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夫が戦地から愛人を連れ帰りました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/10




 終戦の報せが届いて数日。


 ドレイモンド子爵邸の玄関は、久しく人の出入りがなかったせいか冷え切っていた。


 扉が開くと同時に冷たい風が吹き込み、私の頬を撫でた。


「マルセラ、帰ったぞ」


 低く響く声。

 金髪を無造作にかき上げた夫が、勝手に誇らしげな顔で立っていた。

 整った顔立ちだけは、変わらない。


「お帰りなさい」


 形式だけの言葉を返すと、夫は満足げに顎を上げた。

 その後ろに、見知らぬ女が立っている。


「こちらはターニャ。

 今日から、ここで一緒に暮らす」


 女は濃い栗色の髪を派手に巻き、赤い口紅を塗っていた。

 年齢相応の皺を隠すように厚化粧だが、妙な自信に満ちた笑みを浮かべている。

 腰のくびれを強調する深い緑のドレスが、庶民上がりの成金趣味を物語っていた。


「こんにちわー」


 軽い声。礼儀も格式もない。


「それは愛人ということですか」


 私が問うと、夫は鼻で笑った。


「愛人だって? 彼女は入籍してないだけで妻だ。第2夫人だ」


「この国は一夫多妻じゃありませんけど、呆けましたか?」


 夫の眉が跳ね上がる。


「ああ、うるさい! 領主で当主の俺が決めたんだ。受け入れろ」


「なるほど」


 玄関の冷気よりも、胸の奥の温度の方が低かった。







 ──8年前。


 私とカシアン・ドレイモンド子爵が初めて顔を合わせたのは、よりによって結婚式の当日だった。


 扉の向こうから現れたカシアンは、金髪を丁寧に撫でつけ、青い瞳だけは妙に自信に満ちていた。

 整った顔立ちをしているのに、どこか空虚な印象がある。

 礼服は上質だが、着慣れていないのか肩が浮いていた。


 この男と私は今日、初めて言葉を交わす。


 彼はあまり仕事ができないらしく、前当主を亡くして爵位を継いだものの領地経営が傾いてしまい、私に婚約を打診してきた。


 私は父の仕事を手伝いながら、自分も商会を経営していることで有名だった。


 私は最初、縁談を断った。

 1つは、ドレイモンド領が実家から遠すぎること。

 もう1つは、婚約者を亡くしたばかりで、心の整理がついていなかったこと。


 我が家は男爵家。

 高位貴族からの打診なら断れなかったが、子爵家なら階級差がさほどない。

 だから私は丁寧に辞退した。


 ──それで終わるはずだった。


 ところが、王家からの圧力がかかった。


 結果──この結婚式だ。


 祭壇の前で並んだカシアンは、私を一瞥しただけで、興味の欠片もない表情をしていた。




 教会を出て披露宴会場へ向かう馬車は、白いレースのカーテンが揺れ、窓から差し込む陽光が淡く車内を照らしていた。

 革張りの座席は新しく、香水の匂いが微かに残っている。


 向かいに座る新郎は脚を組み、鏡でも見るように私を眺めていた。


「ふうん。顔と体は60点」


「は?」


 思わず声が漏れた。

 彼は青い瞳を細め、得意げに肩をすくめる。


「まあまあって意味だ。

 50点以上にしてやったんだ。

 ありがたく思え」


 何を言っているのか、理解するのに数秒かかった。


「私は『嫁にきて欲しい』と頼まれて来たんですけど。

 それは、わかってます?」


 カシアンは鼻で笑った。

 礼服の襟を指で整えながら、つまらなそうに言う。


「頼んだのは俺じゃない。

 母が勝手に釣書を送ったんだ。

 俺は被害者だ」


「被害者って……当主なのだから、止めれば済んだのでは?」


「送ってから事後報告されたんだ。

『やはり無かったことに』とは言えないだろう」


 言い訳ばかり。

 責任を負う気がまるでない。


「なるほど。

 では白い結婚として3年後、子供ができないという理由で離婚しましょう」


「えっ」


 間抜けな声が返ってきた。


「『子供ができない』という理由で離婚して『傷物石女』と罵られるのは私であって、そちらにデメリットは無いでしょう。

 良かったですね、被害者さん」


 カシアンの表情が一瞬だけ揺れた。

 だが、すぐに金の眉をひそめて問い返す。


「……それで、お前はその後どうやって暮らすんだ?」


「実家に戻るだけですが」


「実家が受け入れなかったら、どうする?

 再婚もできないぞ」


「うちの実家が受け入れ拒否することはないですが、もしそうなったら王宮で侍女をします」


「そんなの受かるか、わからないだろう」


「いえ、採用試験には受かったのです。

 でも前の婚約者に反対されました。

『外で働くと家庭のことが疎かになるから』と」


「当然じゃないか。

 金に困ってるわけでもないのに、妻を働きに出せば虐待だと思われかねないだろう」


 内心ため息をつきたいのを、グッとこらえる。


 外で働くと家庭が疎かになる──そんな建前だ。


 自分が上の立場でいたいだけだろう。


「そうでしたか。それは失礼しました」


 もう話すのが面倒になり、窓の外へ視線を向ける。

 石畳の道を馬車が滑るように進み、遠くに披露宴会場の白い建物が見えてきた。




 披露宴の挨拶も形式的な笑顔も、慣れないウェディングドレスも、すべてが重くのしかかり、部屋に戻るなり私は灯りも落とさず眠ってしまった。


 どれほど眠ったのか。

 ──ガチャ、ガチャガチャ。


 金属が乱暴に揺れる音で目が覚めた。

 暗い室内に、扉の向こうから響く不気味な音だけが続く。


 ──怖い。

 こんな夜中に一体、誰が?

