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作者: まどり

           幻


 熱帯樹林の向こうに、半円にくぼんだ形をした、小さな人気のない海岸。その円の中心に、薄青い海水に囲まれて浮かぶ砂州。海面からいくらか顔を出しているだけの、その真白い隆起に寝転んで目を閉じるのが、僕が幼い頃の密やかな楽しみだった。

 あの頃の僕は学校帰りに友達なんかと遊ぶよりも、小さな砂の島にどこからか拾ってきたパラソルを持ち込んで立て、その丸い影の下で海と風の音に耳をたてているほうがよっぽど楽しいように感じていた。何も特別な理由はない。そこに漂う音や光、海や空、砂、その空間の全てには、僕の心をつかむ“なにか”があっただけのことだ。

 パラソルの影になっても熱い砂の上に、水平線に向かって足を投げ出し寝転ぶ。そうして僕が耳を澄ますとき、とても不思議な感覚に襲われたことを、今となってははっきりとではないが憶えている。

 風と波の音が耳を埋め、海の匂いが鼻を抜け、焼け付くような熱気が体を伝う。しだいに五感が膨れ、そして散ってゆく。風が消え、波の音が消え、熱気が冷める。それらの全ては確かにそこにあるのだが、僕の中ではまったく別の様を現してくるのだ。それは“自分が自分でなくなる”というのが一番近いと思う。風は変わらず体を撫でとおり、波が押し寄せ、海の温さと太陽に照らされる激しさが包み込む。僕の上には人の肌とその重み、僕だ。これはたぶん砂州の感覚。その感覚は、圧倒的な安らぎで満たされていた。空虚なほどに。それは慈愛、友愛、性愛、博愛……。いや、愛なんて稚拙に感じるぐらいの、完璧な“愛”だった。

 “愛”は、そこらの人々がもたらす喜怒哀楽などまったく及ばない。あの頃の僕は、この“愛”に惹かれていたのだ。


 そんな頃のある日のことだ。僕がいつものようにその入り江に行くと、すでに一人の男が浜に座って海を見ていた。一目で分かる、異国の人だった。

 何か大切なもの盗られてしまったような感じがして、浜への入り口で立ち尽くしていると彼は僕に気づく。が、男は一瞥しただけですぐに海のほうに向き直ってしまった。一瞬ぐらいにしか彼の顔を見ていなかったはずだが、Cとロゴの入った青い野球帽をかぶり、病人みたいに白い肌をした、肉のついたたるんだ顔に何か嫌な気分を覚えた。

 僕は警戒しながら、流木の脇に隠すように置いていたパラソルを手に取ると、彼からなるべく離れたところから海に入り、白い砂がゆれる浅瀬を砂州に向かって歩く。その途中で何度か男のほうを見やったが、彼はただ海を、ターコイズブルーのその彼方をぼうっと見つめていた。

 その奇妙な存在は、黒く染みのように頭に残って、島に渡ってもなかなか落ち着くことが出来ない。しかし一度甘い世界に浸ってしまうと、その染みはうやむやになって消えてしまった。帰りには彼の姿はなく、僕自身彼のことは忘れていたように思う。

 次の日も男は浜にいて、昨日と同じようにどこか遠くを見つめていた。

 それを見て、また彼から離れて海に入ろうとすると、そのとき、聞きなれない声が耳に入った。誰かを呼ぶような感じのその声にあたりを見渡すと、男がこちらをみていることに気づく。

 「こっちにきてくれませんか」

 男はかろうじて分かるぐらいの雑な発音でそう言って、ぎこちなさそうに微笑みながら手招きした。

 今思い返せば、何故あんなあやしい外人に近寄って言ったのか不思議だが、単に異国への好奇心が子供心に作用してそうさせたのだろうか。

 誘われるがまま男のもとにゆくと、彼は吹き出る汗を拭いながら手にしていたガイドブックを開き、外国訛りの強い声で読み上げるように言った。

 「なにをしているんですか」

 僕は困惑した。「なにをしている」といわれても、そんなことは考えたこともなかったし、此処でのことをそのときの僕には明確な言葉で表すことなど出来なかったからだ。何もしていないようにも思えたし、かといってそうも思えない。風や波の音を聞いているだけ、とは似ているようで何か違う。どう言えばいいのか迷った挙句

