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放浪(三)

「そっかそっか、あの子は誰の言うことも聞かないからね」

「知ってましたよ、知ってました」

「あのねニャルラト。世界は終わるよ。いつかはね」 




 暗い道を歩き続けて一時間、どこにも着かないが枝分かれもない道を一人。

ビヤーキーは地上に客を下ろすとすぐ飛び去ってしまったし、縞瑪瑙の城どころか目の前は黒々した洞窟があるだけ。ここは凍てつくカダスですらない。

仕方なく洞窟を進み、地の底へ下り、ひたすら下り、やっと広い場所に出たと思えばそこは深い谷の淵で、太く白い糸でいっぱいだった。


無数に張り巡らされた糸を渡るのは巨大な蜘蛛、となれば永遠に巣を張り続ける蜘蛛神アトラック=ナチャに違いない。カダスに戻りたかったのにハイパーボリアへ来てしまうなんて、意味が分からないしもう歩き疲れた。


おーいと叫んでみたものの、黙々と巣を張る彼女は応えない。しかし、彼女が巣を張るのをやめたならそれはそれで怖いので、これでいい。


 この巨大な巣が完成したときは世界が滅びるときなのだから、こうして眺めても進行状況はさっぱり分からないが、作業が続いているのなら猶予はまだあるのだろう。


「知り合いが来たんだから挨拶くらいくれたっていいだろう!」


「…………」


「……もう行くから!」


 長い長い道をさらに下り続けて、地面が湿っぽくなる頃にはもう孤独感で泣きそうだった。


「いらっしゃい、こんなところまでよくたどり着いたね……って、ニャルラトじゃないか」


「ご無沙汰してます」


ハイパーボリアの地下の深淵に座り込む巨大な存在は、いつかと変わらずゆったりとした声音で迎えてくれた。


 やっと触れたぬくもりに安堵する。歓迎してくれた彼と、足下の温度とに。まるで人間のようでいっそ可笑しい。


ここは絶えず温泉がわき出していて、広い空間を浅く満たしている。真ん中で半分浸かりつつ生命を産み出し続ける者。彼こそは原初にして終末、ウボ=サスラ。


「なんだい、歪んだ顔なんかしてそんなに辛いことがあったのかい?」


「お義父さん……! ここは、お変わりありませんか? なにか異変は?」


「ここは変わらないよ。ふふ、その呼び方はいいものだね」


 星のすべての生命のアルケタイプを産み出した神。鹿のアルケタイプも当然彼から産まれ、鹿のアルケタイプから産まれたのが我が妻イホウンデーである。ウボ=サスラは私にとって感謝し畏怖すべき義父なのだ。


「こんなところまで君が来るなんて、本当になにがあったんだい?」


「それは……」


これまで私におこった異変を話し終えると、義父は肉塊を裂く巨大な目でにっと笑った。


「あのねニャルラト。世界は終わるよ。いつかはね」


 そこで目が覚めた。


 仕事机に突っ伏してそのまま寝ていたらしく、背中を伸ばすとみしみし音がした。確かに身体に感じる重み。あれは夢。間違いなく夢だった。私が話せば人間は狂うし、勝手に夢をみては悪夢に落ちるのだ。私は恐怖を与える者だ。しかし、もう外が明るいではないか。緑色の太陽に向かって伸びをしてから洗面所に向かう。


「次の挑戦者さん、はりきってどうぞー!!」


ドアを開けると、満杯の観客に見つめられるステージの上だった。


舞台の上の役者、おこる全ては虚構、嘘、ただの娯楽、どんな恐怖も脚本でしかなく、現実に対して何の力も無く、私は、現実は、世界が、私が私でなくなる。


世界が壊れてゆく。

私が壊れてゆく。


 何度も人間から抽出してきた悲鳴が、私から溢れてくる。主は、アザトースはこの私の悪夢にも手を伸ばして下さるのだろうか、それとももう、この世界を手放してしまっただろうか。ならば役目も、楽しみも、アザトースのための私はもう、夢の主の目覚めとともに消えるだけ。


「ナイさま!」


切羽詰まった呼び声が聞こえる。手を握られているような感触と、身体のあちこちをはしる鋭い痛み。


「お目覚めですね、よかった」


「……イホウンデー」


愛しい人がはらはらと泣いている。


「覚えておいでですか? アザトース様の種子が近くに漂着したのを監視に向かわれて」


「あんなに早く孵化するなんて想定してなかったよ、ぼくが着いていながら、君の回収が間に合わなくて申し訳ない」


ヨグ=ソトース先輩も。


「孵化時の暴れっぷりだけあって、仔は元気に育ってるよ。食欲旺盛だし」


「そう、そうか。あんなに早い孵化じゃあ崩れてしまうんじゃないかと思ったけど、それならよかった」


 顔を洗いたいと言うと、イホウンデーが付き添ってくれた。大きな鏡に映った私は安堵の表情で、あの悪夢の主はたしかに自分だったのだと分かって、肩の力も抜けて、そんな私自身を見ていると可笑しくて。


 ああ、私の悪夢は美味であっただろうか。鏡の中から嘲笑する私を眺めながら、頬を伝う涙を舐めてみる。たしかにそれは塩の味だった。

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