晩餐
凍えたカダスから太陽が消え去って、三日月も足早に去った夜。こうして積まれた書類を片付けていると、体感から乖離した時の流れが魔を連れてやってくる。
それはペンを握る手から落ち着きを攫い、足下を駆け回っては私の脳裏から集中力を奪って行く。いかに強大なる者どもといえど、物質界に身を置くかぎり無視しがたいこの魔は、しつこく私を責めさいなむ。
「お腹空いた」
数時間前に子山羊のローストを収めた腹はもう空きスペースを主張している。
もう一案件終えてしまいたいし、コーヒーでごまかそうかと席を立ったら余計に空腹を感じてしまい、十秒悩んで厨房へ顔を出すことにした。
静まりかえった廊下はなんだか寒々しくて、羽織ったストールにくるまりながら階下へ急ぐ。
「おや、今日はお忙しいのですね」
厨房をのぞき込むと、若いコックがなにやら大鍋をかき回していた。
「温かいお茶でも入れましょうか」
一人きりで作業していたのだろう赤毛の若者はそう気遣ってくれるが、取り憑いた魔はおさまりそうにない。
「うん、残したくない書類片付けてたんだけど、お腹空いちゃって……」
地球のか弱き神々を監督し、この縞瑪瑙の城の主たる立場の私が、夜中にこんな。消え入りそうな声が余計に恥ずかしい。肩まで丸めて入り口に立ちつくす私を、しかし若者は笑顔で手招いてくれる。
「それはちょうどいいです、誰かに味見をお願いしたかったのですよ」
カウンターでお待ち下さいと言って厨房を行き来していた彼は、湯気の立つどんぶりを出してくれた。
「海辺のにおいだ」
「ええそうなんです。インスマウスから昆布とかわかめとか頂いたので、わかめうどんです!」
透き通ったスープに白いつるつるした麺が沈み、濃い緑色のわかめがみじかくカットされて乗っている。騒ぎ立てる魔を黙らせようと、両手でどんぶりを持って直接口をつけてしまう。
「ん、おいしい」
「そうですか! だしの調合、俺的にはうまくいったと思ったんですけど、誰かに意見をもらいたくて。ルルイエ近海産の昆布は肉厚で今年豊漁らしいです。そこに夜刀浦の鰹をあわせました。昆布に鰹って、日本だと鉄板の組み合わせなんですって」
カウンターに肘をついてニッコニコの顔で語る彼の目の前で、あたたかいうどんを啜る。しゃきしゃきしたわかめに金色のスープ。またうどんを啜る。
一息にと言って良いくらいにスープまで飲み干して、ほう、と満足の息を吐いた。
「あったかいうどん、良いお出汁で美味しかったよ。ごちそうさま」
「ご満足いただけてうれしいです。食後のお茶です」
薄目のあたたかいお茶を啜っていると、深夜訪れた魔はようやく私から離れたようだ。
「出汁にお墨付きをいただけたので、今度は肉を仕込んで肉うどんを作りますね!」
美味なる一杯に肉がのったところを想像してしまい、平穏な気分で部屋に戻るためにお茶をもう一杯注いでもらった。




