夫が戦地から愛人を連れ帰りました
終戦の報せが届いて数日。
ドレイモンド子爵邸の玄関は、久しく人の出入りがなかったせいか冷え切っていた。
扉が開くと同時に冷たい風が吹き込み、私の頬を撫でた。
「マルセラ、帰ったぞ」
低く響く声。
金髪を無造作にかき上げた夫が、勝手に誇らしげな顔で立っていた。
整った顔立ちだけは、変わらない。
「お帰りなさい」
形式だけの言葉を返すと、夫は満足げに顎を上げた。
その後ろに、見知らぬ女が立っている。
「こちらはターニャ。
今日から、ここで一緒に暮らす」
女は濃い栗色の髪を派手に巻き、赤い口紅を塗っていた。
年齢相応の皺を隠すように厚化粧だが、妙な自信に満ちた笑みを浮かべている。
腰のくびれを強調する深い緑のドレスが、庶民上がりの成金趣味を物語っていた。
「こんにちわー」
軽い声。礼儀も格式もない。
「それは愛人ということですか」
私が問うと、夫は鼻で笑った。
「愛人だって? 彼女は入籍してないだけで妻だ。第2夫人だ」
「この国は一夫多妻じゃありませんけど、呆けましたか?」
夫の眉が跳ね上がる。
「ああ、うるさい! 領主で当主の俺が決めたんだ。受け入れろ」
「なるほど」
玄関の冷気よりも、胸の奥の温度の方が低かった。
──8年前。
私とカシアン・ドレイモンド子爵が初めて顔を合わせたのは、よりによって結婚式の当日だった。
扉の向こうから現れたカシアンは、金髪を丁寧に撫でつけ、青い瞳だけは妙に自信に満ちていた。
整った顔立ちをしているのに、どこか空虚な印象がある。
礼服は上質だが、着慣れていないのか肩が浮いていた。
この男と私は今日、初めて言葉を交わす。
彼はあまり仕事ができないらしく、前当主を亡くして爵位を継いだものの領地経営が傾いてしまい、私に婚約を打診してきた。
私は父の仕事を手伝いながら、自分も商会を経営していることで有名だった。
私は最初、縁談を断った。
1つは、ドレイモンド領が実家から遠すぎること。
もう1つは、婚約者を亡くしたばかりで、心の整理がついていなかったこと。
我が家は男爵家。
高位貴族からの打診なら断れなかったが、子爵家なら階級差がさほどない。
だから私は丁寧に辞退した。
──それで終わるはずだった。
ところが、王家からの圧力がかかった。
結果──この結婚式だ。
祭壇の前で並んだカシアンは、私を一瞥しただけで、興味の欠片もない表情をしていた。
教会を出て披露宴会場へ向かう馬車は、白いレースのカーテンが揺れ、窓から差し込む陽光が淡く車内を照らしていた。
革張りの座席は新しく、香水の匂いが微かに残っている。
向かいに座る新郎は脚を組み、鏡でも見るように私を眺めていた。
「ふうん。顔と体は60点」
「は?」
思わず声が漏れた。
彼は青い瞳を細め、得意げに肩をすくめる。
「まあまあって意味だ。
50点以上にしてやったんだ。
ありがたく思え」
何を言っているのか、理解するのに数秒かかった。
「私は『嫁にきて欲しい』と頼まれて来たんですけど。
それは、わかってます?」
カシアンは鼻で笑った。
礼服の襟を指で整えながら、つまらなそうに言う。
「頼んだのは俺じゃない。
母が勝手に釣書を送ったんだ。
俺は被害者だ」
「被害者って……当主なのだから、止めれば済んだのでは?」
「送ってから事後報告されたんだ。
『やはり無かったことに』とは言えないだろう」
言い訳ばかり。
責任を負う気がまるでない。
「なるほど。
では白い結婚として3年後、子供ができないという理由で離婚しましょう」
「えっ」
間抜けな声が返ってきた。
「『子供ができない』という理由で離婚して『傷物石女』と罵られるのは私であって、そちらにデメリットは無いでしょう。
良かったですね、被害者さん」
カシアンの表情が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに金の眉をひそめて問い返す。
「……それで、お前はその後どうやって暮らすんだ?」
「実家に戻るだけですが」
「実家が受け入れなかったら、どうする?
再婚もできないぞ」
「うちの実家が受け入れ拒否することはないですが、もしそうなったら王宮で侍女をします」
「そんなの受かるか、わからないだろう」
「いえ、採用試験には受かったのです。
でも前の婚約者に反対されました。
『外で働くと家庭のことが疎かになるから』と」
「当然じゃないか。
金に困ってるわけでもないのに、妻を働きに出せば虐待だと思われかねないだろう」
内心ため息をつきたいのを、グッとこらえる。
外で働くと家庭が疎かになる──そんな建前だ。
自分が上の立場でいたいだけだろう。
「そうでしたか。それは失礼しました」
もう話すのが面倒になり、窓の外へ視線を向ける。
石畳の道を馬車が滑るように進み、遠くに披露宴会場の白い建物が見えてきた。
披露宴の挨拶も形式的な笑顔も、慣れないウェディングドレスも、すべてが重くのしかかり、部屋に戻るなり私は灯りも落とさず眠ってしまった。
どれほど眠ったのか。
──ガチャ、ガチャガチャ。
金属が乱暴に揺れる音で目が覚めた。
暗い室内に、扉の向こうから響く不気味な音だけが続く。
──怖い。
こんな夜中に一体、誰が?