 「ここが好き」

 と、自然に頭に浮かんだ言葉を僕は素直に口にした。

 しかし男は理解できなかったようで、焼けて赤くなった眉間を少し歪ませる。どうすれば分かってもらえるだろうと考えていると、彼は何かに気づいたように傍らのリュックサックを開けて、その中から一冊の小さな本を取り出す。彼はその本を僕に見せながら、まず僕を指差し、それから本、そして彼自身を指差した。

 なんだろうと本を良く見てみると、それは僕の言葉と彼の言葉をどちらからでも訳すことのできる辞典で、どうやら彼はこれを使って伝えてくれといっているらしい。

 僕はうなずいて彼から辞典を受け取り、ページをめくった。

 {ここ}

 {すき}

 二つの単語をそれぞれ探し出し、指差して男に見せる。すると、そのときは疑問には思わなかったが、彼はそのズレた答えに感慨深げにうなずき、何か考えるような顔をして海の方を向いた。つられるように男の視線を追う。すると、穏やかな浅瀬に浮かぶ真白い砂が、まるで誘うようにちかちかとしているのに目が留まった。

 視線を男に戻すと、彼はぼんやりとして思慮にふけっているようだった。彼のダークブラウンの瞳には、珊瑚の海も、その向こう深い紺の海も、薄い空色も、白く立ち上る雲もない。まるで僕が始めからいないかのようだ。呼びかけると、男はそのどこか焦点の定まらない目を僕に向ける。一瞬の間の後、すっと手を出して奪い取るようなやり方で辞典を受け取ると、今度はそのページをめくったり注視したりした。何か単語を探しているというよりは、次の言葉を探すための間を取り繕っているようだった。

 待たなくてはならないことが直感的に分かって、僕はもう一度島を見た。今度は薄青い海に白い穴がぽっかりと開いている。その穴を形作るたくさんの細かい光の粒が明滅しながら全体に陰影を作り出し、穴の向こう側がゆっくり現れては消えてゆく。その様に、なんともいえない焦燥感が体の芯から滲み上がってくるのを覚えた。

 しばらくすると、彼は僕に呼びかけながら一つの単語を指差して見せた。

 {ひとり}

 分かった、という意味でうなずく。すると彼は慌ただしくページをめくってゆき、数ページを指でなぞりながらようやくお目当ての単語を見つけだすと、また指を差して見せる。

 {すき}

 うなずき、またページをめくる。それを繰り返す。

 彼は世話しなく辞書をめくってはいたが、とにかく単語を見つけ出すのが遅い。意識の外で波が行ったり来たりするのが僕を苛立たせ、あれからたった三つの単語しか指さなかったはずなのに、それらを組み立てるどころかまったく頭に入らなかった。

 ようやく彼は手を止めると、僕に微笑みながら「ok?」と言う。僕は首を振った。もう一度最初から単語を指してくれと身振り手振りで何とか伝えると、さっきよりは短かったが、やはり時間をかけて彼は一連の単語を指差して行った。

 {ひとり}

 {すき}

 {こども}

 {あいされる}

 {せいれい}

 彼はもう一度分かったかと言い、その声にうなずく。今度はなんとか全てを頭に入れることが出来た。

 しかし、どういう意味だろう。単語たちの意味を考えても、考えても分からなかった。今からすれば、そのときの僕は考えること自体をしていたかさえ疑問だが。

そのちょっとした熟考の間に、また男は僕の存在にまるで関心を持たないかのように海を向いてしまった。海を映す彼の焦げた瞳は、ずっと深くまで何もなかった。

 もういいや

 一瞬頭をよぎった思いに、小さかった僕の体は素直に反応した。男に呼びかけ、バイバイと手を振って駆け出す。もちろん、あの煌く星砂の島に、だ。僕はもう波がぶつかったり砕けたり風が凪いだり吹き抜けたりするのを横目に感じるのに耐えられなくなっていたのだ。

