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深江の夜は早かった。
てるよが九時には寝ると言うのだ。
居間の隣の部屋ではてるよが寝ているのでテレビを見ているのは気が引けて、佳乃は部屋で勉強をすることにした。
そんな佳乃も十時を過ぎた頃には睡魔に襲われた。
橋爪の家では十一時まで起きていることはざらで、恵子に早く寝なさいと急かされていたというのに。
佳乃は、眠い目をこすりながら呟く。
「もう寝よう」
部屋の隅に置いてあった布団を敷き、電気を消して布団に横たわると、すぐに眠りについた。
それから数時間後。
佳乃は、布団の中で早く寝たことをひどく後悔した。
「目が醒めちゃった……」
辺りはまだ暗い。
枕元に置いた携帯を手探りして取り、時間を確認すると四時になろうとしていたところだった。
しばらく布団でごろごろしながら、もう一度寝ようと試みていると、外から猫の鳴き声が聞こえてきた。
甘えるような愛らしい鳴き声だ。時々、小さな鈴の音も聞こえた。
気になった佳乃は、窓を開けてその猫の姿を探した。
目を凝らして夜闇の中を見ていると、慰霊塔のそばに白い子猫の姿を見つけた。
その子猫は、小さな手で宙を掻き、ごろごろと喉を鳴らしている。
まるで誰かが子猫の前にしゃがみ、一緒に遊んでいるように見える。
不思議なもので、人の姿が見えるような気がした。
しかし、すぐにそれが気のせいではないと気がついた。
たしかに若い男の姿が見えるのだ。ほんのりと青白い光が人の形を模っている。
さらに目を凝らすと、服はテレビで見る時代劇の武士が着ているようなものだった。
髪も髷に結ってある。
目を逸らせずにいると、その男がふいに顔を上げた。
目が合った瞬間、佳乃は、はっと我に返り、慌ててカーテンを閉めた。
窓の下にずるずると力が抜けたように座り込む。
幽霊だろうかと、佳乃は、血の気が引いた顔でそう思った。
こんな時間に家の敷地に、知らない人がいるはずがない。ましてや武士の仮装をした人だ。
すべて夢だったことにしようと、佳乃は這うように布団に向かいタオルケットを被った。
「もしもし」
男の声がした。
佳乃は、びくりと体を震わせ、反射的に振り返った。そして、言葉にならない悲鳴を上げた。
カーテンから慰霊塔の前にいたはずの男の首が生えていたのだ。
「おお! やはりわしが見えておりますか」
今にも泡を吹いて気絶してしまいそうな佳乃に反して、男は嬉しそうな声で言った。
満面の笑みを浮かべながらカーテンを素通りして部屋の中に入ってきた。
やはり幽霊だった! と、佳乃は、タオルケットを引き寄せて抱えた。
男は、怯えている佳乃の前に正座した。
「お初にお目にかかります。わしは、遠山家に仕える早矢秀久と申します。人と話すのは久しく、いささか緊張致します」
秀久は、そわそわとした様子で言った。
佳乃が想像していたような幽霊像とは違って、どうにも人間臭い。
少しだけ警戒が解け、タオルケットを握る手から少しだけ力が抜けた。
「お名前を教えてくだされ」
「……佳乃です」
そう答えると、秀久は、かっと目を見開いた。
佳乃は、「ひぃ」っと、短い悲鳴を上げて、またタオルケットをぎゅっと握った。
「なんと! 姫様と同じ名じゃ」
秀久が嬉々とした顔で言うものだから、佳乃は、安堵の溜息を吐く。
それから、秀久をじっくりと見る余裕が生まれた。
秀久は、相変わらずほんのりと青白く、目を凝らすとうっすらと向こう側が透けて見える。
やはり幽霊なのだろうか。
けれど、幽霊というには、表情は明るく、生き生きとしていた。
人に危害を加えるような人には見えない。
年は二十歳前後といったところだろうか。精悍な青年といった容貌だった。
佳乃は、勇気を振り絞って尋ねる。
「姫様……?」
「遠山家の末姫、吉乃姫です」
佳乃は、遠山という言葉に聞き覚えがあった。
慰霊塔の話をてるよから聞いた時だ。
「まさか日高城から逃げてきた武士の霊……」
佳乃が口にした言葉に秀久は眉を顰めた。
「逃げてきた、か」
佳乃は、はっと口に手をやった。
「あ、ごめんなさい……」
「よいのです。佳乃殿の言う通りですから。あの日――大河原軍が攻めてきた日。わしは、姫様を連れて他の四人の武士と、三人の侍女殿と共に稲山に逃げたのです」
秀久はそう切り出すと、当時のことをゆっくりと話し出した。
「山頂近くについたときには、城は赤く燃えておりました。それを目の当りにした姫様と侍女殿たちは泣き叫び、若い武士はその場にへたり込んでおりました。
しかし、気落ちしておる場合でもなかった。まだ遠かったですが、木々の合間には松明の火が揺らぎ、追っ手がいることも分かっていましたから。わしは、お館様から姫様をお守りするよう命じられたと己を奮い立たせ、追っ手を足止めをするために、その場に残ることにしました。姫様と深江で再会することを約束して」
秀久はカーテンが閉まったままの窓を、彼には当時の情景が見えているのだろうか、苦々しい顔つきで眺めていた。
少し間をおいて、秀久は、また話し出す。
