第6話
もうどれくらい歩いただろうか。
革袋の水を口に含みながら、ゴズマン帝国第一皇子ハロルド=ゴズマンは前方を見据えた。
人が10人横に並んで歩いても余裕がありそうな洞道が、どこまでも続いている。
岩肌に含まれた魔石の淡い光によって見通しはいいのだが、それでも終着点である神龍の寝所はまるで見えない。
後ろを振り返ると、同じような洞道が延々と続いている。ハロルドが入ってきた祠の入り口が見えなくなったのもずいぶん前のことだ。
本当にこの洞窟は、どこまで続いているのだろうか。数時間は歩いたというのにまるで終わりの見えない洞窟に、ハロルドは辟易とする思いを抱くのを止められなかった。
歴代の皇帝たちがこの戴冠の試練に挑む時、どんなに早くとも一昼夜は祠から出てくることはなかったという。ならばこの洞窟は、少なくとも半日は歩かなければ神龍のもとへはたどり着けないということだろう。
試練の日が訪れるまで詳しい内容は秘せられており、ハロルドは幼き頃に毎日のように深夜のベッドで眠気が訪れるまで戴冠の試練を夢想していた。
皇帝にふさわしき武を示せと、神龍と一昼夜を問わず戦うのだろうか。皇帝にふさわしき智を見せよと、神龍に何千何万という難問を問いかけられるのかと。
果たして自分は試練に打ち勝つことができるのだろうかと不安に涙を浮かべ、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
そしてついに訪れた試練の日、皇帝から明かされたその内容は驚くほど拍子抜けするものだった。祠を抜け、神龍に謁見すること。ただそれだけだ。神龍と戦うことも、知恵比べをすることもない。ただ自分が新たな皇帝だと、神龍に宣言すればそれでいいという。
ハロルドは安堵した。
だがいざ試練に挑んでみれば、それは武勇を試されるよりも、智勇を計られるよりもある意味苦しい難行だった。
皇帝は言った。歩みを止めず、進み続けよ。それこそが戴冠の試練であり、その答えだと。
(なるほど。確かに、これは試練だ)
歩みを止めず、進み続ける。言うは易く、だがそれを行うことのなんと難きことか。特に今のハロルドのように終わりの見えない道を歩き続けるのは、想像以上に心が折れそうになる。
いつまで歩き続ければいい。この道に終わりはあるのか。本当に進む先はこっちであっているか。いつの間にか来た道を戻っていないか。本当はどこかに横道があったのではないか。
(……まずいっ!)
ハロルドは頭を振り、雑念を振り払う。
(落ち着け。体の向きは動かしていない。進む方角はあっている。父上も言っていたではないか。この祠は一本道だと)
いつの間にか止まりかけていた足を前に出そうとして、ハロルドはつんのめりそうになる。
足が鉛のように重い。いや、足が地面から離れようとしてくれない。
(っ! ……またか)
祠に入って何度かハロルドは足を止めている。ほどけた靴ひもを結び直すために、多少の休息を取るために、靴に入った石のかけらを取り除くために。
ほんのわずかな立ち止り。しかしその度に、次の一歩を踏み出すのが億劫になる。もう疲労の限界を迎えたというのか。否。ハロルドとてそう軟な鍛え方はしていない。身体強化の魔術も施しているので、たとえ1日中でも歩きとおしてみせる。
ならば、この足の重さは一体何だ。いや、足が重いというよりは足を動かすのが……
――面倒だな
「っ!?」
ハロルドは己の思考に戦慄した。
自分は今、何を考えた?
面倒。そう間違いなくハロルドは歩くのが面倒だと思った。
勤勉を美徳とするアスラッド人の自分が。民草を導く皇帝となるべき自分が。ただ歩き続けることを面倒だと考えた。考えてしまった。
ハロルドは必死に地面から足を引き剥がし、再び歩き始めた。しかしその足取りは、先ほどと比べ明らかに鈍っている。
一歩進むたびにハロルドの中に葛藤が生まれる。
もういいだろう。もう十分頑張っただろう。もうやめてしまえよ
「黙れ」
立ち止ってしまえ。座り込んでしまえ。寝転んでしまえ。
「黙れ!」
ここは外よりも温かいだろう。ここで昼寝するのは最高だぞ。
「うるさい!」
面倒なことは考えず、日々惰眠をむさぼる。最高の人生だぞ。
「うるさい!!」
ハロルドは渾身の力で壁を殴りつける。身体強化された拳は、その中ほどまでが岩壁にめり込む。拳が裂けて血が滴る。その痛みでハロルドは我に返った。
「はあはあ。なるほどこれが試練か」
ハロルドは重い足を引きずりながら呻く。
この祠、奥に行けばいくほど怠けたくなる。字面にしてみれば何とも間抜けに見えるかもしれない。しかしハロルドは冷や汗が止まらなかった。
もし今ここで歩みを止めてしまえば、それはおそらく自分の死を意味すると直感してしまったからだ。
今、歩みを止めればハロルドは二度と歩きだすことはできなくなる。面倒だから。歩みを止めてしまえば座り込んでしまう。面倒だから。座り込んでしまったハロルドは、おそらくその場に横になってしまうだろう。面倒だから。そして思考することすら厭うようになりやがて意識を手放し、心臓は鼓動することを怠け、ハロルドは文字通り眠るように死に向かうだろう。
考えてみればここはあの、「怠惰」の神龍の住処。その怠け心は生命の維持すら放棄させるか。
(父上の言っていた歩みを止めず、進み続けよとはこういうことか)
怠けず勤勉に歩き続けることこそが、この祠の中で生き残る唯一の方法。まさにアスラッド大陸に生きるものすべてに通じる節理ではないか。
ならば。大陸の覇者たるゴズマン帝国の皇帝となる自分が、負けるわけにはいかない。
ハロルドは歯を食いしばり、歩き続ける。
(あれは……?)
行く手の壁に何かが立てかけられている。剣だ。それもただの剣ではない。何十年か前に紛失していたゴズマン帝国の宝剣だ。
(なぜ、ここに宝剣が……?)
――剣などこの先ではただの重りでしかないからな。
ふとハロルドの脳裏に、父が漏らした言葉がよみがえる。
(……父上~)
ハロルドは苦笑した。おそらく父も戴冠の試練の時に、自分と同じように剣を履いたままこの祠に挑んだのだろう。しかし、身に付けた衣服の重みにすら煩わしさを感じ始めるこの祠の中では、剣など父の言ったとおりただの重りでしかない。
だからこそ父は、ここに宝剣を捨てていったのだ。止まらぬため。歩み続けるために。
(父上は剣を持ったままここまで来た。ならば私もこんなところで立ち止まるわけにはいかんな)
ハロルドは宝剣を持っていこうかとも思ったが、今の自分の有様ではとても無理だと判断し、後ろ髪をひかれながらも先を急いだ。
そして半日以上を歩き続け、ついにハロルドはたどり着く。
「よく来たな。若き皇帝よ」
高台に座し、こちらを値踏みするように睥睨する漆黒の巨龍が待ち構える祠の最奥。七大神龍が一角、怠惰のスロウスの寝所へと。
6話目にしてほとんど出番のない主人公……
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