 途中、また一瞬、悪いことをした気分になって振り返ると、彼はこちらを見て手を振った。それが彼を見た最後だ。島に行ってからはすぐ恍惚の世界に浸ってしまったし、帰りには前の日と同じで彼が居たかどうかさえ感じていなかった。そして次の日には男はもう浜に居らず、僕は彼のことなどきれいさっぱり忘れてしまっていた。(ただ、あの時の彼は酷く寂しそうに笑っていたように思う。)


 最後に男と会って、何日か経ってからだと思う。単なる陶酔だったはずの島での時間に、小さな変化を感じるようになった。

 今まで重なり合うほど近くに感じた島の吐息が、その包み込むような感覚を残したままに、広い世界の中でゆっくりしぼむように離れてゆく。空っぽのようでそうでないところと、満ちているようで空っぽなところとに分かれる。始めは分からなかったが、離れていくのは満ちているように感じるほうだと、いつの間にか気づいていた。

 僕はこの微かなようではっきりとした変遷に並々ならぬ興味を持った。学校が終わるとわき目も振らず島に行き、ただ大気や海の音を聞き太陽や砂浜の熱を受け止めるのではなく、その熱っぽい感覚の中で遠ざかってゆくものを探しだし、それをしげしげと観察することに没頭していった。

 その蠢くものは、日を追うごとにその境をざわつかせながら、ゆっくりと、一点に集まってゆくように変化してゆく。いままで僕を捕らえていた“愛”が、まるでそこに存在するかのように境界を感じ、生き物のように変化してゆくのに、たまらない興奮を感じた。いつしか時間を忘れ、日が暮れてもその島に居座るようになり、辺りが真っ暗になった頃に家に帰ることが多くなっていった。

 僕は動き出した“愛”が何かしらの形をとるだろうと考えていた。あんなにもありとあらゆるものを内包したものが、このまま縮んで縮んで無くなってしまうとは思えなかったからだ。その期待は当たった。それも最も望んでいた形に。

 “愛”は、僕の頭上数メートル位の空中に集まってゆき、紡錘形をとった。一方の端がくびれて先が丸くなり、そこから少し中心側へ行ったところに左右対称に細長い二つの枝が分かれ出て、もう一方の端からだいたい全体の半分位のところまで二つに裂けてゆく。そして裂けた部分と二つの枝、その先っぽの部分に小さな膨らみが現れる。四つの小さな膨らみの先が五つに裂けた。それらは形を整えながらあの良く見慣れた曲線を描いてゆく。頭、手、脚。そう、人の形をとり始めたのだ。

 変化は数日間かけてゆっくりと進み、ほとんど人の体と変わらなくなったその日、僕は胸の奥で騒ぐ興奮を、どうしても先が知りたい気持ちを抑えられなくなってしまった。いつものように辺りが暗くなったのは分かっていたが、もう少し、もう少しとするうちにうとうとしてしまい、気づいたときには空が白みがかり、夜が明けようとしていた。まさか一晩中砂の上に寝転んでいたことを驚き、あわてて家に戻ろうとすると、熱帯樹林に少し入ったあたりの木立にいくつかの白色光が揺れているのが目に入った。それが懐中電灯の光だと分かるのに時間はかからなかった。揺れる光は生い茂るシダを掻き分け、浜に数人の人影が現れた。そのうちの一人が、手に持った懐中電灯のまばゆい光をこちらに向け、確かめるように僕の名前を呼んだ。彼らは警官だった。

 僕が帰ってこないと、家ではけっこうな騒ぎになっていたらしい。家族にはここにいることを話したことがなく、友達は学校にいるとき以外僕がどこで何をしているかなんて知らなかったことが、この時間まで僕をあの場所に居させた原因だった。隣に住んでいた一つ下の男の子に一度だけ話したことが無かったら、そしてその子がはっと思い出すことがなかったら、もっと事が大きくなっていたかもしれない。

 警官に連れられて戻った僕を、祖父母、そして母の涙が待っていた。まるで不幸に引き裂かれた親子が何年かぶりの再会を果たしたように、むせび泣く母たちに代わる代わる抱きしめられ、それが僕に一層の罪悪感を覚えさせた。