怖すぎる。
喉がひりつくほど乾き、布団の中で身を固くした。
やがて音は止んだが、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。
明日からドアの前に見張りをつけよう。
いいえ、昼間も護衛をつけた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら、再び浅い眠りに落ちた。
翌朝。
扉の前にメイドが待機していた。
若い娘で、淡い茶髪をきちんと結い上げ、緊張した面持ちで私に一礼する。
朝の支度を整えてもらい、食事が運ばれる。
銀の蓋を開けると、温かい野菜スープの香りが広がった。
「旦那様と召し上がらないのですか?」
メイドが恐る恐る尋ねる。
初めて2人になった時の言葉が“60点”の人とは、極力関わりたくない。
朝から嫌な気分になってしまう。
「いいのよ。3年したら離婚するの」
「えっ」
メイドの目が丸くなる。
……もしかしたら、これを言うことで待遇が悪くなるかもしれない。
でも、初夜がなかったことを疑問に感じているだろうから、早めに言っておこう。
「姑が勝手に、私へ婚約を申し込んだんですって。
だから3年したら“子供ができない”という理由で、別れることにしたの。
もちろん私は領地経営のために呼ばれたから、後任になる人材を育てる。
だから給料がなくなるかもって心配しなくていいから」
「そうなのですね」
残念そうな声。
ああ、奥様付きになれたのに、離婚したら降格するからか。
ちょっと可哀想かもしれない。
「食事が終わったら早速、執務官を呼んで。
今後の仕事について話し合います。帳簿も持ってくるように言って」
「わかりました」
メイドは丁寧に、一礼して下がっていった。
──今日から本当に、私の仕事が始まる。
食後、部屋の扉が静かに叩かれた。
入室を許すと、長身の美男が進み出る。
黒髪を後ろで束ね、深い灰色の瞳は落ち着き払っている。
白手袋をはめた指先の動きまで無駄がなく、黒の燕尾服がよく似合う。
「御呼びとか」
低く澄んだ声。
昨日、披露宴のあと邸宅に着いた時、玄関で出迎えてくれた執事だ。
「あら? あなたは執事でしょう?」
問いかけると、彼は微かに首を傾けた。
「家政だけでなく執務もしてるのです」
「あなたが責任者ってこと?」
「いえ、他の者は辞めたり解雇されて、私しか残ってないのです」
「ど、どういうこと?!」
思わず声が上ずった。
ヘルマンは表情を変えず、淡々と続ける。
まだ20代半ばなのに、冷静そのものだ。
「財政難なのです。
普通なら奥様には、数人の侍女とメイドがつきますが、1人しか雇えませんでした」
どうせ離婚するから1人でいいだろう、という意味かと思っていた。
違ったらしい。
「料理人も掃除メイドが兼任してます。御者も庭師を兼任。門番や護衛も私兵が兼任してます」
「な、なんで、そんな経済状態に?」
不評を聞いたことのない先代が亡くなって、1年も経っていないのに。
「旦那様はギャンブル依存症なのです。
先代が生きてた頃は、まだ我慢してましたが継いでからは、貯蓄を次々溶かしています」
頭が痛くなる。
「姑が当主権を取り上げて、女子爵になればいいのに」
と、口にすると、執事は静かに首を振った。
「大奥様も御年ですし、旦那様は一人っ子です」
どちらにしろ、あの人が跡継ぎってことね。
「ああ……そう……」
どうすればいいんだろう。
「領地収入を増やしても、ギャンブルに注ぎ込むなら無意味じゃないの?」
ヘルマンは、わずかに目を細めた。
その表情は、私の理解力を評価するようでもあり、同時に深刻さを伝えるものでもあった。
「おっしゃる通りです。
増やしても旦那様が使ってしまわれます。
ですので──“増やす”だけでは解決になりません」
「子爵領は広大ではない。
つまり、ギャンブル施設も限られてると思うんだけど?」
「その通りです。
城下町に小さいカジノクラブがあり、そこへ通っておられます」
小さい、と言っても、領地の財政を揺るがすには十分なのだろう。
「カジノの経営者は貴族?」
「いいえ。しかし侯爵家の親戚です」
なるほど、面倒な繋がりだ。
「わかったわ。
まずカジノの不正や脱税について調べて」
「すでに調べてあります」
「はい?」
思わず聞き返すと、ヘルマンは淡々と続けた。
「摘発しようとしましたが、旦那様に揉み消されました」
やっぱり。
この家の問題は“無能”ではなく“害”だ。
「証拠の写しが欲しいのだけど」
「1日、待って頂けますか? 人が少ないので私が夜──」
「いいえ、それなら持って出ましょう。
出かける準備をして」
灰色の目が見開かれた。
驚きと、どこか嬉しそうな色が混じる。
「っは、はい」
彼は深く頭を下げ、すぐに動き出した。
廊下に出ると、ちょうどカシアンと鉢合わせた。
金髪を乱暴にかき上げ、昨夜の酒が残っているのか目が赤い。
「どこに行くつもりだ? 早速、浮気か?」
はあ?
脳が一瞬止まる。
「領地視察に行くだけですけど?」
「……視察? なんで、そんなことを」
「初めて来た土地なんだから、自分の目で見ないとわからないでしょう」
カシアンは鼻を鳴らし、つまらなそうに視線を逸らした。
「……ふん。勝手にしろよ」
言われなくてもする。
何だ、こいつ?
胸の奥に冷たいものが沈む。
だが、隣に控えるヘルマンの落ち着いた気配が、それを静かに押し流してくれた。
弁護士事務所は、白い石壁と高い天井が印象的だった。
私は弁護士に今後の方針を相談し、その間に行政書士へ証拠と帳簿の写しを依頼する。
ヘルマンが用意した裏帳簿は、見事なまでに真っ黒だった。
午後には私兵と弁護士を連れて、例のカジノへ向かった。
城下町の外れにあるその建物は、赤いランプが昼間でも目立つ、下品な装飾の木造2階建て。
扉を開けると、薄暗い室内に酒と煙草の匂いが充満していた。
司法取引は驚くほど、あっさり成立した。
経営者は侯爵家の親戚らしいが、証拠を突きつけられれば抗えない。
格安でカジノ施設を買い取った。
支払いは私の持参金から。
経営者は当然、私。
ここでの収入を“貸付金”として領地に回せば、帳簿上は赤字でも破産はしない。
むしろ、私の個人資産が領地の生命線になる。
手続きや従業員の確認、今後の経営方針を話し合っているうちに、1日が終わった。
私は手紙と証拠、登記簿と帳簿の写しをまとめ、実家のタウンハウスへ送る。
揉み消し対策は万全だ。
邸宅に戻り、玄関でヘルマンに告げた。
「そう言えば、昨夜ドアを開けようとする不審人物がいたの。
私兵を、このまま護衛として連れて行くわ」
ヘルマンの表情が、わずかに曇った。
「それは……旦那様では?」
「え? でも昨日、白い結婚にしましょうと言ったのよ」
「奥様が提案されただけで、旦那様は承諾してないのでしょう」
ぞわり、と背筋が冷えた。
「キモいキモいキモい……きもい。無理無理無理無理!
あんなのと体を重ねるなんて無理無理」
思わず声が裏返る。
ヘルマンは困ったように眉を寄せた。
「そうは言いましても、後継を作らねばなりません」
それを言われると、貴族として否定はできない。
うーん、どうしよう。
「……いや、本当に昨日来たのが夫とは限らないわ」
「いえ、旦那様です。
邸宅内に住む男は、私と旦那様だけですから。
私兵は兵舎です」
「……メイドかもよ?」
「現実逃避したいお気持ちは分かりますが、これは事実です。
なぜなら、旦那様は『妻が家に来たら、娼館で金を払わなくて済む。
その分の金をギャンブルにつぎ込める。ラッキー』と言ってましたから」
キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい!
頭の中が悲鳴でいっぱいになる。
ヘルマンが静かに視線を落とした。
──この家の最大の問題は、やはり“夫”だ。
気を取り直して自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、背後から甲高い声が飛んできた。
「ちょっと、マルセラさん!」
振り返ると、姑が腕を組んで立っていた。
濃い紫のドレスに宝石をじゃらつかせ、怒りで頬を赤くしている。
「昨晩は初夜をしなかったばかりか、今日はフラフラ出歩いたそうね。
あなたには執務をして貰うために、結婚を申し込んだのよ?
これじゃ詐欺じゃないの」
ため息を飲み込む。
詐欺と言いたいのは、こちらだ。
「領地を見ないと、経営できないでしょう。
それに経営させるために嫁がせたなら、子供は別の方に生んで貰ってください。
両方はタカりですよ」
「なんですって?! どちらも義務よ!」
姑の顔が真っ赤になる。
私は淡々と返した。
「義母様も、今まで義父様と一緒に執務してきたんですね?
それが忙しくて、1人しか産めなかったんですか?」
義母の口が開いたまま固まった。
沈黙。
彼女に経営の手腕はない。
そこへ、どこからか現れたカシアンが割って入ってきた。
怒りで顔を歪めている。
「おい! 黙って聞いていれば、母上に何てこと言うんだ?!