 怖すぎる。


 喉がひりつくほど乾き、布団の中で身を固くした。


 やがて音は止んだが、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。


 明日からドアの前に見張りをつけよう。

 いいえ、昼間も護衛をつけた方がいいかもしれない。


 そんなことを考えながら、再び浅い眠りに落ちた。





 翌朝。

 扉の前にメイドが待機していた。

 若い娘で、淡い茶髪をきちんと結い上げ、緊張した面持ちで私に一礼する。


 朝の支度を整えてもらい、食事が運ばれる。

 銀の蓋を開けると、温かい野菜スープの香りが広がった。


「旦那様と召し上がらないのですか?」


 メイドが恐る恐る尋ねる。


 初めて2人になった時の言葉が“60点”の人とは、極力関わりたくない。

 朝から嫌な気分になってしまう。


「いいのよ。3年したら離婚するの」


「えっ」


 メイドの目が丸くなる。


 ……もしかしたら、これを言うことで待遇が悪くなるかもしれない。


 でも、初夜がなかったことを疑問に感じているだろうから、早めに言っておこう。


「姑が勝手に、私へ婚約を申し込んだんですって。

 だから3年したら“子供ができない”という理由で、別れることにしたの。


 もちろん私は領地経営のために呼ばれたから、後任になる人材を育てる。

 だから給料がなくなるかもって心配しなくていいから」


「そうなのですね」


 残念そうな声。

 ああ、奥様付きになれたのに、離婚したら降格するからか。

 ちょっと可哀想かもしれない。


「食事が終わったら早速、執務官を呼んで。

 今後の仕事について話し合います。帳簿も持ってくるように言って」


「わかりました」


 メイドは丁寧に、一礼して下がっていった。


 ──今日から本当に、私の仕事が始まる。




 食後、部屋の扉が静かに叩かれた。

 入室を許すと、長身の美男が進み出る。

 黒髪を後ろで束ね、深い灰色の瞳は落ち着き払っている。

 白手袋をはめた指先の動きまで無駄がなく、黒の燕尾服がよく似合う。


「御呼びとか」


 低く澄んだ声。


 昨日、披露宴のあと邸宅に着いた時、玄関で出迎えてくれた執事だ。


「あら? あなたは執事でしょう?」


 問いかけると、彼は微かに首を傾けた。


「家政だけでなく執務もしてるのです」


「あなたが責任者ってこと?」


「いえ、他の者は辞めたり解雇されて、私しか残ってないのです」


「ど、どういうこと?!」


 思わず声が上ずった。


 ヘルマンは表情を変えず、淡々と続ける。

 まだ20代半ばなのに、冷静そのものだ。


「財政難なのです。

 普通なら奥様には、数人の侍女とメイドがつきますが、1人しか雇えませんでした」


 どうせ離婚するから1人でいいだろう、という意味かと思っていた。

 違ったらしい。


「料理人も掃除メイドが兼任してます。御者も庭師を兼任。門番や護衛も私兵が兼任してます」


「な、なんで、そんな経済状態に?」


 不評を聞いたことのない先代が亡くなって、1年も経っていないのに。


「旦那様はギャンブル依存症なのです。

 先代が生きてた頃は、まだ我慢してましたが継いでからは、貯蓄を次々溶かしています」


 頭が痛くなる。


「姑が当主権を取り上げて、女子爵になればいいのに」

と、口にすると、執事は静かに首を振った。


「大奥様も御年ですし、旦那様は一人っ子です」


 どちらにしろ、あの人が跡継ぎってことね。


「ああ……そう……」


 どうすればいいんだろう。


「領地収入を増やしても、ギャンブルに注ぎ込むなら無意味じゃないの?」


 ヘルマンは、わずかに目を細めた。


 その表情は、私の理解力を評価するようでもあり、同時に深刻さを伝えるものでもあった。


「おっしゃる通りです。

 増やしても旦那様が使ってしまわれます。

 ですので──“増やす”だけでは解決になりません」


「子爵領は広大ではない。

 つまり、ギャンブル施設も限られてると思うんだけど?」


「その通りです。

 城下町に小さいカジノクラブがあり、そこへ通っておられます」


 小さい、と言っても、領地の財政を揺るがすには十分なのだろう。


「カジノの経営者は貴族?」


「いいえ。しかし侯爵家の親戚です」


 なるほど、面倒な繋がりだ。


「わかったわ。

 まずカジノの不正や脱税について調べて」


「すでに調べてあります」


「はい?」


 思わず聞き返すと、ヘルマンは淡々と続けた。


「摘発しようとしましたが、旦那様に揉み消されました」


 やっぱり。

 この家の問題は“無能”ではなく“害”だ。


「証拠の写しが欲しいのだけど」


「1日、待って頂けますか? 人が少ないので私が夜──」


「いいえ、それなら持って出ましょう。

 出かける準備をして」


 灰色の目が見開かれた。

 驚きと、どこか嬉しそうな色が混じる。


「っは、はい」


 彼は深く頭を下げ、すぐに動き出した。




 廊下に出ると、ちょうどカシアンと鉢合わせた。

 金髪を乱暴にかき上げ、昨夜の酒が残っているのか目が赤い。


「どこに行くつもりだ? 早速、浮気か?」


 はあ?

 脳が一瞬止まる。


「領地視察に行くだけですけど?」


「……視察? なんで、そんなことを」


「初めて来た土地なんだから、自分の目で見ないとわからないでしょう」


 カシアンは鼻を鳴らし、つまらなそうに視線を逸らした。


「……ふん。勝手にしろよ」


 言われなくてもする。

 何だ、こいつ?


 胸の奥に冷たいものが沈む。

 だが、隣に控えるヘルマンの落ち着いた気配が、それを静かに押し流してくれた。


 


 弁護士事務所は、白い石壁と高い天井が印象的だった。


 私は弁護士に今後の方針を相談し、その間に行政書士へ証拠と帳簿の写しを依頼する。


 ヘルマンが用意した裏帳簿は、見事なまでに真っ黒だった。



 午後には私兵と弁護士を連れて、例のカジノへ向かった。


 城下町の外れにあるその建物は、赤いランプが昼間でも目立つ、下品な装飾の木造2階建て。


 扉を開けると、薄暗い室内に酒と煙草の匂いが充満していた。


 司法取引は驚くほど、あっさり成立した。

 経営者は侯爵家の親戚らしいが、証拠を突きつけられれば抗えない。


 格安でカジノ施設を買い取った。

 支払いは私の持参金から。

 経営者は当然、私。


 ここでの収入を“貸付金”として領地に回せば、帳簿上は赤字でも破産はしない。


 むしろ、私の個人資産が領地の生命線になる。



 手続きや従業員の確認、今後の経営方針を話し合っているうちに、1日が終わった。


 私は手紙と証拠、登記簿と帳簿の写しをまとめ、実家のタウンハウスへ送る。

 揉み消し対策は万全だ。




 邸宅に戻り、玄関でヘルマンに告げた。


「そう言えば、昨夜ドアを開けようとする不審人物がいたの。

 私兵を、このまま護衛として連れて行くわ」


 ヘルマンの表情が、わずかに曇った。


「それは……旦那様では?」


「え? でも昨日、白い結婚にしましょうと言ったのよ」


「奥様が提案されただけで、旦那様は承諾してないのでしょう」


 ぞわり、と背筋が冷えた。


「キモいキモいキモい……きもい。無理無理無理無理!

 あんなのと体を重ねるなんて無理無理」


 思わず声が裏返る。

 ヘルマンは困ったように眉を寄せた。


「そうは言いましても、後継を作らねばなりません」


 それを言われると、貴族として否定はできない。

 うーん、どうしよう。


「……いや、本当に昨日来たのが夫とは限らないわ」


「いえ、旦那様です。

 邸宅内に住む男は、私と旦那様だけですから。

 私兵は兵舎です」


「……メイドかもよ?」


「現実逃避したいお気持ちは分かりますが、これは事実です。

 なぜなら、旦那様は『妻が家に来たら、娼館で金を払わなくて済む。

 その分の金をギャンブルにつぎ込める。ラッキー』と言ってましたから」


 キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい!


 頭の中が悲鳴でいっぱいになる。

 ヘルマンが静かに視線を落とした。


 ──この家の最大の問題は、やはり“夫”だ。




 気を取り直して自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、背後から甲高い声が飛んできた。


「ちょっと、マルセラさん!」


 振り返ると、姑が腕を組んで立っていた。

 濃い紫のドレスに宝石をじゃらつかせ、怒りで頬を赤くしている。


「昨晩は初夜をしなかったばかりか、今日はフラフラ出歩いたそうね。

 あなたには執務をして貰うために、結婚を申し込んだのよ?

 これじゃ詐欺じゃないの」


 ため息を飲み込む。

 詐欺と言いたいのは、こちらだ。


「領地を見ないと、経営できないでしょう。

 それに経営させるために嫁がせたなら、子供は別の方に生んで貰ってください。

 両方はタカりですよ」


「なんですって?! どちらも義務よ!」


 姑の顔が真っ赤になる。

 私は淡々と返した。


「義母様も、今まで義父様と一緒に執務してきたんですね?

 それが忙しくて、1人しか産めなかったんですか?」


 義母の口が開いたまま固まった。

 沈黙。

 彼女に経営の手腕はない。


 そこへ、どこからか現れたカシアンが割って入ってきた。

 怒りで顔を歪めている。


「おい! 黙って聞いていれば、母上に何てこと言うんだ?!

 この親不孝もの!」


「え、私の親はアルディナ領にいますが?」


「俺の母は、お前の義母だろう。

 そんなことも、わからないなんて頭悪すぎる」


 ……ああ、もう無理だ。


「では離婚しましょう。

 頭の悪い妻に、領地経営はできません」


「「えっ」」


 義母とカシアンの声が重なった。

 2人とも、まるで想定外の言葉を聞いたかのように固まる。


「だって旦那様は、義母様に無理やり結婚させられた被害者なんでしょう?