 その最中に、僕が見付かったと知らせを受け、大急ぎで捜索から戻ってきた父が飛び込んできた。父はこんな時間までどこで何をしていたんだと声を張り上げながら、そんな母たちの抱擁から僕を引き剥がした。そして、僕の肩を掴んだまま顔を正面に見据えるように身を屈め、赤く血走った目で僕を睨み付けた。

 僕は父の迫力に気おされて頭が真っ白になってしまい、何をどう話せばいいのか整理のつかないまま口を開いた。しかし、島で寝転んで、とまで言って、あの感覚やその蠢きの事をうまく説明できずにもたついていると、父は言い訳だと思ったのかそこで話を切った。父は息を整え、

 「お前は友達もいないのか」

 そういった父は悲しみにも失望にも見える顔をしていた。父は僕を捜す間、学校や近所の子供たちの誰もが僕のことをよく知らなかったこと、皆が遊んでいる間僕がたった一人で時間を過ごしていたことを知り、驚き、嘆いたのだろう。

 そう言われた瞬間に、僕は頭の芯を硬い拳で殴られたような気がした。自分に友達がいないなんてことを意識したことはなかったから、そのときの僕に突きつけられた言葉は衝撃だった。何故そんなことを言うのだろうと、僕は混乱した。父の言葉を受け入れることも、はねつけることもできずに、なぜか目頭が熱くなって何も言うことができなかった。

 ぐるぐるする頭で黙りこくった僕を、父は潤んだ瞳でじっと見つめた後、頬を寄せ合うようにきつく抱き寄せた。そして、聞き取れないぐらいのかすれ声で言った。

 「無事でよかった」

 それから先はよく覚えていない。警官や僕を探すのに協力してくれた人達にお礼を言ったりしてひと段落ついた後、あらためて両親に怒られ、あの浜に二度と行かないことを約束させられた。そして、妙に学校に行きづらかった記憶があるだけだ。


 友達がいないと父に言われてから、僕はそのことをよく考えるようになった。僕には友達がいる。でも、あの島での感覚を知ってから、彼らとは疎遠になっていたことはわかっていた。友達からの遊びの誘いを断り続けているうちに、あまり誘われることは無くなったし、目まぐるしく変わる彼らの話題にもついてゆけなくなった。また、島でのことは完全に自分の世界のことで、自分から彼らにその話をしようとは思わなかった。他人から見ればただ一緒にいただけなのだろう。父に言われるまで、僕はその状態に何の疑問も抱かなかった。僕らは嫌いあってなどいないのだから、たとえ何があっても彼らと僕の関係は変わらないだろうと勝手に思い込んでいたからこそ、あのときに何も返すことができなかったのだ。

 砂州に行くことを禁じられてから、僕は再び友人達と付き合うようにはなった。だけれど、どうしても今までの延長のような付き合いにしか思えなかった。遊んでいても、しゃべっていても、何か違うのだ。島を知らなかった頃のように楽しくない。友達もそれが分かるのか、以前のようには接しあうことはなかった。

 そんな日々が続き、しだいに島の感覚が懐かしくなってくる。あの塊みたいなものはどうなったのだろうか?人になったのだろうか?またあの感覚を味わいたい。止めどない思いが溢れ、考えれば考えるほど、今がつまらなく感じた。しかし島へ行くことには抵抗があった。行こうと思えば行けたのだが、あのときの母たちの涙や父の悲しそうな表情が頭に浮かんで、その欲求に割り込んできたからだ。


一月ほどたって、張り詰めた糸が切れたかのようにあの島に向かった。ほとぼりが冷めてきたのも確かだが、別に我慢が出来なくなるような何かがあった訳でもなく、本当に突然だった。単に我慢の限界を超えてしまっただけかもしれないが、何かに誘われるように浜へと続く熱帯樹林の前に行き、吸い込まれるように中へと足を踏み入れたのだ。

 久しぶりの浜にはやっぱり誰もいなくて、波が静かに打ち寄せていた。半月の中心にあるあの島も、きらきらと白い砂が光っていて、何も変わりない。強い日差しにパラソルがないことに気づいて、何気なく辺りを見回すと、すぐそばのシダの草むらに、あのいつものパラソルが打ち捨てられているのが見えた。

