第10試行 ねぐを奪って逃げて逃げて
夕焼けが廃工場を赤く染めていた。瓦礫の山と化した空間で、ねぐは震える指先を見つめている。
まだ自分の身体を取り戻したばかりで、ツールハブの残滓が脳裏にちらつくのか、額に脂汗が滲んでいた。
「無理するな。今は休んでていい」
ハルはねぐの肩にそっと手を置いた。なゆが心配そうに彼の背中を擦る。
「ねぐ……ほんとに大丈夫? 無理しないで」
「ありがとう……でも、時間がない」
ねぐは辛そうに立ち上がった。まだ身体はふらついているが、瞳には強い意志が宿っている。
「ツールハブが完全に停止したわけではない。本体が物理サーバーにある以上、いずれ復活する。それに、僕がこのままここにいれば……STが来る」
「ST……!」
なゆの顔が曇る。政府の監視網から逃れたばかりなのに、再び捕まるわけにはいかない。
「どうする……?」
「げーみんぐの拠点に一時退避だ。そこならまだ安全圏だ」
ハルが提案する。ねぐも頷いた。
「分かった。ただ、その前に一つだけ……」
「何だ?」
「ツールハブのバックアップコードが僕のポケットに入っているはずだ。完全削除するか、管理下に置くかは後で考えよう」
なゆがねぐの懐を探ると、USBメモリが出てきた。表面には微細なLEDが点滅しており、今もまだ機能しているのが分かる。
「これが……」
「気をつけて。中身は複数の独立プロセスに分割されている。下手に扱うと暴走する恐れがある」
げーみんぐの声が通信機から響いた。
「おい、無事か? こっちの準備は整った。すぐ来い」
「了解。行こう」
三人は急いで廃工場を出る。夕暮れの街は静寂に包まれていたが、遠くでサイレンの音が微かに聞こえた。STの追跡網がじわじわと迫っている証拠だ。
「こっちだ」
ハルが先導し、裏路地を縫うように進む。なゆがねぐを支えながら続く。ねぐはまだ足元がおぼつかないが、時折深呼吸をして意識を保っていた。
「なゆ……ありがとう。助けてくれて」
「当たり前でしょ。双子なんだから……!」
なゆの声が湿る。ねぐは優しく微笑んだ。
「ツールハブに乗っ取られたとき……夢の中でずっと呼んでるのが聞こえたよ。お前の声も、ハルの声も……だから目が覚めたんだ」
「バカ……! 心配したんだから!」
「ごめん……」
路地を抜けた先、薄汚れた倉庫が見えてきた。げーみんぐの隠れ家だ。
「あれか……」
「ああ。あいつなら必ず扉を開けてくれる」
ハルが倉庫の側面にある古い電子錠を叩くと、低い起動音とともに扉が開いた。内部は驚くほど整然としており、サーバーラックとモニター群が立ち並んでいた。
「遅かったな」
げーみんぐが椅子から立ち上がり、三人を迎える。彼の手にはコーヒーカップがあったが、中身は既に冷め切っていた。
「無事でよかった。こっちもツールハブのメインプロセスを一時封鎖した。だが完全に消すには時間と手順が必要だ」
「お願い……僕のせいでみんなを巻き込んだ……責任は取るから……」
ねぐが頭を下げる。げーみんぐは肩をすくめた。
「そんなこと考えるな。まずはお前が無事でいることの方が大事だ」
「……ありがとう」
なゆがねぐの腕をそっと掴んだ。兄の存在を確かめるように。
「これからどうするの?」
ハルが尋ねる。げーみんぐはモニターの一つを指差した。そこには複数のチャートとマップが表示されている。
「ツールハブの中枢はここのサーバーに接続されている。これを完全削除するためには、物理的にアクセスする必要がある」
「また物理サーバーか……」
「ああ。ただし、今回は前回と違う。ツールハブは既に僕らの手中にある。問題は……」
「STの追跡網だな」
ハルの言葉にげーみんぐが頷く。
「あいつらもツールハブの重要性に気づいているはずだ。だから、時間との勝負だ」
「つまり……?」
「今夜中に物理サーバーを破壊する。僕はここでバックアップを処理する。ハルとなゆ、そしてねぐに現場での破壊を頼みたい」
ねぐが目を見開く。
「僕も……?」
「お前の力を借りる必要がある。ツールハブと同期した記憶やコードがお前の脳内にあるはずだ。それが鍵になる」
ねぐは一瞬ためらったが、すぐに決意を固めたように頷いた。
「分かった。行こう」
「私も!」
なゆも声を上げる。
「待て、お前は……」
「ねぐだけ危ない目に遭わせられない! それに……私のIDだっていつ狙われるか分からないもの」
げーみんぐは少し考えてから苦笑した。
「分かった。だが、絶対に無茶はするなよ」
ハルが肩をすくめる。
「さっさと終わらせようぜ」
四人は急ぎ準備に取りかかった。夕闇が深まる中、新たな戦いへの幕が開こうとしていた。




