【短編小説】ぶらり
居酒屋の喧騒が耳に入らないくらい夢中になって計画を始めた直後に
「百物語なんて現実的じゃないよ」
そう言って盛り上がりかけた会話に水を差したのは、隣のテーブルで独り飲みをしていたサラリーマンだった。
30半ばと言ったところだろうか。
赤い顔の目は疲れからか少し濁って見えた。
その濁り目は「すまんね、急に」と言いつつもグラスを持ったまま、見た目の割にしっかりした口調で
「持ち時間3分でも300分、雑談と休憩入れたらもっとかかる」
と言った。
濁り目のサラリーマンがテーブルに空いたジョッキには唐辛子が金魚のようにぶらぶらと泳いでいる。
まるで濁り目に同調するようだった。
俺たちは急に割って入ってきた酔客を見つめた。
どうしようか、店員を呼んで席を変えてもらうか……と言い出す瞬間に濁り目が再び口を開く。
「話し慣れた芸人だってそう上手くいかねぇ。実際にやった時は、半日近くかかって結局100話までやれなかったからな」
濁り目サラリーマンはそう言って笑うと、「そっちの話の腰を折って悪かった、ご馳走するから好きなものを注文してくれ」と自分のテーブルにあるタブレットを渡してきた。
警戒しながら差し出されたタブレットを受け取り、それでもありがたくドリンクやツマミを選んでいると、仲間内のひとりが濁り目に
「実際にやったって、百物語をやったんですか?」
と訊いた。
濁り目のサラリーマンは自分でそう言ったのを一瞬忘れたかのような顔をしてから、赤い金魚の泳ぐグラスを舐めて
「あぁ、大学生の頃だがな。君たちと同じ様に夏休みのイベントとして」と言って笑った。
赤い金魚がグラスの中で動いた。
濁り目のサラリーマンはその金魚を眺めながら静かに喋る。
安居酒屋の中で、彼の声だけがよく聞こえた。別に大きな声でも、通る声でもないのに不思議だった。
「本格的にやったよ。知人のツテでお寺の堂を借りてね。Webカメラなんかも数台用意して、円座を組んで蝋燭も用意して……。
でもまぁ、さっき言った様に誰も練習なんかしてこない。
それにネットで拾ってきた怪談なんてすぐ被る。グダグダのだくだくになって、明け方を待たずにみんなで眠っちまったよ」
サラリーマンはそう言って、刺し盛りのツマを箸で突いた。
俺たちはまるで無計画さを言われたような気がして黙り込んでしまったが、濁り目のサラリーマンは構わず続けた。
「君たち、怪談好きなのか。そうか。じゃあ、心霊スポットなんかを回ったりもするのかい?」
「いえ、そう言うのはあんまり」
それを聞いた濁り目のサラリーマンは、ジョッキに残っていたものを一気に飲み干すと
「そうか。この中で実際に見たことある人はいるかい?実はね、ぼくの家には出るんだよ。家と言ってもマンションだし、それに部屋の中じゃあないけどね」
そう言ってジョッキに残った金魚を指で摘むと口に放り込んだ。
いよいよ話が怪しくなってきた。
これは面倒な事になったぞ、どう切り上げるかとお互いの顔を見合わせていると、濁り目のサラリーマンは腕時計を見て
「いま……深夜を回らないくらいか。
うん。もう少しするとね、出るんだよ。窓の外にね。
ぼくの部屋は四階建マンションの最上階なんだけどね、その窓の外にいるんだ。
あれをいる、って言うのかな。ぶら下がってるから、あるって言った方が正しいのかね」
そう言って笑った。
笑った、と言っても濁った目は笑っていなかった。
「君たちに聞いてみたいんだが、幽霊だとかってのは、居るのかい?在るのかい?……まぁいいか。
そいつ、それ?まぁいいか。ぶら下がってるのは、元々ぼくの知人でね。
自殺したんだよ、ぼくのマンションで。
屋上から首を吊って、ぼくの部屋にある窓の外でぶら下がってたんだ。
アハハ」
真っ黒な口の中から今にも何かがこちらを覗きそうな迫力があった。
俺たちが動けずにいると、濁り目のサラリーマンは尚も続けた。
「いや、傑作なんだよ。
事件があったのは丁度、ぼくと当時付き合ってた彼女で旅行に行ってたタイミングでね……彼がぶら下がった時は部屋に誰もいなかったんだ。
本当は厭がらせのつもりで、ぼくの部屋の前にぶら下がったんだろうけど。
アハハ」
グラスの中の金魚が浮かんでぷかぷかと揺れた。
「それとも最期にぼくと彼女が抱き合ってるのを見たかったのかな?あいつ、僕の彼女のことを好きだったしね。
なんかまるで自分がぼくらの世話をしたみたいに言いふらしていたけど、彼がそんなことをする前から付き合っていたからね。
アハハ。惨めだよね。
それからさ。週末になると窓の外にぶら下がってるんだ、あいつ。
未練たらたら、って言うやつだな。カーテンしちまってるから殆ど見た事ないけどね、窓ガラスにぶつかってる音は聞こえるよ。
どうしろって言うんだろうね。
一度なんて窓を開けて訊いてみたが、もちろん何も答えないしね。
はぁ、参ったね。
帰ったらぶら下がってる頃だろうな」
濁り目のサラリーマンはそう言ってふらりと立ち上がって帰っていった。