 パラソルを拾い上げ、白い浜を駆けた。浅い海を跳ねるようにして渡り、砂州の真ん中でパラソルを開いて、立てた。その影の下に海を向いて座って、逸る心を抑えるように一息吸った。青み広がる藤色の空の中、綿を積み上げたように厚く白い雲が、遥か紺色の海の微か上に浮いている。目の前にはサンゴのいろんな色が、薄青く色づいた海を透して、揺らめき混ざり合いながら広がっていた。

 しばらく目の焦点を合わせず、頭も空っぽにしてそれらを眺めた。あの感覚がさざ波みたいに押し寄せてきて、それにあわせて目を閉じ、仰向けに横たわった。何か恐ろしく順調。心臓が高鳴ってゆくのがはっきり分かった。眼前を覆う瞼の闇が、水に溶けるように滲んで、薄く、無くなってゆく気がした。あらゆる神経を通して、あの空が、海が見えた。パラソルの向こうに、優しい輝きを保った太陽があった。

 でも、それは僕の感覚だった。今まで感じていたような砂州の感覚じゃない。そして気づいた。周りには、あの満ちているようで空っぽな感覚ばかりしかないことに。そうでない生き物のような感覚を、僕は探した。前に浮かんでいた空には無い。この一月で何が変わったのか。焦るようにそう確かめた、その時だった。

 足。足だ。二本の足が、寝転ぶ僕の頭のすぐ上に、砂を踏みしめて立っている。僕は反射的に起き上がった。その瞬間、体がいつもと違う反応をしたことにはっとした。なにか気持ちの悪い、まるで体から魂が抜けだしてそう動いたような、そんな気がしたのだ。

 目の前には人がいた。正確には、人のような輪郭があった。背丈はあの頃の僕ぐらいで、子供のように見えた。体全体がぼやけていて、肌も髪も何色をしているか分からない。それどころか、人影の後ろにあるはずの、熱帯樹の林や浜が透けて見えるような気がした。でも、確かにそこにいる。目も鼻も、口すらも、遠い霞の向こう側のように見えるのに、惚けたような眼でこちらを見つめ、口角を柔らかく引き上げながら、僕に微笑かけているように思えてならなかった。

 怖くも恐ろしくも無かった。警戒心さえ起こらない。ただただ、その笑顔のようなものに見惚れてしまった。僕は分かっていた。これが、この子が、あの“愛”なのだ、と。

 お互い見つめあうように向き合っていると、“あの子”はゆっくりと口を開いたように見え、次の瞬間、強く心地よい“愛”の見えない波動が体の中に響き渡った。心臓が沸き立たつように鼓動し、同時に真っ赤な血が背筋の下から上へ遡っていくように、体が熱くなるのを感じた。これが、“あの子”の声だと思った。

 挨拶したのだと思って、僕は声を出して返そうとする。けれど、喉を震わせ口を動かしても声が出ない。代わりに、あの“愛”の波の残響みたいなものが僕の中に沁みていって、心地よくなって、これでいいという気がした。探るように“あの子”を見ると、ニコリと笑ったみたいで、何故か伝わったんだと思った。僕も、いや、ここでは、言葉はすべてあの“愛”の声で、直接相手に伝わるのかもしれない。もう一度、今度は自己紹介で、自分の名前を言ってみた。すると、また体の中に気持ちのいい、微かな波が響くのを感じた。

 “あの子”は頷き、唇を動かした。さっきとは違うリズムの波に、僕の心はまた違った喜びの熱を帯びる。言葉では理解できなかったが、確かに“あの子”の名前を知った気がした。“あの子”の名前は、きっとその“愛”のリズムで表されるのだ。その名前は優しくて、気高くて、美しい感じがした。

 “あの子”の名前に少し視界が鈍くなって、それが良くなったとき、“あの子”がこちらに向かって手を伸ばしたのが見えた。そして“あの子”のぼやけた手が僕の頬に触れたとき、あまりに強い“愛”の感覚が僕の中に激流のごとく流れ込んできて、全身の力が抜けたと思った瞬間に崩れ落ち、目の前が真っ暗になった。