この親不孝もの!」
「え、私の親はアルディナ領にいますが?」
「俺の母は、お前の義母だろう。
そんなことも、わからないなんて頭悪すぎる」
……ああ、もう無理だ。
「では離婚しましょう。
頭の悪い妻に、領地経営はできません」
「「えっ」」
義母とカシアンの声が重なった。
2人とも、まるで想定外の言葉を聞いたかのように固まる。
「だって旦那様は、義母様に無理やり結婚させられた被害者なんでしょう?
私も被害者ですよ。
前の婚約者が亡くなって、まだ時間は経ってないんです。
本来なら喪服してなきゃいけないんです。
王命だから仕方なく来たんです。
お互い被害者なんだから、ここで別れましょう」
義母の顔が引きつり、カシアンは口をぱくぱくさせている。
「で、できるわけないだろ。離婚なんて。
そもそも妻側が何て言おうと、夫が離婚すると言わない限りできないんだぞ」
何を言っているのか理解できない。
恐らく“妻は夫の所有物”という古い風潮を、そのまま信じているのだろう。
だが、そんな法律は存在しない。
「はあ、では今から1週間以内に離婚して、ご覧にいれましょう」
廊下の空気が一瞬止まる。
「はあ? どうやって? 1週間じゃ裁判にもならないぞ」
カシアンが嘲るように笑う。
私は肩を竦めた。
「まあ、見ててください」
その時、背後から落ち着いた声が響いた。
「お待ちください。
でしたら先に、使用人へ紹介状を渡して解雇してください」
ヘルマンが静かに進み出る。
「ああ、確かに」
私が頷くと、カシアンが怒鳴った。
「なんだと?!
お前は、離婚できると思ってるのか?」
ヘルマンは淡々と告げた。
「思ってますよ。
奥様は今日、カジノを買収したんですから」
2人の顔から血の気が引いた。
「な……」
「え……?」
義母の手が震え、カシアンは青ざめて壁に手をつく。
「俺の許可なく領地の金を動かすな!」
「領地の金は使っていません。奥様の持参金です」
「そんな……そんな額、持ってきてないでしょう?」
義母が縋るように言う。
私は静かに登記簿の写しを差し出した。
義母の顔が、見る見るうちに引きつる。
「わ、悪かったわ。夫婦のことに口出して。
これからは別邸で暮らすから、仲良くやりなさい。
──じゃ」
逃げた。
本当に逃げた。
「あ、母上! 逃げるなんて……」
カシアンが情けない声を上げる。
「では使用人の解雇から始めますね」
「俺の許可なく勝手にするな!」
「では、あなたが紹介状を書いてください。それでは」
踵を返すと、カシアンが慌てて叫んだ。
「は? どこ行くんだ?」
「どこって実家に帰りますよ」
「今から?!」
「ええ。善は急げで。
では、さようなら」
歩き出すと、背後から情けない声が追いすがる。
「……は? ちょ、ちょっと待てよ……!」
「何のために待つんですか?
私の時間を無駄にするなら、その分の対価は貰いますよ」
「え、いやその……か、カジノクラブは、どうなるんだ?」
「どうって、私が経営者のままですが?」
「帰ったら経営できないだろう」
「実家から代理人を置きますので、問題ないです。
要件は、それだけですか?」
カシアンの顔が歪む。
「離婚したら傷物になるぞ」
「構いませんよ。
働き口も個人資産もありますから。
商会は結婚を機に売りましたが、買い戻せばいいので」
「王命で結婚したのに、こんなにすぐ離婚したら咎められるだろう」
私は笑った。
「あなたが、どうなろうと知ったこっちゃないんですよ。
昨日まで他人だったし、明日から他人になるんだから」
カシアンは言葉を失った。
理解が追いつかないのだろう。
“妻は夫に尽くすもの”
“夫婦は運命共同体”
彼の、そんな古い価値観が、音を立てて崩れていく。
「くそっ、くそっ……!
何が気に入らないんだ?
部屋だって与えたし、メイドも付けたぞ」
金髪をかき乱し、青い瞳を怒りで濁らせている。
“与えた”という言い方が、すでに終わっている。
「それは当たり前ですよね。
何にキレてるのか、わからないんですけど?」
私が淡々と返すと、カシアンはさらに顔を歪めた。
「だ、だから、すぐ離婚したらマズいということだ」
「それは、あなたの事情であって、私の事情ではないって言ってるんですけど」
ヘルマンが横から、静かに口を開いた。
「破滅したくないなら、素直に謝ればいいではないですか。
それで許してもらえるかは、知りませんけど」
「夫の俺が妻に頭を下げろだと?
そんなわけに行くか」
ヘルマンと私は、同時に顔を見合わせた。
“ああ、これはダメだ”という無言の確認。
「とりあえず。今夜はカジノに泊まりますから、言いたいことがあるなら明日、手紙にして届けてください」
読むとは言っていないけどね。
完全に“無能な部下への指示”だ。
「て、手紙……?」
「文章なら、あなたの言いたいことが整理されるでしょうし」
カシアンの顔が真っ赤になった。
「は、ちょ、待て。外出禁止だ」
「は?」
「夫で当主の俺が『外に出るな』と言っているんだから、出るな。命令だ」
命令、ね。
この状況で、よく言える。
「ふうん? まあ、いいですよ」
「え、本当に? ──いや、これは当然のことだ。
部屋で謹慎しろ」
「ちょっと何言ってるか、わからないですけど──今夜は、ここに泊まります」
「泊まる……」
カシアンの口が開いたまま固まる。
私はその横を通り過ぎ、自室へ向かった。
──この家の“当主”は、今日も自分が何を失ったのか理解していない。
夜。ようやく眠りについた頃、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。
「困ります。奥様が起きてしまいます」
私兵の低い声だ。
「どうして夫が、妻の部屋に入ってはいけないんだ」
……夫の声。
やっぱり。
「かりそめの夫婦ではないですか」
「夫婦は夫婦だ。
こっちから歩み寄ってやってるんだから、向こうは泣いて喜ぶはずだ」
……どんな思考回路?
「すいません。
本当に何おっしゃってるか、わからないんで辞表、書きます」
兵士の心が折れた音がした。
……もう寝よう。
翌朝。部屋の前にカシアンが、何故か朝食を持って立っていた。
金髪は寝癖で跳ね、青い瞳は妙に期待に満ちている。
「『昨日は言いすぎた』と思ってるだろう。
頭は冷えたか?」
無視して朝食を受け取り、口に運ぶ。
パンは温かいのに、隣の空気は寒い。
「この部屋も、このパンも、俺のおかげだぞ。
わかってるのか?」
……本当に、何を言っているのだろう。
「そちらが『どうしても』と言うから、嫁いであげたんですよ。
分かってるんですか?」
カシアンは大きくため息をついた。
「全く、お前は子供なんだな。
俺がこうして折れてやってるのに、ちっともわかってないんだから」
折れているのは、頭の方では?