 私も被害者ですよ。

 前の婚約者が亡くなって、まだ時間は経ってないんです。

 本来なら喪服してなきゃいけないんです。

 王命だから仕方なく来たんです。

 お互い被害者なんだから、ここで別れましょう」


 義母の顔が引きつり、カシアンは口をぱくぱくさせている。


「で、できるわけないだろ。離婚なんて。

 そもそも妻側が何て言おうと、夫が離婚すると言わない限りできないんだぞ」


 何を言っているのか理解できない。


 恐らく“妻は夫の所有物”という古い風潮を、そのまま信じているのだろう。

 だが、そんな法律は存在しない。


「はあ、では今から1週間以内に離婚して、ご覧にいれましょう」


 廊下の空気が一瞬止まる。


「はあ? どうやって? 1週間じゃ裁判にもならないぞ」


 カシアンが嘲るように笑う。

 私は肩を竦めた。


「まあ、見ててください」


 その時、背後から落ち着いた声が響いた。


「お待ちください。

 でしたら先に、使用人へ紹介状を渡して解雇してください」


 ヘルマンが静かに進み出る。


「ああ、確かに」


 私が頷くと、カシアンが怒鳴った。


「なんだと?!

 お前は、離婚できると思ってるのか?」


 ヘルマンは淡々と告げた。


「思ってますよ。

 奥様は今日、カジノを買収したんですから」


 2人の顔から血の気が引いた。


「な……」

「え……?」


 義母の手が震え、カシアンは青ざめて壁に手をつく。


「俺の許可なく領地の金を動かすな!」


「領地の金は使っていません。奥様の持参金です」


「そんな……そんな額、持ってきてないでしょう?」


 義母が縋るように言う。

 私は静かに登記簿の写しを差し出した。


 義母の顔が、見る見るうちに引きつる。


「わ、悪かったわ。夫婦のことに口出して。

 これからは別邸で暮らすから、仲良くやりなさい。

 ──じゃ」


 逃げた。

 本当に逃げた。


「あ、母上! 逃げるなんて……」


 カシアンが情けない声を上げる。


「では使用人の解雇から始めますね」


「俺の許可なく勝手にするな!」


「では、あなたが紹介状を書いてください。それでは」


 踵を返すと、カシアンが慌てて叫んだ。


「は? どこ行くんだ?」


「どこって実家に帰りますよ」


「今から?!」


「ええ。善は急げで。

 では、さようなら」


 歩き出すと、背後から情けない声が追いすがる。


「……は? ちょ、ちょっと待てよ……!」


「何のために待つんですか?

 私の時間を無駄にするなら、その分の対価は貰いますよ」


「え、いやその……か、カジノクラブは、どうなるんだ?」


「どうって、私が経営者のままですが?」


「帰ったら経営できないだろう」


「実家から代理人を置きますので、問題ないです。

 要件は、それだけですか?」


 カシアンの顔が歪む。


「離婚したら傷物になるぞ」


「構いませんよ。

 働き口も個人資産もありますから。

 商会は結婚を機に売りましたが、買い戻せばいいので」


「王命で結婚したのに、こんなにすぐ離婚したら咎められるだろう」


 私は笑った。


「あなたが、どうなろうと知ったこっちゃないんですよ。

 昨日まで他人だったし、明日から他人になるんだから」


 カシアンは言葉を失った。

 理解が追いつかないのだろう。


 “妻は夫に尽くすもの”

 “夫婦は運命共同体”


 彼の、そんな古い価値観が、音を立てて崩れていく。


「くそっ、くそっ……!

 何が気に入らないんだ?

 部屋だって与えたし、メイドも付けたぞ」


 金髪をかき乱し、青い瞳を怒りで濁らせている。

 “与えた”という言い方が、すでに終わっている。


「それは当たり前ですよね。

 何にキレてるのか、わからないんですけど?」


 私が淡々と返すと、カシアンはさらに顔を歪めた。


「だ、だから、すぐ離婚したらマズいということだ」


「それは、あなたの事情であって、私の事情ではないって言ってるんですけど」


 ヘルマンが横から、静かに口を開いた。


「破滅したくないなら、素直に謝ればいいではないですか。

 それで許してもらえるかは、知りませんけど」


「夫の俺が妻に頭を下げろだと?

 そんなわけに行くか」


 ヘルマンと私は、同時に顔を見合わせた。

 “ああ、これはダメだ”という無言の確認。


「とりあえず。今夜はカジノに泊まりますから、言いたいことがあるなら明日、手紙にして届けてください」


 読むとは言っていないけどね。


 完全に“無能な部下への指示”だ。


「て、手紙……?」


「文章なら、あなたの言いたいことが整理されるでしょうし」


 カシアンの顔が真っ赤になった。


「は、ちょ、待て。外出禁止だ」


「は?」


「夫で当主の俺が『外に出るな』と言っているんだから、出るな。命令だ」


 命令、ね。

 この状況で、よく言える。


「ふうん? まあ、いいですよ」


「え、本当に? ──いや、これは当然のことだ。

 部屋で謹慎しろ」


「ちょっと何言ってるか、わからないですけど──今夜は、ここに泊まります」


「泊まる……」


 カシアンの口が開いたまま固まる。

 私はその横を通り過ぎ、自室へ向かった。


 ──この家の“当主”は、今日も自分が何を失ったのか理解していない。




 夜。ようやく眠りについた頃、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。


「困ります。奥様が起きてしまいます」


 私兵の低い声だ。


「どうして夫が、妻の部屋に入ってはいけないんだ」


 ……夫の声。

 やっぱり。


「かりそめの夫婦ではないですか」


「夫婦は夫婦だ。

 こっちから歩み寄ってやってるんだから、向こうは泣いて喜ぶはずだ」


 ……どんな思考回路?


「すいません。

 本当に何おっしゃってるか、わからないんで辞表、書きます」


 兵士の心が折れた音がした。


 ……もう寝よう。




 翌朝。部屋の前にカシアンが、何故か朝食を持って立っていた。

 金髪は寝癖で跳ね、青い瞳は妙に期待に満ちている。


「『昨日は言いすぎた』と思ってるだろう。

 頭は冷えたか?」


 無視して朝食を受け取り、口に運ぶ。

 パンは温かいのに、隣の空気は寒い。


「この部屋も、このパンも、俺のおかげだぞ。

 わかってるのか?」


 ……本当に、何を言っているのだろう。


「そちらが『どうしても』と言うから、嫁いであげたんですよ。

 分かってるんですか?」


 カシアンは大きくため息をついた。


「全く、お前は子供なんだな。

 俺がこうして折れてやってるのに、ちっともわかってないんだから」


 折れているのは、頭の方では?


「弁護士に離婚の相談をしておいたので、今日から手続きに入ります。

 2日間ですが、お世話になりました」


 淡々と告げると、カシアンの顔が一瞬で赤くなる。


「っ……外出禁止だと言ったろう。

 勝手は許さないぞ」


 ため息が出る。


「離婚したくないのですか?」


「だから、陛下に怒られるだろう」


 ……精神年齢いくつなんだろう。

 実年齢は、私より6歳上の25。


 怒られるから嫌。

 それが“離婚したくない理由”。


 私はフォークを置き、淡々と告げた。


「はあ。では外出禁止が解けるまで、バイトしてあげます。

 報酬付きで執務してあげます」


 向かいの椅子に座るカシアンが、眉をひそめる。


「なんで妻に報酬払うんだ?」


「やってあげる筋合い無いからです」


 当然のことを言ったつもりだったが、彼は理解できていないらしい。


「妻なんだから、俺を助けて当たり前だろう」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。


「でしたら、義母様にできる分だけやります。

 義母が1日に捌ける書類が20枚なら、私も20枚分働きます」


 カシアンの青い瞳が細められる。


「ふうん、ではやってみろ」


「いいですよ。では書類を持って、義母のところに行ってきます」


 立ち上がろうとすると、カシアンが慌てたように声を上げた。


「何だと? 出るのはダメだ。こちらに呼ぶ」


「そうですか」


 私は素直に座り直した。




 朝食後。

 部屋で領地の資料を読み込んでいると、廊下の向こうから甲高い声が響いてきた。


「なんで私が! なんで私が、こんなことを!!

