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 中学最後の夏は、つまらない夏になるだろう。

 小鹿佳乃(おじかよしの)は、母の小鹿恵子(おじかけいこ)が運転する車の助手席でそう確信していた。

 肩まで伸びた髪をいじり、窓の外を不機嫌そうに見ていた。

 車は、佳乃が住む橋爪市(はしづめし)から一時間ほど走り、山間部にある重原郡(しげはらぐん)深江村(ふかえむら)に向かっている。

 トンネルを抜ける度に深くなる山と比例するように人工物は減っていく。

 恵子は、運転の疲れを感じさせない明るい声で言う。


「もうすぐつくよ」

「ねぇ、どうしても行かなくちゃだめ?」


 それは、これまでに佳乃が何度となく口にした言葉だった。

 佳乃を恵子はちらっと横目で見てから、また視線を正面に向けた。


「まだ納得していなかったの?」

「ひとみとちなちゃんと夏祭りに行く約束だって、美香とプールに行く約束だってあったのに。ひどい」


 今日から楽しい夏休みだというのに、佳乃は泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 一、二年は吹奏楽の部活で忙しく、あまり遊べなかった。

 だから、中学最後の夏休みは思いっきり楽しもうと思っていた。

 だが、一週間前に父の小鹿良和(おじかよしかず)の入院が決まり、気がつけば佳乃の深江行きが決まり、夏休みの予定がすべてキャンセルになってしまったのだ。


「ねぇ、お母さん、お願い。夏は橋爪で過ごしたい」


 佳乃の訴えを聞いた恵子は、困ったような顔で少し考えていたが、


「佳乃には悪いと思っているわよ。だけど、おばあちゃんがせっかくあなたを預かるって言ってくれているんだから。佳乃が行くと言ったら、おばあちゃん張り切っちゃって。今更行かないなんて言えないわよ。ただでさえ中学に入ってから佳乃の部活で行けていなかったんだから」


 と、返事は佳乃の期待に沿うものではなかった。

 恵子は、少し間をおいてから声音をより明るくして言った。


「それに、深江はいいわよ。緑は豊かだし、空気もおいしい。受験勉強だってきっとはかどるわよ。目指せ、橋爪西高でしょ? あなた、夏休み前の三者面談で橋爪西は頑張らないと厳しいって言われていたじゃない」


 佳乃は、痛いところを突かれ、うっと言葉を詰まらせた。

 橋爪西高校は、文武両道で有名な高校だ。

 佳乃が入部を考えている吹奏楽部だけではく、他にも野球部、男子バレー部の強豪校としても知られている。

 夏前に受けた模試の結果では、あと一歩というところで合格圏外だった。

 その結果は、佳乃にとって大きかった。受験のことを考えると焦りと不安が押し寄せてくる。


「お父さんの退院が決まったらすぐに迎えにくるから、ね?」


 恵子が諭すように言うと、佳乃は「うー」と小さく唸り、不満をぶつけるように手足をばたつかせた。

 恵子は、苦笑しながら、


「子供みたいな真似しないの」


 と、窘めた。


 それから山道を十分ほど走ると開けた場所に出た。そこに深江村はあった。

 昔ながらの日本家屋が並び、時折建っている新しい家がやけに目についた。

 祖母の入江(いりえ)てるよの家は深江村の中でも寂しいあたりだった。

 日高稲山(ひだかいなやま)と呼ばれる山の麓にある。

 二階建ての古い家屋で、風が吹くとぎしぎしと音を鳴らす。

 佳乃が幼かった頃は、このまま崩れてしまうのではないかと恐ろしく思ったほどだ。

 家の敷地と道路を区切るものは何もなく、恵子はそのまま車を入れた。

 タイヤが砂利を踏む音がして、がたがたと左右に揺れる。佳乃は、思わずシートベルトを掴んだ。

 家の前に車をつけると、恵子は車から降りて伸びをした。

 それから、玄関の引き戸を開け、家中に響き渡るように言う。


「母さん、恵子です」


 すると、返事がわずかに聞こえた。それは家の裏手からのようだった。

 恵子は、


「畑にいるのかな」


 と、独り言のように呟いたあと、まだ助手席に座っている佳乃に言う。


「ほら、早く荷物を玄関に運んでちょうだい」

「はーい」


 佳乃は、気の抜けた返事をして、ゆっくりとした動作で助手席を降りた。

 後部座席に乗っている佳乃の荷物は、大きなスーツケース一つと、ボストンバック一つだった。

 それらを玄関に運び終えると、ちょうどてるよが顔を出した。

 にこやかな顔は日に焼けていて皺が深く刻み込まれている。

 手に持った籠には、きゅうりやトマトなどの野菜が入っていた。


「恵子、佳乃。いらっしゃい。疲れただろう。早く上がりな」

「母さん、悪いけどわたしはもう帰るわ。良和さんの入院が明日なの。その準備もしないといけなくて」

「なんだい、相変わらず忙しない子だね。それで良和さんの具合はどうなんだい? 悪いのかい?」


 てるよにそう尋ねられ、恵子は佳乃を伺った。

 佳乃は、恵子たちから離れたところで不貞腐れたように地面の石を足で突いている。

 恵子は、佳乃に聞こえないくらいの声の大きさで答える。


「幸い早期に見つかったから手術をすれば大丈夫だと思う。電話でも言ったけど、大腸がんってこと佳乃には詳しく説明していないの。受験勉強に響くと悪いから。だから、母さんもお願いね」