「弁護士に離婚の相談をしておいたので、今日から手続きに入ります。
2日間ですが、お世話になりました」
淡々と告げると、カシアンの顔が一瞬で赤くなる。
「っ……外出禁止だと言ったろう。
勝手は許さないぞ」
ため息が出る。
「離婚したくないのですか?」
「だから、陛下に怒られるだろう」
……精神年齢いくつなんだろう。
実年齢は、私より6歳上の25。
怒られるから嫌。
それが“離婚したくない理由”。
私はフォークを置き、淡々と告げた。
「はあ。では外出禁止が解けるまで、バイトしてあげます。
報酬付きで執務してあげます」
向かいの椅子に座るカシアンが、眉をひそめる。
「なんで妻に報酬払うんだ?」
「やってあげる筋合い無いからです」
当然のことを言ったつもりだったが、彼は理解できていないらしい。
「妻なんだから、俺を助けて当たり前だろう」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
「でしたら、義母様にできる分だけやります。
義母が1日に捌ける書類が20枚なら、私も20枚分働きます」
カシアンの青い瞳が細められる。
「ふうん、ではやってみろ」
「いいですよ。では書類を持って、義母のところに行ってきます」
立ち上がろうとすると、カシアンが慌てたように声を上げた。
「何だと? 出るのはダメだ。こちらに呼ぶ」
「そうですか」
私は素直に座り直した。
朝食後。
部屋で領地の資料を読み込んでいると、廊下の向こうから甲高い声が響いてきた。
「なんで私が! なんで私が、こんなことを!!
嫁の仕事を私が!? 聞いてないわよ!!」
姑の絶叫は、近づいてきて──
そして遠ざかっていく。
お茶を淹れ、資料と帳簿を読みながら、 優雅に1日を過ごした。
夕暮れが過ぎると、ノックの音がして扉が開いた。
黒髪を束ねたヘルマンが、整った所作で一礼する。
「失礼します。
先代夫人の“執務量”を、報告に参りました」
「どうぞ」
差し出された書類を受け取る。
ヘルマンの灰色の瞳は、いつも通り冷静だった。
「先代夫人が、本日処理された書類は……10枚です」
「ああ、やっぱり」
予想通り。
むしろ10枚も、やったことに驚く。
翌朝、部屋で朝食を取っていると、カシアンがニヤニヤしながら入ってきた。
金髪を揺らし、勝ち誇ったように顎を上げる。
「昨日、母上は10枚、政務処理したぞ。
この土地について何も知らないお前が、どれだけできるか見物だ」
私は黙って食事を終え、立ち上がった。
カシアンの執務室。
重厚な机の横に空いているデスクがあり、私はそこに腰を下ろした。
「書類を持ってきてください」
ヘルマンが静かに書類を積む。
そして──30分後。
「終わりました」
机の上には、正確に処理された10枚の書類。
「は? 嘘だ。適当にやっただろう」
カシアンが書類を引ったくり、乱暴にめくる。
しかし──
「……問題が……ない……? なんで?」
青い瞳が揺れた。
「婚姻の王命が下った時、可能な限りの資料を渡すよう王家に要求し、ここに来る間に読みました。
それに一昨日と昨日で、過去20年分の帳簿を見ました」
カシアンの顔が引きつる。
「……では残りの業務を」
「残り? 私は義母のできる分と言いましたよ」
「うるさい。出来るならやれ。命令だ」
命令、ね。
この男は本当に理解していない。
「怖くないのですか?」
「何が?」
「私なら、あなたが気付かないうちに、あなたを破滅させられますよ」
カシアンの喉がひくりと動く。
「そのために外出禁止にしてる」
……本気で言っている。
そこへ、ヘルマンが静かに口を開いた。
「奥様なら書類仕事だけで、そのように細工できると思いますよ。
そもそも昨日、ご実家に現状をまとめた手紙を送られましたから、外出禁止なんて無意味ですよ。
拘束するようなら、ご実家が王家へ通報するでしょう」
カシアンの顔が青ざめ、頭を抱えた。
「……何が望みだ?」
「離婚」
「それ以外で」
「それ以外?」
思い付かない。
カシアンが絶句する。
しばらく黙り込み、やがて観念したように肩を落とした。
「わかった。負けた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に光が差した。
──やっと離婚できる。
だが。
「仕事を1日5時間した後は、自由にしていい」
「はあ?」
思わず素で声が出た。
カシアンは真顔で続ける。
「そのままの意味だ」
……離婚の話ではなかった。
“奴隷契約の改善案”を提示された気分だ。
「逆なら構いませんよ。
私の領主代理権を、正式に認めてください。
その代わり、あなたは働かなくていいです。自由にしていいです」
皮肉ではなく本気だ。
彼が働かない方が領地は安全。
「……乗っ取りはできないという契約書を作った上でだ」
「もちろん構いませんよ。
なぜ裕福な男爵令嬢だった私が、貧しい子爵家を乗っ取りたいと思うのかわかりませんが、それで今後あなたの顔を見なくて済むならいいです」
伯爵家以上ならまだしも、没落寸前の子爵家を“乗っ取る”理由など、どこにもない。
「弁護士を呼んで。書類をつくって貰って」
「はい。すぐに」
ヘルマンが静かに一礼し、足早に去っていく。
燕尾服の裾が美しく翻った。
「契約書の作成が終わるまで、部屋にいます」
そう告げて踵を返すと、背後でカシアンが小さく息を呑んだ。
何も言えないらしい。
弁護士が差し出した契約書にサインを終えると、私はそれを高く掲げた。
「やったー♪
これで旦那様の顔を見なくて済む!
早速これ、公正証書にしておいて」
弁護士は苦笑しつつ一礼した。
「はい。では私は、これで」
「ありがとう。
さ、仕事をするので、出て行ってください」
部屋から人が出ていく中、カシアンが残った。
居心地悪そうに虚勢を張っている。
「俺が仕事を教えてやる。
引き継ぎしないと、わからないだろう」
その瞬間、ヘルマンが前に出た。
黒髪を束ねた端正な横顔は、いつも通り冷静だ。
「私がいますので」
「なおさらだ。妻を男と2人にできるか」
……2人とも絶句した。
私は完全に無視して、机に向かい仕事を始めた。
それからの数日。
カシアンは黙々と仕事をし、食事も一緒にとり、夜は寝室に来ようとしたが、それは私兵が阻止した。
そして社交シーズンになり、王都へ向かうことになった。
……もしかして、私が実家に送った文章を気にしてるのかしら。
そんな予感が胸をよぎる。
舞踏会。
煌びやかなシャンデリアの下、音楽が流れ、貴族たちが優雅に踊っている。
その中で──
カシアンは、今までが嘘のようにニコニコと愛想よく振る舞っていた。
青い瞳を柔らかく細め、誰にでも丁寧に頭を下げる。
別人のようだ。
いや、別人であってほしい。
玉座へ近づくと、主が穏やかな声で言った。
「領地経営が上向き、と報告を受けた。
上手くやっているようだな」
カシアンは深々と頭を下げ、完璧な笑みを浮かべた。
「はい。すべて妻のおかげです。
彼女と結婚させてくださった陛下への、ご恩は忘れません」
……ドン引きした。
普段の横柄さはどこへ行ったのか。
王の前では“良い夫”を演じるらしい。
舞踏会の間中、カシアンは異様なほど私に張り付いていた。
ダンスを3回連続で踊り、他の紳士が申し込むと即座に断る。
青い瞳は笑っているのに、腕の力だけが妙に強い。
「ダンスを断ったら、社交にならないではないですか」
私が小声で言うと、カシアンは眉をひそめた。
「王都から遠い小さい領地を切り盛りするのに、なぜ社交が必要なんだ?」
……本気で言っている。
「最新の情報を仕入れたり、領地の特産品を輸出する時に、人脈は必要なのです」
「ダメといったらダメだ。全く」
そう言うなり、突然私の腰を抱き上げた。
「ちょ、どこに行くのです?!」
「庭を散歩するんだ。
夫婦なんだから、当たり前だろう」
うん? どういう基準?
