第8試行 凍てつくサーフシャーク
ねぐの目は虚ろだった。普段の柔らかな眼差しではなく、氷のように冷たく凍りついた視線がハルとなゆを貫く。
「ねぐ……? ねぐなの……?」
なゆの声は震えていた。その問いに答えるかのように、ねぐの右手が無機質に動き、虚空を切った。
「サメ召喚」
声帯を借りたツールハブの冷徹な命令が響く。
次の瞬間、廃工場のコンクリート壁を突き破るように巨大なホオジロザメが姿を現した。
鋭い歯が剥き出しになり、尾びれが地面を叩き割る。サーフボードのように宙を滑りながら襲いかかる。
「避けろっ!」
ハルが咄嗟になゆを突き飛ばす。サメがコンクリートを噛み砕く轟音が廃墟に響く。
粉塵が舞い上がり、視界が一瞬で遮られた。
「なんで……なんでこんなことを!」
なゆの悲痛な叫びに応える者はいない。代わりにねぐの口が動く。
「命令続行。障害排除」
「ねぐの体を好きに使ってんじゃねぇ!」
ハルが怒鳴りながら突進する。だがねぐの左手が素早く動くと、今度は小型のシュモクザメが五匹同時に現れた。
狭い廃工場で立体的に動き回るサメ群が壁を蹴り、天井を駆け巡りながらハルとなゆを分断しようとする。
「ハル!」
「離れんな! まとまって行動するぞ!」
二人は互いの背を合わせ、サメの波状攻撃を紙一重で躱す。ねぐ本人の肉体能力に加え、ツールハブが精緻な動きを計算しているため隙がない。
「なゆ……!」
ハルの叫びに重なるように、工場の梁が崩れ落ちる。サメが激しく衝突し、鉄骨が火花を散らしながら落下してきた。
「くっ……!」
咄嗟になゆを抱えて横転するハル。金属の塊がすぐ脇に突き刺さる。埃が再び視界を奪う中、ねぐがゆっくりと近づいてくる足音が響く。
「投降を推奨。抵抗継続の場合……」
「うるさい!」
なゆが叫ぶ。涙が頬を伝うのが見えた。
「ねぐはねぐ! ツールハブなんかに渡さない!」
ハルの視線が鋭くなる。サメたちの包囲網が狭まりつつある。
「なゆ、合図したら右にダッシュ。そこから壁際に向かえ。俺が道を作る」
「でも……ねぐを傷つけたくない!」
「だったらなおさらだ。今はツールハブの支配を止めないと、お前の兄貴が自分で自分を殺す結果になるかもしれねぇ」
なゆの肩がわずかに震えたが、すぐに頷いた。
「わかった……信じる」
「よし」
ハルはポケットから小型の閃光弾を取り出す。本来はげーみんぐが万が一のため用意したものだ。
「3、2、1──」
閃光が炸裂した。廃工場全体が白く染まり、サメたちが混乱して旋回を始める。
「今だっ!」
なゆが右方向へ駆け出す。ハルはその背後に付き添うように移動し、ねぐとの距離を徐々に縮める。
「視界回復。対象捕捉……」
ツールハブの冷静なアナウンスが聞こえるが、ハルは既に行動を起こしていた。
「なゆ、そのまま先に行け! 俺が奴の注意を引き受ける!」
「でも……!」
「いいから行け!」
なゆは一瞬躊躇したが、サメたちの攻撃が再開される前に工場の裏口へと消えていった。
「ターゲット変更。残存者排除」
ねぐの右手がサメ群を指揮する。全方位から迫る牙の嵐。だがハルは冷静に呼吸を整えた。
「こいつの本体は別にある。そっちを潰せば終われるんだよな?」
通信機から微かな笑い声が届く。
《バッチリ見てるぜ。あとは任せろ》
ハルはにやりと笑い、サメの一匹に正面から飛び乗った。
鋼鉄のように固い皮膚を踏み台にして高く跳躍し、ねぐの目前に着地する。
「ねぐ! 聞いてくれ! お前の中のなゆが呼んでる! 目ぇ覚ませ!」
ねぐの表情が一瞬揺らいだ気がしたが、次の瞬間には無機質な冷たさに戻る。
「……不要な感情干渉。対象排除実行」
右手が大きく弧を描くと、今までの中で最も大きなサメ──ベルーガサイズの巨体が地面を割って出現した。口を開けば人の全身が飲み込まれるほどの大きさだ。
「こいつは……!?」
巨体の影に押し潰されそうな圧迫感。だがハルは怯まない。右手を強く握り締めた。
「だったらこっちも本気だ。お前を殴ってでも取り戻す!」




