第12試行 束の間の日常、そして
「コーヒー飲む人〜?」
キッチンスペースからねぐの声が響く。昨晩までの緊迫感は嘘のように消え、拠点内には湯気が漂っていた。
「ブラックで」
ハルがソファから半身を起こし、伸びをする。
「ミルクと砂糖たっぷりで……」
なゆはまだ眠そうな目を擦っている。
「濃いめのがいいな」
モニターに向かいながらげーみんぐが答えた。
ねぐは慣れた手つきで豆を挽き、一人ひとりの好みに合わせたコーヒーを用意していく。棚から取り出したマグカップには、それぞれの好きなゲームキャラが描かれていた。
「そういえばさ、ねぐ」
なゆが一口飲んで尋ねる。
「あの『改行病』の特効薬、どうやって作ったの?」
「ああ……ツールハブのデータベースに偶然ヒットしたんだ。感染症を媒介するプログラムの特性を逆利用して……」
ねぐが説明を始めるが、げーみんぐが横から口を挟む。
「難しい話は後にしよう。今日はみんな休養日だ」
「でもツールハブがなくなってもSTの追跡は続くんでしょ?」
なゆの問いにハルが答える。
「一時的に混乱させる程度だ。完全に消えるわけじゃない。だからこそ……」
ハルの言葉が途切れたのは、窓の外に黒いバンが停まったからだ。車から降りてきた男は、STのロゴ入りジャケットを羽織っていた。
「やっぱり来たか……!」
ハルが拳を握り締める。
「落ち着け」
げーみんぐが冷静に指示する。
「昨日仕掛けた『トラップ』が作動するはずだ」
その言葉通り、男が動き出すと同時に道路に煙が立ち上った。自動展開式の攪乱剤だ。男は困惑した様子で後ずさり、バンはUターンして走り去っていった。
「いつの間に……」
「さっきハッキングで地下管路を弄った。煙は数時間続く」
げーみんぐが得意げに鼻を鳴らした。
「なゆちょっといいかな」
ねぐが妹を呼び寄せる。なゆはねぐの前に腰を下ろした。
「改行病の検査をしておきたいんだ。薬がちゃんと効いてるか確認したくて」
「うん、いいよ」
なゆが服の袖を捲ると、ねぐは小型の測定器を取り出した。淡い光が肌の上を這う。
「正常な数値だ。よかった」
「ありがとう、ねぐ」
「兄貴なんだから当然さ」
二人の間には穏やかな空気が流れていた。
「ツールハブ破壊の影響でSTの情報網に空白ができている」
げーみんぐがモニターに地図を映し出す。
「特に『原宿外苑』……ここにSTの支部とID保管施設があるが、システム障害で管理が不安定になっている」
「つまり好機ってことだな?」
ハルが身を乗り出す。
「その通り。でも同時に危険も多い」
げーみんぐは指先で地図上の一点を示した。
「この区域、最近『没収者』の集団が目撃されている」
「没収者……」
ねぐの表情が曇る。
「IDを完全抹消されたハッカーたちだ。社会から切り離された存在だが、逆に言えば縛るものがない。最新技術を独自に開発し、STに対抗する動きもあるらしい」
「でも危険じゃないの?」
なゆが不安そうに聞く。
「だからこそ接触の価値がある」
ハルが答えた。
「ST対抗の切り札になるかもしれない」
げーみんぐが静かに言った。
「今夜は決断しない。でも明日からは行動範囲を広げないといけない。原宿外苑……そこで新たな出会いが待っている」
沈黙の中、夕陽が拠点の窓を赤く染めていく。束の間の平和も終わりを迎えようとしていた。
夜風に吹かれながらハルとねぐが並んで立っていた。
「ねぐ」
「なに?」
「改行病って厄介だよな。文字化けなんて」
「まあね。でもおかげでこの薬が作れた」
ねぐが胸ポケットから小瓶を取り出す。
「僕たちはこの病気と共生しなきゃいけない。STとの戦いも同じだ」
「共生……か」
ハルが星空を見上げる。「確かに俺たちだけじゃ勝てない。げーみんぐも、なゆも、そしてまだ出会っていない仲間も必要だ」
「原宿外苑、か……」
「怖いか?」
「少しね。でも逃げてる場合じゃない」
ねぐが小瓶を握り締める。
夜空には満月が浮かんでいた。まるで次の冒険を照らすように。