まあ、いいか。
初夏の王宮の庭は、月光に照らされて花々が揺れていた。
涼しい夜風が吹き抜け、香りが淡く漂う。
「まだ、たくさん花が咲いてるな」
王宮の庭なんだから、当たり前でしょう。
「……そうですね」
「何の花が好きだ?」
「イズモコバイモです」
「なんだって?」
「イズモコバイモです」
カシアンは一瞬固まり、無理に笑顔を作った。
「……そ、そうか。今のシーズンでは?」
「ホタルブクロです」
「なんだって?」
「ホタルブクロです」
「……そ、そうか。
お前は本当に変わった女だな」
何が変わっているのか、理解できない。
だが、次の言葉で全てが、どうでもよくなった。
「いい。俺は、お前みたいな可愛くない女を受け入れてやる寛容な夫だ」
「……」
月明かりの下で、私は本気で帰りたくなった。
「そうか、感動して言葉も出ないか。
明日から、デートに連れて行ってやるからな。
期待して待ってろ」
……期待する要素が1つもない。
翌日。実家のタウンハウスの部屋で支度をしていると、扉がノックされ、カシアンが現れた。
手には──バラの花束。
「どうしたのですか?」
問いかけると、彼は得意げに胸を張った。
「お前の言ってた"何だか芋"と"何だか袋"は売ってなかった。
バラで十分だろう」
イズモコバイモとホタルブクロのことね。
そのバラ、うちの庭から取ったんじゃない?
まあ、いいか……。
「はあ……ありがとうございます」
「うむ。行くぞ」
当然のようにエスコートされ、外へ連れ出された。
劇場の灯りが落ち、悲劇のクライマックスで観客が息を呑む中──
隣でカシアンが、おいおい泣いていた。
「何で、お前は平気なんだ?」
「何故って言われても……お芝居なので」
カシアンは涙を拭いながら、信じられないものを見るように私を睨む。
「ああ、本当に血も涙もない冷たい女だ。この冷血漢め」
……冷血漢?
「……それでしたら、離婚──」
「あーあーあーあー!」
私の言葉をかき消すように、彼は耳を塞いで叫んだ。
「何ですか、うるさい」
「レストラン予約してある。行くぞ」
泣き止んだ瞬間に、これである。
感情の振れ幅が激しすぎて、ついていけない。
──この“デート”、あと何回続くのだろう。
レストラン。
王都でも“普通席”と呼ばれる、貴族が気軽に利用する店。
白いテーブルクロスに銀のカトラリー、落ち着いた照明。
料理は丁寧で、味も悪くない。
だが──
「いいか。ここは『そこそこ安くて雰囲気があって、貴族が入っても恥ずかしくない店』を、俺がヘルマンに調べさせたんだぞ」
カシアンは、ドヤ顔で胸を張った。
思わず口が動いた。
「旦那様は、素人童貞ですか?」
「ブフォッ! しょ、食事中に、なんてこと……」
彼はワインを吹きかけそうになり、慌てて口元を拭う。
「すみません。
前から、ずっと思ってたので思わず口から出てしまいました」
「ずっと思ってたんだな?」
「ずっと思ってました」
「そうか……」
結局、彼はその質問に答えなかった。
多分、答えられなかったのだろう。
食後、宝石店へ向かう。
「いいか? 安いのにしろよ。安いのだぞ?
家には金がないんだからな。分かってるな?」
「そこまでして買って貰わなくてもいいんですけど……」
「うるさい、バカ。俺に恥をかかせるな。
これ見ろ。石が小さい。これなら買えそうだ。
よし、これを買おう」
カシアンが指差したのは、目を凝らさないと見えないほど小さいルビー。
ちなみに互いの髪と瞳は赤くない。
……なぜルビー?
そして──
「似合ってるぞ。よかったな。
ふんふんふん♪」
ふんふんふん♪ って何……?
購入後に着けて貰ったので、鏡を見る。
……小さすぎて見えない。
ネックレスの存在感はゼロ。
だが、カシアンは鼻歌まじりにご機嫌だ。
──この男の“良い夫アピール”は、いつも斜め上を行く。
帰りの馬車の中。
ランプが揺れる車内で、カシアンは満足げにこちらを見ていた。
「今日は楽しかったか?」
最初の印象が“普通”だったら嫌なデートだっただろう。
でも──最初の印象が悪すぎたせいで、普通のことをされるだけで“すごい”と思えてしまう。
ある種の奇跡。
「そうですね。悪くはなかったです」
「ん、あ……そうか。
では、明日もデートに行くぞ。
しっかり寝ておくように」
「わかりました」
──こうして、奇妙な“普通の夫婦ごっこ”は続いた。
結婚から3年が経った。
記念日の夕食。
白いクロスの上に並ぶ料理、揺れる蝋燭の灯り。
カシアンは満面の笑みで言った。
「遅かったではないか。
君のために用意させたのに。
結婚記念日だ」
「ええ、そのことで大事な話が」
「ああ、わかってるわかってる。
子供が欲しいのだろう。
今夜、君の部屋に行く。心配するな」
……心配しかしない。
「そうではありません。
この家は持ち直しましたし、人材も育成しました。
赤字も黒字になりました」
「だから子供が欲しいのだろう」
話が通じない。
3年間、ずっとそうだった。
「違います。離婚すると言いたいのです」
カシアンの手からカラトリーが落ちた。
金属音が、静かな食堂に鋭く響く。
「な、な、何故だ?
俺はこの3年、完璧な夫だった。
ギャンブルも控え、君との時間を大事にし、君の好きな花を庭に植えた。
何が不服なんだ?