 嫁の仕事を私が!? 聞いてないわよ!!」


 姑の絶叫は、近づいてきて──

 そして遠ざかっていく。


 お茶を淹れ、資料と帳簿を読みながら、 優雅に1日を過ごした。




 夕暮れが過ぎると、ノックの音がして扉が開いた。

 黒髪を束ねたヘルマンが、整った所作で一礼する。


「失礼します。

 先代夫人の“執務量”を、報告に参りました」


「どうぞ」


 差し出された書類を受け取る。

 ヘルマンの灰色の瞳は、いつも通り冷静だった。


「先代夫人が、本日処理された書類は……10枚です」


「ああ、やっぱり」


 予想通り。

 むしろ10枚も、やったことに驚く。




 翌朝、部屋で朝食を取っていると、カシアンがニヤニヤしながら入ってきた。

 金髪を揺らし、勝ち誇ったように顎を上げる。


「昨日、母上は10枚、政務処理したぞ。

 この土地について何も知らないお前が、どれだけできるか見物だ」


 私は黙って食事を終え、立ち上がった。




 カシアンの執務室。

 重厚な机の横に空いているデスクがあり、私はそこに腰を下ろした。


「書類を持ってきてください」


 ヘルマンが静かに書類を積む。


 そして──30分後。


「終わりました」


 机の上には、正確に処理された10枚の書類。


「は? 嘘だ。適当にやっただろう」


 カシアンが書類を引ったくり、乱暴にめくる。

 しかし──


「……問題が……ない……? なんで?」


 青い瞳が揺れた。


「婚姻の王命が下った時、可能な限りの資料を渡すよう王家に要求し、ここに来る間に読みました。

 それに一昨日と昨日で、過去20年分の帳簿を見ました」


 カシアンの顔が引きつる。


「……では残りの業務を」


「残り? 私は義母のできる分と言いましたよ」


「うるさい。出来るならやれ。命令だ」


 命令、ね。

 この男は本当に理解していない。


「怖くないのですか?」


「何が?」


「私なら、あなたが気付かないうちに、あなたを破滅させられますよ」


 カシアンの喉がひくりと動く。


「そのために外出禁止にしてる」


 ……本気で言っている。


 そこへ、ヘルマンが静かに口を開いた。


「奥様なら書類仕事だけで、そのように細工できると思いますよ。

 そもそも昨日、ご実家に現状をまとめた手紙を送られましたから、外出禁止なんて無意味ですよ。

 拘束するようなら、ご実家が王家へ通報するでしょう」


 カシアンの顔が青ざめ、頭を抱えた。


「……何が望みだ?」


「離婚」


「それ以外で」


「それ以外?」


 思い付かない。


 カシアンが絶句する。


 しばらく黙り込み、やがて観念したように肩を落とした。


「わかった。負けた」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に光が差した。

 ──やっと離婚できる。


 だが。


「仕事を1日5時間した後は、自由にしていい」


「はあ?」


 思わず素で声が出た。

 カシアンは真顔で続ける。


「そのままの意味だ」


 ……離婚の話ではなかった。

 “奴隷契約の改善案”を提示された気分だ。


「逆なら構いませんよ。

 私の領主代理権を、正式に認めてください。

 その代わり、あなたは働かなくていいです。自由にしていいです」


 皮肉ではなく本気だ。

 彼が働かない方が領地は安全。


「……乗っ取りはできないという契約書を作った上でだ」


「もちろん構いませんよ。

 なぜ裕福な男爵令嬢だった私が、貧しい子爵家を乗っ取りたいと思うのかわかりませんが、それで今後あなたの顔を見なくて済むならいいです」


 伯爵家以上ならまだしも、没落寸前の子爵家を“乗っ取る”理由など、どこにもない。


「弁護士を呼んで。書類をつくって貰って」


「はい。すぐに」


 ヘルマンが静かに一礼し、足早に去っていく。

 燕尾服の裾が美しく翻った。


「契約書の作成が終わるまで、部屋にいます」


 そう告げて踵を返すと、背後でカシアンが小さく息を呑んだ。


 何も言えないらしい。




 弁護士が差し出した契約書にサインを終えると、私はそれを高く掲げた。


「やったー♪

 これで旦那様の顔を見なくて済む!

 早速これ、公正証書にしておいて」


 弁護士は苦笑しつつ一礼した。


「はい。では私は、これで」


「ありがとう。

 さ、仕事をするので、出て行ってください」


 部屋から人が出ていく中、カシアンが残った。

 居心地悪そうに虚勢を張っている。


「俺が仕事を教えてやる。

 引き継ぎしないと、わからないだろう」


 その瞬間、ヘルマンが前に出た。

 黒髪を束ねた端正な横顔は、いつも通り冷静だ。


「私がいますので」


「なおさらだ。妻を男と2人にできるか」


 ……2人とも絶句した。


 私は完全に無視して、机に向かい仕事を始めた。





 それからの数日。


 カシアンは黙々と仕事をし、食事も一緒にとり、夜は寝室に来ようとしたが、それは私兵が阻止した。


 そして社交シーズンになり、王都へ向かうことになった。


 ……もしかして、私が実家に送った文章を気にしてるのかしら。


 そんな予感が胸をよぎる。




 舞踏会。

 煌びやかなシャンデリアの下、音楽が流れ、貴族たちが優雅に踊っている。


 その中で──


 カシアンは、今までが嘘のようにニコニコと愛想よく振る舞っていた。

 青い瞳を柔らかく細め、誰にでも丁寧に頭を下げる。


 別人のようだ。

 いや、別人であってほしい。


 玉座へ近づくと、主が穏やかな声で言った。


「領地経営が上向き、と報告を受けた。

 上手くやっているようだな」


 カシアンは深々と頭を下げ、完璧な笑みを浮かべた。


「はい。すべて妻のおかげです。

 彼女と結婚させてくださった陛下への、ご恩は忘れません」


 ……ドン引きした。


 普段の横柄さはどこへ行ったのか。

 王の前では“良い夫”を演じるらしい。




 舞踏会の間中、カシアンは異様なほど私に張り付いていた。

 ダンスを3回連続で踊り、他の紳士が申し込むと即座に断る。

 青い瞳は笑っているのに、腕の力だけが妙に強い。


「ダンスを断ったら、社交にならないではないですか」


 私が小声で言うと、カシアンは眉をひそめた。


「王都から遠い小さい領地を切り盛りするのに、なぜ社交が必要なんだ?」


 ……本気で言っている。


「最新の情報を仕入れたり、領地の特産品を輸出する時に、人脈は必要なのです」


「ダメといったらダメだ。全く」


 そう言うなり、突然私の腰を抱き上げた。


「ちょ、どこに行くのです?!」


「庭を散歩するんだ。

 夫婦なんだから、当たり前だろう」


 うん?  どういう基準?