 てるよは、神妙な面持ちで頷いた。

 それから、恵子は、もう一度佳乃を振り返り、今度は佳乃にも聞こえる声で言った。


「おばあちゃんの言うことをちゃんと聞いてね。いつでも電話してきていいからね」


 佳乃は、小さく溜息を吐いてから観念したように頷いた。


「早く迎えにきてね」

「もちろん」


 恵子は、佳乃の頭を優しく撫でた。

 そして、また車に乗り込む恵子を見て、この時はじめて佳乃は心細さを感じた。

 親元を長期間離れるという実感が急に湧いてきたのだ。

 とはいえ、そうとは言えず、佳乃は黙ったまま恵子を見送った。

 佳乃が名残惜しそうに見送っていると、てるよが話しかけてきた。


「佳乃の部屋は二階に用意してあるよ。昔、お母さんが使っていた部屋で、勉強机もそのままにしているから使い勝手がいいと思ってね」

「ありがとうございます。しばらくお世話になります」


 佳乃は、ぺこりと頭を下げ、少し照れながら言った。

 そんな佳乃を見て、てるよは驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。


「そんなかしこまらなくていいんだよ。最後に会ったのは佳乃が小学生の時だったっけね。大きくなったね。さぁさ、早くお上がり」

「お邪魔します」


 佳乃は玄関に上がると、ボストンバッグを持って、てるよのあとについて階段を上っていく。

 階段は傾斜が急で一段一段の奥行きが狭かった。

 その上、今にも底が抜けてしまいそうな音が鳴るものだからひやひやとした。

 階段を上りきり、一番奥の部屋が佳乃の部屋だった。初めて入る部屋だ。


「荷物の整理が済んだら下に降りておいで」

「わかった」


 部屋は和室だった。

 隅には布団が畳んだ状態で置かれていて、入り口のすぐ横には年季の入った勉強机が置かれていた。

 佳乃は、適当に荷物を置き、スーツケースをとりに玄関に戻った。

 スーツケースを二階に上げるのは一苦労だった。

 参考書などの本類を詰めていたため、一番重量がある。階段を休み休み上り、スーツケースを部屋に置いた時には、額に汗が滲んでいた。

 窓を開けると心地よい風が通った。

 この辺りは橋爪より標高が高いこともあり、比較的過ごしやすい。目の前には日高稲山の麓が広がっている。

 ふと視線を下に落とした。

 日高稲山と家の敷地の境目辺りに不自然に丸みを帯びた石があることに気がついた。

 ちゃんと手入れがされているようで手前にコップがひとつ置かれている。

 なんだろう、そう思いながら、佳乃は窓から離れて一階に降りた。

 居間は、玄関のすぐ目の前にあった。

 佳乃が居間に顔を出すと、テレビを見ていたてるよが顔を上げた。


「スイカがあるんだよ。切ってこようね」


 てるよは、そう言って居間を出て行った。

 居間には桐タンスが二つ並び、その上には八年前に亡くなった祖父の仏壇が置かれていた。

 部屋の角には小さなテレビ、中央には正方形の小さなテーブル、その周りに座布団が二枚置かれている。

 佳乃はてるよが座っていなかった方の座布団に座り、落ち着かない気持ちでいた。

 父の良和のことを考えていた。

 明日から入院すると聞いている。

 手術をするそうだ。

 心配ないと恵子は言っていたが、やはり心配せずにはいられなかった。

 そこへてるよがスイカを持って戻ってきた。

 二人は、スイカを食べながらぎこちなく話しはじめた。

 中学のことや、友達のこと、部活のことをてるよは佳乃に尋ねた。

 最初は、てるよの質問に答えていただけの佳乃だったが、いつの間にか率先して話すようになっていた。

 話題が一段落したとき、佳乃は窓から見えた丸みを帯びた石について尋ねた。


「ねぇ、おばあちゃん。わたしの部屋から見える丸い石は何?」

「あれはね、慰霊塔。戦国時代からあるんだよ。――日高稲山の向こうに|遠山勝義(とおやまかつよし)が治めていた日高城があったんだけどね、戦で負けて落城してしまったそうだ。その時に何人かのお侍さんが山を越えて逃げてきた。だけど、傷を負っていたりして死んでしまった人たちもたくさんいたそうだ。そんなお侍さんたちを弔うために作られたという話だよ。

 その戦のあとにできた深江寺で正式に供養しているから、そこの慰霊塔を覚えているのは、もうおばあちゃんとお母さんだけかもしれないね」


 佳乃の顔から血の気がさぁーっと引き、恐る恐る尋ねる。


「そこの慰霊塔にお侍さんが埋まって……」


 てるよは、おかしそうに笑ってから答える。


「まさか、まさか。そこには埋まっていないはずだよ」

お読みいただきありがとうございます。

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