俺以上の夫なんかいないぞ」
私は静かに息を整え、真正面から言った。
「あなたなりに努力したのは認めますが、スタートが悪すぎて好きになれません」
カシアンの眉が跳ね上がる。
「政略結婚に好きも嫌いもあるか。
離婚なんて絶対認めない」
「3年もボランティアしてきてあげたのに、まだタカるんですか」
「こっちだって3年も、初夜を我慢してやってきたんだぞ」
「その分、娼館には行ってたじゃないですか」
カシアンの顔が一瞬で青ざめた。
「っ、な、何で、それを?!」
「帳簿についてるし、香水の匂いプンプンして、分からないはずがないじゃないですか」
慌てて自分の袖を嗅ぐカシアン。
いや、今嗅いでも分からないでしょう。
「違う。あーえーえー……あれは、学習に行ってたんだ。
君を抱く時に、痛くないように勉強しに行ってたんだ。それだけだ」
……言い訳の方向性が斜め上すぎる。
「捨てないでくれ。頼むから。
──この通りだ」
カシアンは椅子から、ずり落ちそうな勢いで頭を下げる。
「あなた、謝ったんですか?」
「何を?」
私は深くため息をついた。
「結婚した日に私を『60点』と言ったことから、今までのこと全部。
それとも私に“あなたの知的レベルは20点”だと言い返してほしいですか」
カシアンの顔が引きつる。
「……はあ、わかった。俺が悪かった。すまなかった」
「悪いと思ってるなら、離婚届にサインして」
「謝ってるだろう!」
声が裏返る。
「今すぐは出しません。
今すぐは出さないけど、1回でも暴言吐いたらすぐに出します。
その代わり、今までのことは許してあげる」
カシアンは一瞬黙り──そして、信じられない言葉を口にした。
「書いたら初夜していいか?」
「っ、そ……マイナスが0になるだけで、まだプラスじゃないのよ?」
「政略結婚なんだから、それで十分じゃないか」
……この男は本当に、何も分かっていない。
「サインするのね?」
「初夜していいなら、する」
私は頭を抱えて、呼吸を整えた。
「……わかったわ」
その瞬間、カシアンの顔がぱっと明るくなる。
「え、本当に? おい! 早く離婚届、持ってこい!」
──離婚届を“初夜の交渉材料”に使う夫。
この国の歴史に残る愚行である。
薄いカーテン越しに朝日が差し込み、静かな寝室にカシアンの寝ぼけた声が響いた。
「むにゃむにゃ? ん? どこだ、ここ?」
金髪がぐしゃぐしゃで、目は半分閉じている。
完全に二日酔いの顔だ。
「あなたが、はしゃいで飲みすぎたんですよ」
私が淡々と告げると、カシアンは自分の裸を見下ろし、ぎょっとした。
「え? 裸なのに初夜してないのか?」
「しましたよ。
ほら、シーツに血がついてるでしょ」
私は指先でシーツの端を示した。
「え、全然覚えてないから、もう1回」
「ふざけないでよ。体が痛いのよ」
「あー、そっか。それなら仕方ない。わかった」
カシアンは素直に頷きベッドから降りると突然、私を抱き上げた。
「え、裸でどこ行く気?」
「風呂場で体を綺麗にしてやるよ」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
本当は──
カシアンに純潔を捧げるのが嫌で、酔い潰して“初夜をしたように偽装した”。
実際は、彼とは何もしていない。
彼は何も知らず、優しくしようとしている。
その優しさが、逆に胸を締めつけた。
──それ以降、カシアンは私から片時も離れなくなった。
「どこに行くんだ?」
「美容室ですよ」
「俺も行く」
「女性向けの美容院ですよ」
「終わるまで待ってる」
……いや、仕事しろよ。
別の日。
「どこに行くんだ?」
「領地視察ですよ」
「……」
いや、今こそついてこいよ。お前の仕事だろう。
買い物にもついてくる。
散歩にもついてくる。
しかし──
自分の本来の仕事である領地視察には沈黙。
完全に“ついてくる基準”がズレている。
視察に向かう馬車の中。
揺れる車輪の音の中で、ヘルマンが静かに尋ねた。
「大丈夫ですか?」
「夫のこと? 犬だと思えば可愛いわ。人間だと思うから腹が立つのよ」
ヘルマンは一瞬だけ目を瞬かせ、そして小さく笑った。
「そうですね。犬なら……ただ“バカだな”って思うだけですね」
「そうそう」
2人の声は穏やかで、どこか達観していた。
──夫は犬。
そう思えば、腹も立たない。
ただ、犬にしては手がかかる。
というだけの話だった。
帰宅すると、いつもなら玄関で飛びついてくるカシアンの姿がない。
屋敷の空気が、妙に静かだった。
「賭博場ですね」
ヘルマンが呆れて言う。
「そうよね。他に友達いないもの」
「ギャンブルが友達ですか」
「そうよ。彼の唯一のね」
2人の会話は静かで、しかし容赦がない。
しばらくして、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ふんふんふん♪
ほら見ろ。今日はついてたからプレゼントだ」
カシアンが鼻歌まじりに戻ってきた。
手には、小さな──本当に小さな──ダイヤモンドの指輪。
「……ありがとうございます」
受け取るとカシアンは、ますます得意げになる。
「そうか。嬉しくて言葉にならないからだな。
俺みたいないい夫、他にいないだろう。感謝しろよ。
ふんふんふん♪」
ふんふんふん♪ って何?
横でヘルマンが小声で呟いた。
「……奥様のお陰で生活できてるのに……」
マルセラは肩をすくめ、静かに言った。
「躾るのが大変な犬を、飼ってしまったのよ。
むしろ放逐は、領民が可哀想だもの。仕方ないわ……」
執事は一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。
「奥様が、そう仰るなら……」
その声音には、犬として飼う方がまだ安全という、深い理解が滲んでいた。
いつしか戦争が始まり、屋敷に赤紙が届いた。
カシアンは真っ青になり、私の足にしがみついて泣き出した。
「行きたくないよぉおおおお……!」
居間の床にへばりつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
28歳の成人男性とは思えない。
そこへ姑が口を挟んだ。
「マルセラさんの方が息子より強いんだから、マルセラさんが戦地に行けばいいのに」
「義母様、殺しますよ?」
義母は悲鳴を上げて逃げていった。
……いつも逃げ足だけは速い。
私はしゃがみ込み、泣きつくカシアンの頭に手を置いた。
「旦那様なら生きて帰れますよ。
むしろ、英雄になって帰ってきてください」
「英雄?」
「そうです」
カシアンの涙がぴたりと止まった。
「英雄になったら、今までよりもっと俺を好きになるか?」
今の“好き”は100点中2点だから……多分、何してもあまり変わらないけど。
ここは一応、肯定しておこう。
「そうですね。好きになりますね」
「そうか! じゃあ行ってくる。
後のことは頼んだぞ」
さっきまで泣いていたのに、急に胸を張る。
単純なのか、強いのか、弱いのか……判断に困る。
「分かりました。お気をつけて」
こうしてカシアンは戦場に向かった。
──犬のように懐いてきた夫が、初めて“私の手の届かない場所”へ行く。
その背中を見送りながら、
胸の奥に、説明のつかないざわめきが生まれた。
出兵から、最初の数週間は毎日のように手紙が届いた。
だが──内容は全部、愚痴。
『朝6時に起こされるんだぞ。ひどいだろ』
『飯がまずい。家の方がいい』
『上官が怖い。なんで怒るんだ』
『歩く距離が長い。疲れた』
『俺は戦いに向いてない。帰りたい。マルセラ、代わりに戦ってくれ』
そして、愚痴は次第に“依存”へと変わっていった。
『最近、返事が遅い。誰かと会ってるのか』
『俺がいない間に他の男が寄ってきてないか』
『ヘルマンと仲良すぎないか』
『俺がいないと寂しいって言えよ』
『浮気したら許さないからな』
……戦場で何してるの?