 まあ、いいか。


 初夏の王宮の庭は、月光に照らされて花々が揺れていた。

 涼しい夜風が吹き抜け、香りが淡く漂う。


「まだ、たくさん花が咲いてるな」


 王宮の庭なんだから、当たり前でしょう。


「……そうですね」


「何の花が好きだ?」


「イズモコバイモです」


「なんだって?」


「イズモコバイモです」


 カシアンは一瞬固まり、無理に笑顔を作った。


「……そ、そうか。今のシーズンでは?」


「ホタルブクロです」


「なんだって?」


「ホタルブクロです」


「……そ、そうか。

 お前は本当に変わった女だな」


 何が変わっているのか、理解できない。


 だが、次の言葉で全てが、どうでもよくなった。


「いい。俺は、お前みたいな可愛くない女を受け入れてやる寛容な夫だ」


「……」


 月明かりの下で、私は本気で帰りたくなった。


「そうか、感動して言葉も出ないか。

 明日から、デートに連れて行ってやるからな。

 期待して待ってろ」


 ……期待する要素が1つもない。





 翌日。実家のタウンハウスの部屋で支度をしていると、扉がノックされ、カシアンが現れた。

 手には──バラの花束。


「どうしたのですか?」


 問いかけると、彼は得意げに胸を張った。


「お前の言ってた"何だか芋"と"何だか袋"は売ってなかった。

 バラで十分だろう」


 イズモコバイモとホタルブクロのことね。

 そのバラ、うちの庭から取ったんじゃない?

 まあ、いいか……。


「はあ……ありがとうございます」


「うむ。行くぞ」


 当然のようにエスコートされ、外へ連れ出された。




 劇場の灯りが落ち、悲劇のクライマックスで観客が息を呑む中──


 隣でカシアンが、おいおい泣いていた。


「何で、お前は平気なんだ?」


「何故って言われても……お芝居なので」


 カシアンは涙を拭いながら、信じられないものを見るように私を睨む。


「ああ、本当に血も涙もない冷たい女だ。この冷血漢め」


 ……冷血漢?


「……それでしたら、離婚──」


「あーあーあーあー!」


 私の言葉をかき消すように、彼は耳を塞いで叫んだ。


「何ですか、うるさい」


「レストラン予約してある。行くぞ」


 泣き止んだ瞬間に、これである。

 感情の振れ幅が激しすぎて、ついていけない。


 ──この“デート”、あと何回続くのだろう。




 レストラン。

 王都でも“普通席”と呼ばれる、貴族が気軽に利用する店。


 白いテーブルクロスに銀のカトラリー、落ち着いた照明。

 料理は丁寧で、味も悪くない。


 だが──


「いいか。ここは『そこそこ安くて雰囲気があって、貴族が入っても恥ずかしくない店』を、俺がヘルマンに調べさせたんだぞ」


 カシアンは、ドヤ顔で胸を張った。


 思わず口が動いた。


「旦那様は、素人童貞ですか?」


「ブフォッ! しょ、食事中に、なんてこと……」


 彼はワインを吹きかけそうになり、慌てて口元を拭う。


「すみません。

 前から、ずっと思ってたので思わず口から出てしまいました」


「ずっと思ってたんだな?」


「ずっと思ってました」


「そうか……」


 結局、彼はその質問に答えなかった。

 多分、答えられなかったのだろう。




 食後、宝石店へ向かう。


「いいか? 安いのにしろよ。安いのだぞ?

 家には金がないんだからな。分かってるな?」


「そこまでして買って貰わなくてもいいんですけど……」


「うるさい、バカ。俺に恥をかかせるな。

 これ見ろ。石が小さい。これなら買えそうだ。

 よし、これを買おう」


 カシアンが指差したのは、目を凝らさないと見えないほど小さいルビー。


 ちなみに互いの髪と瞳は赤くない。


 ……なぜルビー?


 そして──


「似合ってるぞ。よかったな。

 ふんふんふん♪」


 ふんふんふん♪ って何……?


 購入後に着けて貰ったので、鏡を見る。

 ……小さすぎて見えない。


 ネックレスの存在感はゼロ。

 だが、カシアンは鼻歌まじりにご機嫌だ。


 ──この男の“良い夫アピール”は、いつも斜め上を行く。




 帰りの馬車の中。

 ランプが揺れる車内で、カシアンは満足げにこちらを見ていた。


「今日は楽しかったか?」


 最初の印象が“普通”だったら嫌なデートだっただろう。

 でも──最初の印象が悪すぎたせいで、普通のことをされるだけで“すごい”と思えてしまう。

 ある種の奇跡。


「そうですね。悪くはなかったです」


「ん、あ……そうか。

 では、明日もデートに行くぞ。

 しっかり寝ておくように」


「わかりました」


 ──こうして、奇妙な“普通の夫婦ごっこ”は続いた。






 結婚から3年が経った。


 記念日の夕食。

 白いクロスの上に並ぶ料理、揺れる蝋燭の灯り。

 カシアンは満面の笑みで言った。


「遅かったではないか。

 君のために用意させたのに。

 結婚記念日だ」


「ええ、そのことで大事な話が」


「ああ、わかってるわかってる。

 子供が欲しいのだろう。

 今夜、君の部屋に行く。心配するな」


 ……心配しかしない。


「そうではありません。

 この家は持ち直しましたし、人材も育成しました。

 赤字も黒字になりました」


「だから子供が欲しいのだろう」


 話が通じない。

 3年間、ずっとそうだった。


「違います。離婚すると言いたいのです」


 カシアンの手からカラトリーが落ちた。

 金属音が、静かな食堂に鋭く響く。


「な、な、何故だ?

 俺はこの3年、完璧な夫だった。

 ギャンブルも控え、君との時間を大事にし、君の好きな花を庭に植えた。

 何が不服なんだ?

