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放浪(二)

 変わっていく街が恐ろしくて、足下だけを見ながら歩いた。とにかく知っているところへ行きたくて。通りから細い路地裏へ。

そこは記憶と寸分変わりなく灯りが点いていた。偶然見つけた小さなバー、星の目。


「いらっしゃい、ニャルラトホテップさん」


おだやかな声の店主が変わらず迎えてくれて、強ばっていた肩の力が抜けていった。


「お久しぶりです、奈々美さん」


「あいかわらずお忙しいんですね。何か食べます?」


「さっき甘い物食べてきちゃって」


ああ、って顔をされた。何に納得したんだ。


「糖分補給も大事ですよね。今日は牛肉とトマトでビール煮にしたんですよ」


おいしそうですねと言ったときにはもう皿にたんまりよそわれていた。


「いいなー俺にもちょうだい」


「クトゥグアさんはお水飲んでてください」


一人座っていたピンクのパーカーの男が、しんどそうに水を受け取ってから振り返った。


「ニャルちゃんじゃん、おひさー」


「やけに顔色わるいな、なにかトラブルでも?」


「んや。うちの信者が起業してね、記念パーティーにお呼ばれしてきたの」


「摘発でもされたか?」


「ないよ、うちの信者たち綺麗なもんだよ、炎なんだよ」「ほっといたら余計なところまで広がるだろ」


「ンガイの森はごめんって!」


「ふん」


「でも騒ぎすぎちゃった。二日酔いまでするとは不覚う……」


水のグラスの隣に赤ワインの入ったグラスが見えるのだが。


「迎え酒したいって、聞かなくって。食欲があるならもうおしまいです」


 奈々美さんがワイングラスを没収する。ビール煮の皿にパセリをかけながら。


没収したグラスを洗っているのは二本の触手で、うっかり割らないようにもう一本の触手の先端から目玉が出て見張っている。目的に応じてどんな風にも身体を変えられる万能生物の成せる技。彼女も初めて会った時と同じショゴスだった。


「ニャルちゃんこそ、なんかびくびくしてない?」


ちびちび水を飲むクトゥグアに指摘されて、すこし迷って、こいつなら良いかと話すことにした。


「……布教活動してたら芝居にされてた、ねえ」


珍しく真面目に眉根を寄せて考え込んでいる。


「恐怖を与えるのも混乱を蒔くのも、ニャルちゃんの方なのに」


「うん?」


「怖いよね。気付かないうちに立場を逆転されて」


 クトゥグアが、彼の燃える赤い目が真正面から私を見て言うものだから。


「…………うん。怖くて、不安で仕方が無いんだ。これじゃあ役目を果たせない。また書き換えられるんじゃないかと思うと、人間を見下すどころかまともに出歩けない。これじゃあ、主になにも、私は、なにも」


舌が追いつかない。

話術で全てを翻弄する私が、まともに喋れていない。


それでもクトゥグアが、ちゃんと相槌をうって、最後まで聞いてくれているから、最後まで喋ることができた。


「私は、どうすればいい?」


泣かずに済んだのは奇跡的だと思う。


「でしたら、良い方法がありますよ。しばしお待ちを」


触手を仕舞い終えた奈々美さんが、胸の前で両手を合わせて店の奥に消えた。

赤く煮込まれたビール煮を食べてみる。今度はちゃんとトマトと柔らかい牛肉の味がした。


「歩くのに支障があるなら、飛んでいけばいいんです」


戻ってきた奈々美さんがカウンターに置いたのは、黄金色のボトルと石の笛。飛行生物ビヤーキーを使役するための黄金の蜂蜜酒と石笛だ。これを吹けば彼らはどこにでもやってくる。


「ビヤーキーを喚べるの、ここ」


「わりと需要があるんですよ。元々ハスターさんが置いてみればと持ってきて下さったんです」


「主人の公認なら安心だね。野良ビヤーキーじゃ言うこと聞く保証ないもん」


「ああ。ありがたい話だ」


よかったねニャルちゃん、とクトゥグアがいつものようにへらっと笑う。


「それでさ、そんな重大な異常が起きてるなら、ニャルちゃんが向かうべき場はひとつでしょ」


「うん。……私が守護する土地へ、凍てつくカダスの城へ」

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