私は返事を書いた。
「旦那様が私に100の愛の言葉をくだされば1回、返します」
たった一行。
でも、効果は絶大だった。
──それ以来、依存の手紙はぴたりと来なくなった。
ヘルマンが、書類を抱えて部屋に入ってくる。
「旦那様からの手紙が、なくなりましたね 。
どうしたんでしょう?」
「たぶん語彙力ないから、100も愛の言葉を紡げないのよ」
ヘルマンは珍しく口元を緩めた。
「平和になりましたね。さすが奥様です」
私は紅茶を一口飲み、静かに頷いた。
それから3ヶ月は依存の手紙が止まり、平和な日々が続いていた。
──その平和は、突然終わった。
ある日、机に置かれた手紙を開いた瞬間。
「ひっ」
思わず手紙を放り投げた。
「どうしました?」
ヘルマンがすぐに拾い上げ、中身を確認する。
そして、眉をひそめた。
「……これ、呪いの手紙でしょうか」
紙いっぱいに、びっしりと──
『愛してる』が100回。
「多分、夫からのラブレターだと思うの」
「呪いの手紙にしか見えないですけどね。
悩んだ結果が、これですか」
私は落ちた手紙を拾い、しばらく見つめた。
「なんて返事すれば、向こうは満足するかしら?」
「うーん……お祓いしてから牧師様に相談してみますか」
「そ、そうね」
結局、私は一言だけ返した。
『私も愛しています』
それだけ。
1週間後、また手紙が届いた。
『友人に相談したら、俺が"100回も愛してると書いてるのに一言しか書いてこないというのは、愛してない証拠だ"と言われた。
浮気してるんじゃないのか』
私は静かに返事を書いた。
『では200回書いてくだされば、私も2回同じことを書いて返します』
すると、すぐに返事が来た。
『だから、それが不公平だと言ってる。
俺が100書いたら、君も100返してくるべきだ。
それが、夫婦だろう』
書類の山を前に、私は深いため息をついた。
「もうウザイ。どうしよう?」
ヘルマンは冷静に答える。
「しばらく返事しなくていいと思います」
その助言に従い1ヶ月ほど返事を控え、ようやく当たり障りのない手紙を送った。
しかし──返事は来なかった。
代わりに届いたのは、彼の上官からの手紙。
『カシアンくんが"愛されてない"と泣き叫び、備品を壊し、兵士を殴り、暴れて酷かったため懲罰室に入れました。
このまま使い物にならないようなら、引き取りに来てください』
私は手紙を読み、静かに呟いた。
「……狂犬病だったのかしら」
「困りましたね」
ヘルマンの声は、いつも通り落ち着いている。
「姑に“愛してる”って書かせて送りましょう」
困惑する姑を呼び出し、事情を説明する前に紙とペンを渡す。
「えっ? えっ? 100回? “愛してる”を?
なんで私が……?」
「息子のためです。
“母の愛”を届けてあげてください」
「……そ、そういうことなら……」
姑は震える手で、
“愛してる”を100回書かされた。
そして──
そのまま戦地へ送られた。
もちろん、上官への丁寧な謝罪文も一緒に。
その後、戦場から1通の手紙が届いた。
封を切ると、上官の端正な筆跡が並んでいる。
『カシアンくんの病気は治まりました』
さらに数日後──
今度は本人から、まるで何事もなかったかのような手紙が届いた。
天気の話。
飯がどうとか。
帰ったら散歩しようとか。
暴れて懲罰室に入れられていた男の文面とは、思えない。
私は手紙を読み終えると、静かにため息をついた。
「……どうしましょう、ヘルマン」
「奥様、もう“あの方法”しかありませんね」
「ええ……義母様を呼んでくるわ」
姑は呼び出されるなり、紙とペンを渡されて固まった。
「えっ? えっ? また100回? “愛してる”を?
また……?」
「お願いします」
「……仕方ないわね……」
姑は震える手で“愛してる”を100回書かされた。
その文字列は、もはや呪術の陣のようだった。
そして──
そのまま戦地へ送られた。
もちろん、上官への丁寧な謝罪文も添えて。
こうしてカシアンは、母の“愛してる”で精神が安定する28歳の男。
という、前代未聞の状態に突入した。
私は紅茶を一口飲み、目を閉じた。
そんな日々が続き、出兵から1年が経った頃。
私は執務室で書類に目を通しながら、ふと気づいた。
──夫からの手紙が、ぴたりと来なくなった。
「死んだか愛人だと思うんだけど?」
ヘルマンは静かに首を傾げた。
「あの旦那様が女性にモテますかね……」
「容姿は悪くないし、おじさんって程の年齢でもないし。
平民なら貴族の愛人になりたいんじゃない?
むしろ、あの人ほど扱いやすい人いないわよ」
ヘルマンは眼鏡の位置を直し、真剣な声で言った。
「わかりました。諜報を放ちます」
「お願い」
私は羽ペンを置き、窓の外の空を見上げた。
青空の下、王都の街並みが静かに広がっている。
──夫が死んだのか、愛人に拾われたのか。
どちらでも、領地経営は滞りなく進む。
ただ、胸の奥に小さなざわめきが残った。
執務室の窓から差し込む光が、磨かれた床に淡く反射していた。
私は書類に目を通しながら、ヘルマンの報告を待つ。
彼は黒髪を後ろで束ね、端正な横顔を崩さずに扉を閉めた。
「結果が出ました」
私は羽ペンを置き、彼を見上げた。
「どうだった?」
「戦場娼婦に入れ込んでいるそうです。
相手は平民のシングルマザーで、容姿は特別優れていませんが、やたらと褒めるそうです」
私は肩をすくめた。
「……まあ、そうよね。
褒めてくれるなら誰でもいいのよ、あの人」
「旦那様は“褒めてくれる人”に弱いですからね」
「愛人にとっては便利でしょうね」
ヘルマンは静かに問いかける。
「……どうします?」
「どうって言っても……意味のわからない手紙を送ってきて暴れられるより、愛人が精神安定剤になってる方がマシじゃない」
「よろしいのですか?」
「好きで結婚してるわけじゃないから、別に。
領民に迷惑がかからないなら、いいわよ」
そこで話は終わった──はずだった。
しかし、それからというもの、ことあるごとに金の催促が来るようになった。
戦場から届く手紙は、どれもこれも金の話ばかり。
『部下の士気を上げるのに、今の小遣いじゃ足りない』
私は淡々と返した。
「あなたの個人資産から送りますって……貯金0でしたね。御愁傷様」
すぐに返事が来る。
『こっちは命懸けで戦ってるんだ。
なぜ敬わないんだ? 金ぐらい寄越せ』
私は羽ペンを走らせた。
「では離婚届を出します」
返事は慌てた筆跡だった。
『悪かった。やめてくれ。
それだけは嫌だ。
小遣い10%アップで我慢する』
私は最後の一撃を送った。
「そもそも従軍の給与が、こちらに1銅貨も来てませんが?」
──その日を境に、手紙は完全に途絶えた。
執務室で書類を整理していたヘルマンが、おもむろに口を開く。
「……旦那様、ついに詰みましたね」
「ええ。手紙が来ないなら静かでいいわ」
ヘルマンは、わずかに微笑んだ。
「奥様の返事は、いつも最適解です」
終戦の報せが届いて数日。
ドレイモンド子爵邸の玄関は、久しく人の出入りがなかったせいか冷え切っていた。
扉が開くと同時に冷たい風が吹き込み、私の頬を撫でた。
「マルセラ、帰ったぞ」
低く響く声。
金髪を無造作にかき上げた夫が、勝手に誇らしげな顔で立っていた。
整った顔立ちだけは、昔から変わらない。
「お帰りなさい」
形式だけの言葉を返すと、夫は満足げに顎を上げた。
その後ろに、見知らぬ女が立っている。
「こちらはターニャ。
今日から、ここで一緒に暮らす」
女は濃い栗色の髪を派手に巻き、赤い口紅を塗っていた。
年齢相応の皺を隠すように厚化粧だが、妙な自信に満ちた笑みを浮かべている。
腰のくびれを強調する深い緑のドレスが、庶民上がりの成金趣味を物語っていた。
「こんにちわー」
軽い声。礼儀も格式もない。
「それは愛人ということですか」
私が問うと、夫は鼻で笑った。
「愛人だって? 彼女は入籍してないだけで妻だ。第2夫人だ」
「この国は一夫多妻じゃありませんけど、呆けましたか?」
夫の眉が跳ね上がる。
「ああ、うるさい! 領主で当主の俺が決めたんだ。受け入れろ」
「なるほど。
では衛兵、引っ捕らえなさい」
「はっ!」
甲冑の音が響き、衛兵たちが一斉に動いた。
「なっ……!? おい、何を──!」
夫は目を剥き暴れるが、戦場帰りとは思えないほど簡単に押さえ込まれた。
「ちょ、ちょっと待って! 何で──!」
ターニャという女も悲鳴を上げるが、こちらもあっさり拘束される。
濃い栗色の巻き髪が乱れ、赤い口紅がひび割れた。
地下牢屋。
湿った石壁と鉄格子の匂いが鼻を刺す。
私は衛兵に案内され、牢の前に立った。
「どういうことだ?!