 俺以上の夫なんかいないぞ」


 私は静かに息を整え、真正面から言った。


「あなたなりに努力したのは認めますが、スタートが悪すぎて好きになれません」


 カシアンの眉が跳ね上がる。


「政略結婚に好きも嫌いもあるか。

 離婚なんて絶対認めない」


「3年もボランティアしてきてあげたのに、まだタカるんですか」


「こっちだって3年も、初夜を我慢してやってきたんだぞ」


「その分、娼館には行ってたじゃないですか」


 カシアンの顔が一瞬で青ざめた。


「っ、な、何で、それを?!」


「帳簿についてるし、香水の匂いプンプンして、分からないはずがないじゃないですか」


 慌てて自分の袖を嗅ぐカシアン。


 いや、今嗅いでも分からないでしょう。


「違う。あーえーえー……あれは、学習に行ってたんだ。

 君を抱く時に、痛くないように勉強しに行ってたんだ。それだけだ」


 ……言い訳の方向性が斜め上すぎる。


「捨てないでくれ。頼むから。

 ──この通りだ」


 カシアンは椅子から、ずり落ちそうな勢いで頭を下げる。


「あなた、謝ったんですか?」


「何を?」


 私は深くため息をついた。


「結婚した日に私を『60点』と言ったことから、今までのこと全部。

 それとも私に“あなたの知的レベルは20点”だと言い返してほしいですか」


 カシアンの顔が引きつる。


「……はあ、わかった。俺が悪かった。すまなかった」


「悪いと思ってるなら、離婚届にサインして」


「謝ってるだろう!」


 声が裏返る。


「今すぐは出しません。

 今すぐは出さないけど、1回でも暴言吐いたらすぐに出します。

 その代わり、今までのことは許してあげる」


 カシアンは一瞬黙り──そして、信じられない言葉を口にした。


「書いたら初夜していいか?」


「っ、そ……マイナスが0になるだけで、まだプラスじゃないのよ?」


「政略結婚なんだから、それで十分じゃないか」


 ……この男は本当に、何も分かっていない。


「サインするのね?」


「初夜していいなら、する」


 私は頭を抱えて、呼吸を整えた。


「……わかったわ」


 その瞬間、カシアンの顔がぱっと明るくなる。


「え、本当に? おい! 早く離婚届、持ってこい!」


 ──離婚届を“初夜の交渉材料”に使う夫。

 この国の歴史に残る愚行である。





 薄いカーテン越しに朝日が差し込み、静かな寝室にカシアンの寝ぼけた声が響いた。


「むにゃむにゃ? ん? どこだ、ここ?」


 金髪がぐしゃぐしゃで、目は半分閉じている。

 完全に二日酔いの顔だ。


「あなたが、はしゃいで飲みすぎたんですよ」


 私が淡々と告げると、カシアンは自分の裸を見下ろし、ぎょっとした。


「え? 裸なのに初夜してないのか?」


「しましたよ。

 ほら、シーツに血がついてるでしょ」


 私は指先でシーツの端を示した。


「え、全然覚えてないから、もう1回」


「ふざけないでよ。体が痛いのよ」


「あー、そっか。それなら仕方ない。わかった」


 カシアンは素直に頷きベッドから降りると突然、私を抱き上げた。


「え、裸でどこ行く気?」


「風呂場で体を綺麗にしてやるよ」


 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。


 本当は──

 カシアンに純潔を捧げるのが嫌で、酔い潰して“初夜をしたように偽装した”。

 実際は、彼とは何もしていない。


 彼は何も知らず、優しくしようとしている。

 その優しさが、逆に胸を締めつけた。




 ──それ以降、カシアンは私から片時も離れなくなった。


「どこに行くんだ?」


「美容室ですよ」


「俺も行く」


「女性向けの美容院ですよ」


「終わるまで待ってる」


 ……いや、仕事しろよ。





 別の日。


「どこに行くんだ?」


「領地視察ですよ」


「……」


 いや、今こそついてこいよ。お前の仕事だろう。


 買い物にもついてくる。

 散歩にもついてくる。

 しかし──

 自分の本来の仕事である領地視察には沈黙。


 完全に“ついてくる基準”がズレている。




 視察に向かう馬車の中。

 揺れる車輪の音の中で、ヘルマンが静かに尋ねた。


「大丈夫ですか?」


「夫のこと? 犬だと思えば可愛いわ。人間だと思うから腹が立つのよ」


 ヘルマンは一瞬だけ目を瞬かせ、そして小さく笑った。


「そうですね。犬なら……ただ“バカだな”って思うだけですね」


「そうそう」


 2人の声は穏やかで、どこか達観していた。


 ──夫は犬。

 そう思えば、腹も立たない。


 ただ、犬にしては手がかかる。

 というだけの話だった。




 帰宅すると、いつもなら玄関で飛びついてくるカシアンの姿がない。

 屋敷の空気が、妙に静かだった。


「賭博場ですね」


 ヘルマンが呆れて言う。


「そうよね。他に友達いないもの」


「ギャンブルが友達ですか」


「そうよ。彼の唯一のね」


 2人の会話は静かで、しかし容赦がない。



 しばらくして、玄関の扉が勢いよく開いた。


「ふんふんふん♪

 ほら見ろ。今日はついてたからプレゼントだ」


 カシアンが鼻歌まじりに戻ってきた。

 手には、小さな──本当に小さな──ダイヤモンドの指輪。


「……ありがとうございます」


 受け取るとカシアンは、ますます得意げになる。


「そうか。嬉しくて言葉にならないからだな。

 俺みたいないい夫、他にいないだろう。感謝しろよ。

 ふんふんふん♪」


 ふんふんふん♪ って何?


 横でヘルマンが小声で呟いた。


「……奥様のお陰で生活できてるのに……」


 マルセラは肩をすくめ、静かに言った。


「躾るのが大変な犬を、飼ってしまったのよ。

 むしろ放逐は、領民が可哀想だもの。仕方ないわ……」


 執事は一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。


「奥様が、そう仰るなら……」


 その声音には、犬として飼う方がまだ安全という、深い理解が滲んでいた。





 いつしか戦争が始まり、屋敷に赤紙が届いた。


 カシアンは真っ青になり、私の足にしがみついて泣き出した。


「行きたくないよぉおおおお……!」


 居間の床にへばりつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

 28歳の成人男性とは思えない。


 そこへ姑が口を挟んだ。


「マルセラさんの方が息子より強いんだから、マルセラさんが戦地に行けばいいのに」


「義母様、殺しますよ?」


 義母は悲鳴を上げて逃げていった。

 ……いつも逃げ足だけは速い。


 私はしゃがみ込み、泣きつくカシアンの頭に手を置いた。


「旦那様なら生きて帰れますよ。

 むしろ、英雄になって帰ってきてください」


「英雄?」


「そうです」


 カシアンの涙がぴたりと止まった。


「英雄になったら、今までよりもっと俺を好きになるか?」


 今の“好き”は100点中2点だから……多分、何してもあまり変わらないけど。


 ここは一応、肯定しておこう。


「そうですね。好きになりますね」


「そうか! じゃあ行ってくる。

 後のことは頼んだぞ」


 さっきまで泣いていたのに、急に胸を張る。

 単純なのか、強いのか、弱いのか……判断に困る。


「分かりました。お気をつけて」


 こうしてカシアンは戦場に向かった。


 ──犬のように懐いてきた夫が、初めて“私の手の届かない場所”へ行く。


 その背中を見送りながら、

 胸の奥に、説明のつかないざわめきが生まれた。




 出兵から、最初の数週間は毎日のように手紙が届いた。

 だが──内容は全部、愚痴。


『朝6時に起こされるんだぞ。ひどいだろ』

『飯がまずい。家の方がいい』

『上官が怖い。なんで怒るんだ』

『歩く距離が長い。疲れた』

『俺は戦いに向いてない。帰りたい。マルセラ、代わりに戦ってくれ』


 そして、愚痴は次第に“依存”へと変わっていった。


『最近、返事が遅い。誰かと会ってるのか』

『俺がいない間に他の男が寄ってきてないか』

『ヘルマンと仲良すぎないか』

『俺がいないと寂しいって言えよ』

『浮気したら許さないからな』


 ……戦場で何してるの?