「追っ手との戦いは、熾烈を極めました。途中、女の甲高い叫び声を聞いた気がする。何人切ったのかも覚えておりません。気がつけばその場に立っていたのはわしだけでした。共に残った石垣殿も、姫様の打掛を被り囮となった侍女殿も木の根に寄り掛かるようにして重なって倒れておったのです。
朦朧とする意識の中、左腕が動かないことに気がつきました。体中が痛かった。けれど、姫様との約束を守らねば、というただ一心で稲山を降りたのです」
秀久は、佳乃に視線を戻した。今までの辛そうな顔ではなく、寂しそうな笑みを浮かべていた。
「しかし、わしもそこの慰霊塔あたりで力尽きてしまったようです。姫様は無事に深江まで辿り着けたのか、それだけがどうにも心残りで。気がつけば、慰霊塔の横に立っておりました。姫様を探しに行こうにも動くこと叶わず、成仏の仕方も分からず……。困っておったらいつの間にかこんなにも時が経っておりました」
「戦国時代から、ずっとひとりでここにいたんですか?」
そうだとしたら、とても寂しかっただろう。
吉乃姫との約束を果たせず、無事を確かめることもできず、ただずっとここにいたのだとしたら、それはどんなに歯がゆかっただろう。
胸がぎゅっと締め付けられるような思いがした。
けれど、秀久は、明るい笑顔であっけらかんと言った。
「この姿になってからというもの時の流れが曖昧で、長かったような気もするし、瞬く間だったような気もします。元来ぼーっとした性格でしたから。お館様に『もっと頭を動かせい』とよく言われておりました。
――っと、ついつい話し込んでしまいました。佳乃殿、夜更かしは良くない。そろそろ寝た方がよいと思います」
幽霊に気遣われた佳乃は、不思議な思いがして苦笑した。
携帯で時間を確認すると、目が醒めてからまだ三十分も経っていなかった。
「いやー、楽しかった。佳乃殿、またぜひわしの話し相手になってください」
そう言って、秀久は、またカーテンをすり抜けて外へと出て行ってしまった。
佳乃は、あとを追うようにカーテンを開けて外を見たが、そこにはもう秀久の姿はなかった。
深江の朝も早かった。
まだ薄暗いうちに、てるよが起き出した。
台所で物音がしたかと思えば、さっそく庭仕事をはじめたようだ。
佳乃は、その物音で目を覚ますと、時刻はもうすぐ六時だった。
いつもの起床時間よりもだいぶ早かったが、慣れない環境もあってか、すんなりと起きることができた。
身支度をして下の階に降りると、てるよも居間にいて朝食をとることにした。
朝食を食べ終えた佳乃は、しばらくぼーっとテレビを見ていたが、すぐに手持無沙汰となった。
「部屋で勉強しているね」
佳乃はそう言って居間を出た。
いつもは勉強をしなくてはと思いながら、漫画本に手が伸びてしまったり、録りためていた番組を見たりしてしまう。
恵子の言う通り、深江にいれば受験勉強は、はかどりそうだ。
そうして、佳乃は勉強机に向かった。
少しして佳乃の部屋にお客さんが来た。
風通しを良くするために開けっ放しだった襖から子猫が入ってきたのだ。
「あ、昨日の猫」
佳乃は、勉強の手を止めて子猫の前にしゃがんだ。
人に慣れているのか、佳乃が手を伸ばしても逃げる素振りひとつ見せなかった。
首には鈴のついた首輪をしている。
鈴の音の正体はこれだったのだと、指で鈴を弾くとリンと高い音がした。
この子猫がいなかったら、秀久に気がつくことはなかったと、そう思うと、なんとも不思議な気持ちになる。
昨夜のことは鮮明に覚えていたが、どこか夢のようだった気もする。
「どこから入ってきたの?」
そう尋ねると、子猫は可愛らしい声で鳴いた。
佳乃は、子猫を抱き上げる。
「首輪をしているってことは、この辺の飼い猫なのかな? 勝手に入ってきたらだめだよ」
そう話しかけていると、背後から声がした。
「わしについてきてしまったようです。かたじけない。わしに懐いておって可愛いやつです」
佳乃は、勢いよく振り返ると、思ったよりも近くに秀久がいて更に驚いた。
心臓に悪すぎると、内心悪態をついた。
秀久は、その場に座った。
昼間に見る秀久は、昨夜のように幻想的ではなく、昨夜以上に人間らしかった。
しかし、うっすらと向こう側が透けて見えるので、やっぱり幽霊なのだと思い直した。
「幽霊って昼間にも出るんだ」
「刻限は関係ないようです」
佳乃は、抱いていた子猫を下すと、子猫は秀久の元に行き、膝の上でくつろぎはじめた。
秀久が透ける手で子猫の背を撫でると、子猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「触れるんですね」
佳乃の中では、幽霊が物に触れようとすると素通りするイメージがあったのだ。
現に昨夜はカーテンを通り抜けていた。
「わしが触れようと思えば触れられます」
秀久は、佳乃の手にそっと触れた。
不思議と怖いとも、不気味だとも思わなかった。ひんやりとして気持ちがいい。
佳乃が秀久の手を握り返すと、今度は秀久が驚いた様子だった。
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