俺に、こんなことしてタダで済むと思うのか?」
夫は鉄格子にしがみつき、怒鳴り散らしている。
金髪は乱れ、戦場で焼けた肌が赤くなっていた。
「思ってるから、やってるんでしょう。
──はい」
私は、新しい法律書を差し出した。
夫は奪い取るようにしてページをめくり、次の瞬間、顔色を変えた。
「ドレイモンド子爵領地法1024条……妻は、いつでも夫と離婚できる……?
1025条……離婚理由が夫の不倫だった場合、夫と不倫相手は斬首っ?!
爵位を含む資産は、慰謝料として没収?!
なんだ、こりゃあ?! こんな横暴まかり通ってたまるか!」
私は淡々と答えた。
「通るのでしょうね。ここは子爵領ですから」
夫は理解していない。
伯爵以上の大領地なら議員がいて、法改正には会議が必要だ。
だが、子爵以下の小領地は貴族が少なく、領主が独断で決められる。
もちろん、税率を変えるなど領民に不利益が出れば王宮から注意が入る。
しかし──
夫の不倫を罰する法律は、領民に一切の不利益を与えない。
だから、私は戦時中に正式な領主代理権を使って法を改正した。
夫は鉄格子を握りしめ、震える声で叫んだ。
「ま、待て……本気で言ってるのか……?」
私は微笑んだ。
「本気に決まっているでしょう。
あなたが“第2夫人”など連れてきた瞬間から、こうなる未来しかなかったのよ」
牢屋の冷たい空気が、夫の絶望をより鮮明にした。
戦地でイチャついてるだけなら良かったけど、私の守った領地に寄生するのは許さない。
投獄1日目。
2人はただ膝を抱え、互いに背を向けて沈黙していた。
3日目には、狭い牢の中で罵り合いが始まる。
5日目には、夫が愛人を殺害。
その肉を貪った。
──と、衛兵から報告があった。
10日目には、夫は言葉を失う。
12日目には、衰弱が進み、まともに立つこともできなくなった。
14日目、湿った空気が肌にまとわりつく。
私は鉄格子の前に立ち、うずくまる夫を見下ろした。
「お加減は、如何かしら?」
「あーうーあーあー……」
言葉にならない声。
焦点の合わない目。
「もう良くならないのかしらね」
「うー……あー……」
私は衛兵に向き直った。
「では、逃げられないようアキレス腱を切って、使用人部屋に入れて生かして頂戴。
暴れたら縛っていいわ。
ついでにアソコも切り落としておいて」
衛兵たちは、義憤を持って頷いた。
半年後。
使用人部屋に向かう廊下を歩いていると、床を這う影が視界に入った。
「あら?」
見ると痩せ細ったカシアンが、こちらを見上げていた。
金髪はぼさぼさで、かつての威厳は欠片もない。
「お、お前……! お前ぇ……!」
「正気に戻ったの?
喋れるようになったのね」
「お前のせいで! 俺は……俺は……」
そこへ、ヘルマンが歩いてきた。
黒髪を整え、落ち着いた気品を纏った姿は、カシアンとは対照的だった。
「どうした?」
カシアンは2人の距離を見て、目を剥いた。
「な、なんだ、その距離は?!」
「彼は内縁の夫だけど」
「はっ、不倫じゃないか!
お前も死刑だ、ざまぁ見ろ!」
カシアンは狂ったように笑った。
私はため息をつき、法律書を開いた。
「前にも見せてあげたでしょう?」
「え?」
「『夫の不貞は』と書いてあるだけで、妻に関しては何も書いてないのよ」
夫の笑い声が止まった。
その顔に浮かんだのは、理解と絶望が混ざった表情だった。
すると今度はシャツを握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「そんな馬鹿な! そんな理不尽なことあるか?!」
私は首を、こてんと傾けた。
「そうかしら」
この国では、男尊女卑が“常識”として扱われている。
夫が離縁を望めば妻は従い、妻から離婚を言い出すことは許されない──
そんな“風潮”がある。
だが、それはあくまで風潮であって国法ではない。
だからこそ、私は領法を改正した。
法は概念を上回る。
「そもそも、あなたみたいに無能で屑なのに、男というだけで偉いなんて可笑しいじゃない?」
「何でだ?!
俺達が戦争で命をかけて戦ったお陰で、女達は生きてられるんだろう!
感謝しろ!」
「男が勝手に戦を起こして迷惑かけてくる癖に、何で偉そうなの?
ヒーイズル国には昔、卑弥呼という女王がいた。
それまでの男王達は戦を繰り返してばかりいたけど、彼女がトップに立ってからは平和になった。
この世に男がいなければ、戦争も起きないのよ。
生意気、言うのやめなさい」
夫は口を開いたまま固まった。
「っ! ……それは……」
「わかったら、さっさと書類を捌くことね。
何のために生かしたと思ってるの? 働きなさい」
補佐官が領地経営の書類を山のように運んでくる。
夫は歯ぎしりしながら、それを受け取った。
「っくそ!」
そのとき、小さな足音が響いた。
「ママー! この人、どうしたの?」
カシアンとそっくりの顔立ちをした幼子が、私のスカートをつまんで見上げてくる。
金髪に赤みが差し、瞳は青色。
夫よりずっと素直で、ずっと可愛い。
カシアンは息を呑んだ。
「──っ!」
「この人は悪いことしたせいで呪いを受けて、歩けなくなったの」
私が床を指差すと、息子が頷いた。
「ふうん、悪い人なんだね」
「そうよ。近寄っちゃダメ」
「うん」
我が子は、素直に頷いた。
「……俺は父親だ、お前の!」
夫が叫ぶと、子供はきょとんとした顔で言った。
「僕のパパは、この人だよ」
そう言って、ヘルマンに抱きついた。
ヘルマンは優しく、子供の頭を撫でる。
夫は、喉の奥で短く息を呑んだ。
「っ……」
私は軽く微笑み、スカートの裾を払って立ち上がる。
「さあ、用が済んだなら行きましょう」
家族を促す。
それから彼を振り返って告げた。
「あ、そうそう。
あなたも愛人をつくっていいわよ。
──じゃあね」
夫は、ただ呆然と私を見上げるだけだった。
彼に財産はない。
使用人は最低限の世話しかしないので、外出もできない。
──そして、去勢済み。
その状態で「愛人をつくっていい」と言われるのだから、もはや“侮蔑”でしかない。
私は2人と手を繋いで、廊下を歩き出す。
──ヘルマンと再婚すれば平民になってしまう。
だから私は選んだ。
子爵夫人として領地を守る道を。
彼は私の決断を尊重し、寄り添ってくれる。
カシアンとの子供は、いつか領主になるだろう。
窓の外では、春の風が庭の花々を揺らしていた。
その光景を眺めながら、私は小さく呟く。
「……これでいいのよ」
夫は自らの愚かさで破滅し、私は私の人生を取り戻した。
そして領地は、今日も平和だった。
□完結□