 私は返事を書いた。


「旦那様が私に100の愛の言葉をくだされば1回、返します」


 たった一行。

 でも、効果は絶大だった。


 ──それ以来、依存の手紙はぴたりと来なくなった。




 ヘルマンが、書類を抱えて部屋に入ってくる。


「旦那様からの手紙が、なくなりましたね 。

 どうしたんでしょう?」


「たぶん語彙力ないから、100も愛の言葉を紡げないのよ」


 ヘルマンは珍しく口元を緩めた。


「平和になりましたね。さすが奥様です」


 私は紅茶を一口飲み、静かに頷いた。




 それから3ヶ月は依存の手紙が止まり、平和な日々が続いていた。


 ──その平和は、突然終わった。


 ある日、机に置かれた手紙を開いた瞬間。


「ひっ」


 思わず手紙を放り投げた。


「どうしました?」


 ヘルマンがすぐに拾い上げ、中身を確認する。


 そして、眉をひそめた。


「……これ、呪いの手紙でしょうか」


 紙いっぱいに、びっしりと──


 『愛してる』が100回。


「多分、夫からのラブレターだと思うの」


「呪いの手紙にしか見えないですけどね。

 悩んだ結果が、これですか」


 私は落ちた手紙を拾い、しばらく見つめた。


「なんて返事すれば、向こうは満足するかしら?」


「うーん……お祓いしてから牧師様に相談してみますか」


「そ、そうね」



 結局、私は一言だけ返した。


『私も愛しています』


 それだけ。





 1週間後、また手紙が届いた。


『友人に相談したら、俺が"100回も愛してると書いてるのに一言しか書いてこないというのは、愛してない証拠だ"と言われた。

 浮気してるんじゃないのか』


 私は静かに返事を書いた。


『では200回書いてくだされば、私も2回同じことを書いて返します』


 すると、すぐに返事が来た。


『だから、それが不公平だと言ってる。

 俺が100書いたら、君も100返してくるべきだ。

 それが、夫婦だろう』


 書類の山を前に、私は深いため息をついた。


「もうウザイ。どうしよう?」


 ヘルマンは冷静に答える。


「しばらく返事しなくていいと思います」


 その助言に従い1ヶ月ほど返事を控え、ようやく当たり障りのない手紙を送った。


 しかし──返事は来なかった。


 代わりに届いたのは、彼の上官からの手紙。


『カシアンくんが"愛されてない"と泣き叫び、備品を壊し、兵士を殴り、暴れて酷かったため懲罰室に入れました。

 このまま使い物にならないようなら、引き取りに来てください』


 私は手紙を読み、静かに呟いた。


「……狂犬病だったのかしら」


「困りましたね」


 ヘルマンの声は、いつも通り落ち着いている。


「姑に“愛してる”って書かせて送りましょう」



 困惑する姑を呼び出し、事情を説明する前に紙とペンを渡す。


「えっ? えっ? 100回? “愛してる”を?

 なんで私が……?」


「息子のためです。

 “母の愛”を届けてあげてください」


「……そ、そういうことなら……」


 姑は震える手で、

 “愛してる”を100回書かされた。


 そして──

 そのまま戦地へ送られた。


 もちろん、上官への丁寧な謝罪文も一緒に。




 その後、戦場から1通の手紙が届いた。

 封を切ると、上官の端正な筆跡が並んでいる。


『カシアンくんの病気は治まりました』



 さらに数日後──

 今度は本人から、まるで何事もなかったかのような手紙が届いた。


 天気の話。

 飯がどうとか。

 帰ったら散歩しようとか。


 暴れて懲罰室に入れられていた男の文面とは、思えない。


 私は手紙を読み終えると、静かにため息をついた。


「……どうしましょう、ヘルマン」


「奥様、もう“あの方法”しかありませんね」


「ええ……義母様を呼んでくるわ」


 姑は呼び出されるなり、紙とペンを渡されて固まった。


「えっ? えっ? また100回? “愛してる”を?

 また……?」


「お願いします」


「……仕方ないわね……」


 姑は震える手で“愛してる”を100回書かされた。

 その文字列は、もはや呪術の陣のようだった。


 そして──

 そのまま戦地へ送られた。


 もちろん、上官への丁寧な謝罪文も添えて。




 こうしてカシアンは、母の“愛してる”で精神が安定する28歳の男。

 という、前代未聞の状態に突入した。


 私は紅茶を一口飲み、目を閉じた。




 そんな日々が続き、出兵から1年が経った頃。

 私は執務室で書類に目を通しながら、ふと気づいた。


 ──夫からの手紙が、ぴたりと来なくなった。


「死んだか愛人だと思うんだけど?」


 ヘルマンは静かに首を傾げた。


「あの旦那様が女性にモテますかね……」


「容姿は悪くないし、おじさんって程の年齢でもないし。

 平民なら貴族の愛人になりたいんじゃない?

 むしろ、あの人ほど扱いやすい人いないわよ」


 ヘルマンは眼鏡の位置を直し、真剣な声で言った。


「わかりました。諜報を放ちます」


「お願い」


 私は羽ペンを置き、窓の外の空を見上げた。

 青空の下、王都の街並みが静かに広がっている。


 ──夫が死んだのか、愛人に拾われたのか。

 どちらでも、領地経営は滞りなく進む。


 ただ、胸の奥に小さなざわめきが残った。





 執務室の窓から差し込む光が、磨かれた床に淡く反射していた。


 私は書類に目を通しながら、ヘルマンの報告を待つ。

 彼は黒髪を後ろで束ね、端正な横顔を崩さずに扉を閉めた。


「結果が出ました」


 私は羽ペンを置き、彼を見上げた。


「どうだった?」


「戦場娼婦に入れ込んでいるそうです。

 相手は平民のシングルマザーで、容姿は特別優れていませんが、やたらと褒めるそうです」


 私は肩をすくめた。


「……まあ、そうよね。

 褒めてくれるなら誰でもいいのよ、あの人」


「旦那様は“褒めてくれる人”に弱いですからね」


「愛人にとっては便利でしょうね」


 ヘルマンは静かに問いかける。


「……どうします?」


「どうって言っても……意味のわからない手紙を送ってきて暴れられるより、愛人が精神安定剤になってる方がマシじゃない」


「よろしいのですか?」


「好きで結婚してるわけじゃないから、別に。

 領民に迷惑がかからないなら、いいわよ」


 そこで話は終わった──はずだった。


 しかし、それからというもの、ことあるごとに金の催促が来るようになった。


 戦場から届く手紙は、どれもこれも金の話ばかり。


『部下の士気を上げるのに、今の小遣いじゃ足りない』


 私は淡々と返した。


「あなたの個人資産から送りますって……貯金0でしたね。御愁傷様」


 すぐに返事が来る。


『こっちは命懸けで戦ってるんだ。

 なぜ敬わないんだ? 金ぐらい寄越せ』


 私は羽ペンを走らせた。


「では離婚届を出します」


 返事は慌てた筆跡だった。


『悪かった。やめてくれ。

 それだけは嫌だ。

 小遣い10%アップで我慢する』


 私は最後の一撃を送った。


「そもそも従軍の給与が、こちらに1銅貨も来てませんが?」


 ──その日を境に、手紙は完全に途絶えた。


 執務室で書類を整理していたヘルマンが、おもむろに口を開く。


「……旦那様、ついに詰みましたね」


「ええ。手紙が来ないなら静かでいいわ」


 ヘルマンは、わずかに微笑んだ。


「奥様の返事は、いつも最適解です」






 終戦の報せが届いて数日。

 ドレイモンド子爵邸の玄関は、久しく人の出入りがなかったせいか冷え切っていた。


 扉が開くと同時に冷たい風が吹き込み、私の頬を撫でた。


「マルセラ、帰ったぞ」


 低く響く声。

 金髪を無造作にかき上げた夫が、勝手に誇らしげな顔で立っていた。

 整った顔立ちだけは、昔から変わらない。


「お帰りなさい」


 形式だけの言葉を返すと、夫は満足げに顎を上げた。

 その後ろに、見知らぬ女が立っている。


「こちらはターニャ。

 今日から、ここで一緒に暮らす」


 女は濃い栗色の髪を派手に巻き、赤い口紅を塗っていた。

 年齢相応の皺を隠すように厚化粧だが、妙な自信に満ちた笑みを浮かべている。

 腰のくびれを強調する深い緑のドレスが、庶民上がりの成金趣味を物語っていた。


「こんにちわー」


 軽い声。礼儀も格式もない。


「それは愛人ということですか」


 私が問うと、夫は鼻で笑った。


「愛人だって? 彼女は入籍してないだけで妻だ。第2夫人だ」


「この国は一夫多妻じゃありませんけど、呆けましたか?」


 夫の眉が跳ね上がる。


「ああ、うるさい! 領主で当主の俺が決めたんだ。受け入れろ」


「なるほど。

 では衛兵、引っ捕らえなさい」


「はっ!」


 甲冑の音が響き、衛兵たちが一斉に動いた。


「なっ……!? おい、何を──!」


 夫は目を剥き暴れるが、戦場帰りとは思えないほど簡単に押さえ込まれた。


「ちょ、ちょっと待って! 何で──!」


 ターニャという女も悲鳴を上げるが、こちらもあっさり拘束される。

 濃い栗色の巻き髪が乱れ、赤い口紅がひび割れた。




 地下牢屋。

 湿った石壁と鉄格子の匂いが鼻を刺す。


 私は衛兵に案内され、牢の前に立った。


「どういうことだ?!