 気づいたときにはもう“あの子”はいなくて、周りもあの“愛”を感じる空間ではなくなっていた。気を失っていながらもあの“愛”に酔っていた僕は、目覚めてもその余韻に浸っていて、しばらくは赤く焼けた空を見ながら呆けていた。一羽の鳥がけたたましく鳴きながら、空に黒い影を落として飛んでゆくのが目に入って、ようやく正気が戻った。帰ろう。今まで自分が体験したあらゆる出来事よりもまずそう頭に浮かんだ僕は、急いでパラソルをたたんで浅い海に入り、島を後にした。熱帯樹の中を急いで走りながら、だんだんと自分の体験が普通じゃないことに気が付いてきたが、それに驚きや興奮を感じるよりも、またまだもの足りない、あの島に引き返したい、そんな切ない気分に身が焦がれてしょうがなかった。でも、また騒ぎになったらという恐怖の方が勝って、何とか空が完全に暗くなる前に家にたどり着き、また島に行っていたのではと父達に怪しまれたのは友達と遊んだという嘘で丸め込んで、どうにか事なきを得たのだ。

 その夜、僕は眠れなくて、夜の闇を見つめながら昼間のことを頭に浮かべていた。記憶の底からあの“愛”の残りを手繰り寄せるようにしてかき集め、貪るように味わっていてもすぐに物足りなくなってしまう。“愛”を求め“あの子”とのことを何度も何度も思い返してゆく中で、当然といえば当然の疑問が湧いてきた。“あの子”はいったいなんだろう。何であるかは結論がついていた。でも、そのときの何であるかというのは成分的なものであって、“あの子”そのものを表す具体的な単語では無い。そこで僕はどう“あの子”を括ればよいのか、知っている言葉を思い浮かべて“あの子”と一つ一つ照らし合わせていった。

 神様。違う。そんな神々しい感じじゃない。天使。これも違う。悪魔。冗談じゃない。後は……精霊?

 せいれい。その言葉に、ふと一ヶ月以上前、浜に座っていた異国の男のことを思い出した。確か、男が辞書から指した単語の中に、せいれい、という単語が在ったはずだ。あの男の人は何て言おうとしていたんだろうと、彼が指した単語を思い返してみた。

 {ひとり}

 {すき}

 {こども}

 {あいされる}

 {せいれい}

 たぶん男はこの五つの言葉を指したはず。少し頭を整理して考えてみると、あのとき見当もつかなかったこの言葉達の意味が、そのときには僅かに解った気がした。

 あの人は、僕みたいな子供は精霊に愛されるって、言いたかったんじゃないだろうか。だとすると、“あの子”は精霊ってことになるのかなぁ?

 でも、何かが違うと思った。けれど、あの男は“あの子”について何かを知っているようにも思えた。しかし幾度となく考え直してみても、結局精霊のようなで堂々巡りを繰り返し、男と“あの子”の関係も分からずに、仕舞いには何の結論も出ないまま寝入ってしまっていた。

次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、まるで当たり前のように僕はあの島に行った。“あの子”は変わらずそこに居て、いつも僕に“愛”をくれるのだった。その充実した“愛”に触れていると、 “あの子”と一緒に居ることだけが何より大切に思えて、他のことなんてもうどうでも良くなってくる。それにあわせて、僕の中から、まるで太陽の下の氷のように、 “あの子”が何であるかなんてことは、瞬く間に消えていってしまったのだ。

 ただ、あの男と“あの子”の間に、微かな繋がりがあるように感じてはいて、男とのどうでもよかったはずの出来事が、何か重要なことみたいに頭に刻まれたのはこの頃だ。

 何日も過ぎると、 “あの子”に触れることで流れ込んでくる、初めは気を失うぐらいだった強烈な“愛”にも慣れて、僕は導かれるままに、“あの子”の膝枕でまどろむばかりになった。ここら辺の記憶はすごく曖昧だ。“あの子”にも、あの空間にも慣れ、毎日同じようなことばかりしていたのも一つだが、“あの子”から溢れる“愛”が僕の感覚を一杯にしていて、どこか遠い所から自分を見ているような気分でいたからだろう。だから、“あの子”と何を話していたんだか、それともまったく話さなかったのか、そういうこともまったく覚えていない。時間の経つのだけがとにかく早かった気がする。

