のにおいの青白い煙が絶えず吹きだしている。
ティンダロスの猟犬は異常な角度の世界に住んでいて、九十度以下の鋭角を通って世界を渡っている。とがったものなら何からでも奴は現れる。傘の先でもガレキの破片でも、刃物でも。
時間を移動しようとする者を嗅ぎつけて、どこまでも追いかけて仕留めるという習性を持つ。
どこまでも、とは文字どおりの意味で、あらゆる鋭角を通り執念深く追い続け喰らうのだ。鋭角しか通れないので、逃亡を試みる者はきまってこのような鋭角を無くした球体に閉じこもるのだが。
「やあ、調子はどうだい?」
猟犬は隙をうかがっているが、鋭角がなければ手出しはできない。まどろっこしいな。
「腹がへったろう、手伝ってやろうか」
答えなど聞く気はない。クトゥグアの野郎に別荘を燃やされた恨みを込めて剣を取り出し、球体のシェルター目掛けて突き刺す。悲鳴をのみこむような声がした。もう一度怒りを込めて突き刺す。
崩れたシェルターの隙間から若い男の恐怖にひきつった顔が見えた。
少しだけ気分が晴れた気がする。
街に戻って、何かおもしろいものはないかと歩いていると、路地の隙間に明かりが見えた。近づいてみると、バーのようだ。ひさしぶりに酒もいい。入ってみると、カウンター席が五席だけの小さな店のようだ。奥に黒髪の女が座っているのでその隣に腰を下ろすと、おだやかな声がかかった。
「いらっしゃいませ、はじめての人だね。いいハチミツ酒がはいってるんだけど、どうかな」
「ああ、それでいいよ」
低めのおだやかな声の持ち主は、長い黒髪をポニーテールにした若い女だった。彼女が一人で切り盛りする店らしい。
綺麗に削られた球体の氷の浮かんだグラスに黄金色の酒が注がれる。頬杖をついて横の女をちらりと見ると、黒いワンピースからあふれそうな巨乳だった。視線がばれたのか、女の方から話しかけてきた。
「お兄さん、一人?」
「ええ、まあ」
「ここ、小さいけれど穴場なの。きっと気に入るわ」
出されたハチミツ酒をなめてみる。たしかにおいしかった。
「彼女、とてもよく気が利くのよ」
こちらはなまめかしい声だ。たしかに居心地の良さそうな店だが、ものすごく帰りたくなった。
「すまない、もう帰らないと」
「あら、帰っちゃうの?」
ハチミツ酒を飲み干して、立ち上が、れなかった。
頬杖をついた方の腕がカウンターから離れないのだ。
「ね? 彼女、とてもよく気が利くのよ」
黒いワンピースの女がさも楽しそうに笑った。