 俺に、こんなことしてタダで済むと思うのか?」


 夫は鉄格子にしがみつき、怒鳴り散らしている。

 金髪は乱れ、戦場で焼けた肌が赤くなっていた。


「思ってるから、やってるんでしょう。

 ──はい」


 私は、新しい法律書を差し出した。

 夫は奪い取るようにしてページをめくり、次の瞬間、顔色を変えた。


「ドレイモンド子爵領地法1024条……妻は、いつでも夫と離婚できる……?

 1025条……離婚理由が夫の不倫だった場合、夫と不倫相手は斬首っ?!

 爵位を含む資産は、慰謝料として没収?!

 なんだ、こりゃあ?! こんな横暴まかり通ってたまるか!」


 私は淡々と答えた。


「通るのでしょうね。ここは子爵領ですから」


 夫は理解していない。


 伯爵以上の大領地なら議員がいて、法改正には会議が必要だ。

 だが、子爵以下の小領地は貴族が少なく、領主が独断で決められる。


 もちろん、税率を変えるなど領民に不利益が出れば王宮から注意が入る。

 しかし──


 夫の不倫を罰する法律は、領民に一切の不利益を与えない。


 だから、私は戦時中に正式な領主代理権を使って法を改正した。


 夫は鉄格子を握りしめ、震える声で叫んだ。


「ま、待て……本気で言ってるのか……?」


 私は微笑んだ。


「本気に決まっているでしょう。

 あなたが“第2夫人”など連れてきた瞬間から、こうなる未来しかなかったのよ」


 牢屋の冷たい空気が、夫の絶望をより鮮明にした。


 戦地でイチャついてるだけなら良かったけど、私の守った領地に寄生するのは許さない。





 投獄1日目。

 2人はただ膝を抱え、互いに背を向けて沈黙していた。


 3日目には、狭い牢の中で罵り合いが始まる。

 5日目には、夫が愛人を殺害。

 その肉を貪った。


 ──と、衛兵から報告があった。


 10日目には、夫は言葉を失う。

 12日目には、衰弱が進み、まともに立つこともできなくなった。


 14日目、湿った空気が肌にまとわりつく。


 私は鉄格子の前に立ち、うずくまる夫を見下ろした。


「お加減は、如何かしら?」


「あーうーあーあー……」


 言葉にならない声。

 焦点の合わない目。


「もう良くならないのかしらね」


「うー……あー……」


 私は衛兵に向き直った。


「では、逃げられないようアキレス腱を切って、使用人部屋に入れて生かして頂戴。

 暴れたら縛っていいわ。

 ついでにアソコも切り落としておいて」


 衛兵たちは、義憤を持って頷いた。






 半年後。

 使用人部屋に向かう廊下を歩いていると、床を這う影が視界に入った。


「あら?」


 見ると痩せ細ったカシアンが、こちらを見上げていた。

 金髪はぼさぼさで、かつての威厳は欠片もない。


「お、お前……! お前ぇ……!」


「正気に戻ったの?

 喋れるようになったのね」


「お前のせいで! 俺は……俺は……」


 そこへ、ヘルマンが歩いてきた。

 黒髪を整え、落ち着いた気品を纏った姿は、カシアンとは対照的だった。


「どうした?」


 カシアンは2人の距離を見て、目を剥いた。


「な、なんだ、その距離は?!」


「彼は内縁の夫だけど」


「はっ、不倫じゃないか!

 お前も死刑だ、ざまぁ見ろ!」


 カシアンは狂ったように笑った。


 私はため息をつき、法律書を開いた。


「前にも見せてあげたでしょう?」


「え?」


「『夫の不貞は』と書いてあるだけで、妻に関しては何も書いてないのよ」


 夫の笑い声が止まった。


 その顔に浮かんだのは、理解と絶望が混ざった表情だった。


 すると今度はシャツを握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。


「そんな馬鹿な! そんな理不尽なことあるか?!」


 私は首を、こてんと傾けた。


「そうかしら」


 この国では、男尊女卑が“常識”として扱われている。


 夫が離縁を望めば妻は従い、妻から離婚を言い出すことは許されない──

 そんな“風潮”がある。


 だが、それはあくまで風潮であって国法ではない。


 だからこそ、私は領法を改正した。

 法は概念を上回る。


「そもそも、あなたみたいに無能で屑なのに、男というだけで偉いなんて可笑しいじゃない?」


「何でだ?!

 俺達が戦争で命をかけて戦ったお陰で、女達は生きてられるんだろう!

 感謝しろ!」


「男が勝手に戦を起こして迷惑かけてくる癖に、何で偉そうなの?

 ヒーイズル国には昔、卑弥呼という女王がいた。

 それまでの男王達は戦を繰り返してばかりいたけど、彼女がトップに立ってからは平和になった。

 この世に男がいなければ、戦争も起きないのよ。

 生意気、言うのやめなさい」


 夫は口を開いたまま固まった。


「っ! ……それは……」


「わかったら、さっさと書類を捌くことね。

 何のために生かしたと思ってるの? 働きなさい」


 補佐官が領地経営の書類を山のように運んでくる。


 夫は歯ぎしりしながら、それを受け取った。


「っくそ!」


 そのとき、小さな足音が響いた。


「ママー! この人、どうしたの?」


 カシアンとそっくりの顔立ちをした幼子が、私のスカートをつまんで見上げてくる。

 金髪に赤みが差し、瞳は青色。


 夫よりずっと素直で、ずっと可愛い。


 カシアンは息を呑んだ。


「──っ!」


「この人は悪いことしたせいで呪いを受けて、歩けなくなったの」


 私が床を指差すと、息子が頷いた。


「ふうん、悪い人なんだね」


「そうよ。近寄っちゃダメ」


「うん」


 我が子は、素直に頷いた。


「……俺は父親だ、お前の!」


 夫が叫ぶと、子供はきょとんとした顔で言った。


「僕のパパは、この人だよ」


 そう言って、ヘルマンに抱きついた。

 ヘルマンは優しく、子供の頭を撫でる。


 夫は、喉の奥で短く息を呑んだ。


「っ……」


 私は軽く微笑み、スカートの裾を払って立ち上がる。


「さあ、用が済んだなら行きましょう」


 家族を促す。


 それから彼を振り返って告げた。


「あ、そうそう。

 あなたも愛人をつくっていいわよ。

 ──じゃあね」


 夫は、ただ呆然と私を見上げるだけだった。


 彼に財産はない。

 使用人は最低限の世話しかしないので、外出もできない。

 ──そして、去勢済み。


 その状態で「愛人をつくっていい」と言われるのだから、もはや“侮蔑”でしかない。



 私は2人と手を繋いで、廊下を歩き出す。


 ──ヘルマンと再婚すれば平民になってしまう。


 だから私は選んだ。


 子爵夫人として領地を守る道を。


 彼は私の決断を尊重し、寄り添ってくれる。


 カシアンとの子供は、いつか領主になるだろう。



 窓の外では、春の風が庭の花々を揺らしていた。

 その光景を眺めながら、私は小さく呟く。


「……これでいいのよ」


 夫は自らの愚かさで破滅し、私は私の人生を取り戻した。


 そして領地は、今日も平和だった。





□完結□






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― 新着の感想 ―
こんな王命を出す王家がただひたすらに無能。それとも潰して領地没収が目的?臣下も民草も惨めに死ねと?国王は愉快犯?そんな物語でしたねー。
夫も義母もろくでもない!からの力業の逆転、見事です。 夫は去勢。義母は可愛い息子があんな姿な上、多分孫からは祖母と思われてない。 ママや妻にあんよを支えられないとタッチも出来ないベイビーちゃん(中…
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