 そんな状態にも係わらず、理性だけは常にどこかにあった。空が暗くなるのを察知すると、必ず帰らなくてはいけないという思いに駆られるのだ。すると“あの子”も空間もすうっと消えて無くなって、名残惜しいとは思いながらも、日暮れ前には家に着くことが出来た。


 “あの子”と会ってどれくらいの時間が経ったのか、家でも学校でもあの島を想い、遠く見つめるようになっていた頃。話しかけられても上の空でいる僕を家族は心配して、そういう状態でいることに厳しく小言を言うようになった。特に父は、また一人であの浜に行っているんではないかと怪しんで、時に怒りをもって僕に詰め寄ったりした。でも、自分が所構わず呆けるようになった原因を、僕が“あの子”に求めるはずもなく、何の問題も起こしていないのに何でそんな怒られなければならないのかと、僕は逆に家族への苛立ちばかりを募らせた。そういう家族への憤りが、僕の心をますます“あの子”に向けさせ、僕はより一層“愛”に溺れ、また呆けていった。

 その日、朝からそんな風に父から雷を落とされ、嫌なフラストレーションが溜まっていた僕は、いつもより長く“あの子”と一緒にいることにした。そして、いつもより辺りが薄暗くなった頃、家に帰るために、軽やかな足取りで町の中を走っているときだった。知り合いの小父さんに慌てて呼び止められて、父が突然倒れて病院に運ばれたこと、家族が僕を探していることを知らされた。驚いた僕は促されるまま小父さんの車に乗り込んで、朝僕を叱った父を思い浮かべながら、何か信じられない気持ちで病院に向かった。

 父がいるという集中治療室の前には、父を除く家族の皆がいた。遅れて現れた僕に、皆口々に父は大丈夫だと言った。ただ、大人たちは目に涙を浮かべながら押し黙り、弟妹達の父を心配する声に時折大丈夫と答えるその言葉の弱弱しさに、父の容態が深刻であろうことだけは理解できた。僕は島へ行っていたことが、いつもより長くいたことが父の倒れた原因のように感じて、自分から皆に口を聞くことが出来ずに、集中治療室の白色のドアを呆然と見つめていた。

 父はそのまま逝ってしまった。僕は父の死に心が凍り付き、まるで車窓を流れる景色のように、父の死に顔から葬式へ、淡々と僕の目の前を通り過ぎていった。

 葬式が終わった、いまだ重苦しい空気が包むその夜。弟妹達は泣き疲れて寝静まり、ただ一人起きていた僕に、母が父のことについて話してくれた。死んだ原因は心不全で、父はその少し前から性急に治療が必要なほど心臓が悪かったらしい。しかも、父はそのことを誰にも話さず、ずっと黙っていたらしいのだ。しかし、医者へ通い続けることを許すほど家に余裕がなかったのも確かで、それは僕たちに心配させたくないという父なりの優しさだったのだと、母は泣き、声を詰まらせながら言った。また母は、父はいつも僕のことを気に掛けていたこと、父が病院に運ばれるとき、苦しみながらも僕の名前を口にしていたことを教えてくれた。そして最後に、これからは自分たちだけで生きていかなくちゃいけない、死んだ父のためにも長男としての自覚をしっかりもってほしい、と母は僕を諭したのだった。

 母の言葉に、父が死んでから始めて涙が流れた。自分が言いつけを破って過ごしてきた時間が急に虚しく思え、本気で心配してくれていた父を裏切り続けたことが恥ずかしくて、悔しくて、父を想う心が一気に溢れ出たからだ。そして気の済むまで泣きじゃくった後、眠りに付きながら横に眠る弟や妹を見て、自分が頑張らなくては、と何か一家全員の未来が僕に懸かっているような、そんな気持ちになった。とにかく家族の期待に応えようと決心し、もう二度と“あの子”に会いに行かないと、心に固く誓ったのだった。


 夜が明けると、僕は浜に向かった。“あの子”に会うわけではなく、別れを言うために。どうしてかそうするのが礼儀のように思ったのだ。けして誓いを破ろうとする気はなく、途中、けして“愛”に心が急くこともなかった。浜に着いても、いつも感じた焦燥感はなく落ち着いていて、パラソルを持って島に行くのに急ぐことはせず、それは島で“あの子”に会うまでの時間も同じだった。

 奇妙だった。昨日まであれだけ満ち足りた気分にさせた“愛”が、まったく中身のない、完全に空っぽのように思えたのだ。あまりの気分の悪さに、さっさと話を済ませて帰ろうと“あの子”を探した。

 “あの子”はいつものように僕のすぐ前に現れ、変わらない笑みを僕に向ける。“あの子”からも“愛”を感じることはなく、“あの子”こそ、この空虚さの根源のような気さえした。そして何故か“あの子”は僕が言いたいことを知っていて、それを待っているのか、いつもみたいに座って膝に招くことはせず、僕は気まずいような気さえしながら“あの子”を見つめていた。

 僕は、もはや“愛”ではない声で

 「さようなら」

 とだけ言った。“あの子”は表情一つ変えず、また何も言わなかった。

 周りの嫌な感じのする空間が、水のように流れて消えてゆくのを感じた。“あの子”も分からなくなり、これで最後だと息を吐いた瞬間、あの“愛”だった声が、“あの子”の声が、響いた。背筋がざわつく不快感がした。“あの子”の言った言葉、さよならではなく

 「愛は、死?」

 全てが終わった島で立ちすくみながら、この言葉を頭の中で繰り返した。しかし、さっきまで“愛”だったものに感じていた悪寒と、その言葉の不気味さに、僕は逃げるようにあの浜辺を後にした。

 決意の通り、これが“あの子”に会った最後になった。



 今僕は何故、子供の頃の、空想が入り混じったといってもいい出来事を意識するのか。“あの子”は幻、妄想なのか。それを否定する自分は、微かに、いる。なぜか、今になっても。

 あの浜へと続く熱帯樹林の中で白骨死体が見つかった。

 僕はそれを新聞で知った。そのとき“あの子”のことはもう昔の出来事だった。でもやはり気になって、その小さな記事を恐る恐るといった感じで読んでみたのだ。

 そこには、この国で長い間行方不明になっていた外国人男性が、あの熱帯樹林の奥で白骨死体となって発見された、といった内容が書かれていた。死因は自殺。

 僕は青い帽子、というのに目が留まった。あの、昔浜辺にいた男、確か青色の野球帽を被っていた。さらにこの記事によると、彼が死亡したであろうとされた年の幅は、僕があの男に会った年を含んでいる。

 僕はこの奇妙な偶然の一致に何かいてもたってもいられなくなって、何をしたいのかよく分からなかったが、あわてて警察署に向かった。追い返されるかとも思ったが、受付の警官に事情を話すと、奥に通され、事件の担当だという二人の警官に一通りの話を聞いてもらえることになった。

 はじめはなんだか胡散臭そうに聞いていた二人だったが、青い帽子の特徴を話すと、お互い顔を見合わせて、これはという顔をした。すると、ちょっと待て、と言って一人が立ち上がり、しばらくして透明なビニールに包まれたボロボロの帽子を持ってきたのだ。

 間違いなく青い野球帽。そして汚れて黒ずんではいるが、白いCのロゴがはいっている。これか、との声に僕は大きくうなずいた。そして、警官は一枚の古い写真を取り出し、それを僕に見せた。まさに、あの男その人がそこにいた。


 今、その帰り道。

 あの男は知っていたのだ。“あの子”を。それに似たものを。


 本当に久しぶりにあの浜へ行った。何も変わらない。ただあの頃のように砂州に寝転んでも、“あの子”は現れないが。

 もう見えないんだ“あの子”は。目を閉じると全てが過去にある。

 あの男。僕は“愛”に囚われなかった。

 “あの子”は何故、僕に聞いたのか。

 それは悲しみか。ならば僕は死に、父の死に囚われたのか。

 僕はそこから去った。

 もう二度と振り返らないでおこう。もうあのとき、別れは言ったのだ。事実でも、幻でも。


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