ガチ恋を殲滅することになった日。その2
「ねえ、お兄ちゃん。Vtuberの配信って見たことある?」
唐突に紗由が身を乗り出した。さっきまでストローでグラスの底をつついていた手が止まり、今度はその指先がソファの背もたれの布をつまむ。細い指が布地を少しくしゃりとさせる。視線だけが、じっとこちらに向けられている。
「熱心には見てないけど、何人か知ってるな。二次元のキャラのガワで喋ってる配信だろ?」
「そう、それそれ」
紗由は、ぱちん、と小さく指を鳴らした。
その仕草に合わせるように、消音に近い音量で流れていたテレビの画面がぱらぱらと明滅する。映っているのは、どこかのバラエティ番組らしい。派手なテロップと芸人の大げさなリアクションが映っているのが見えるのに、内容はまるで頭に入ってこなかった。
「私ね、そのVtuberとして配信してるの」
さらりとした口調だった。
事務所に入って配信をしている、と先ほど聞かされたときから、うすうすそうではないかと思ってはいた。だが、あらためて本人の口から「Vtuber」と明言されると、やっぱりか、と納得してしまう。
紗由はコースターの縁を指先でなぞりながら、少し逡巡するように視線を落とす。
テーブルの上には、水滴をまとったグラスと、裏返したままの俺のスマホ、それから食べ終えたスナック菓子の袋が、くしゃりと折りたたまれて置かれている。
「でね、お兄ちゃんにも、Vtuberになってもらいたいの」
「は?」
思わず間の抜けた声が出る。
冗談にしては、彼女の目があまりにも真剣だった。口元だけがわずかに笑っているが、そこに「嘘だよ」と種明かしする気配はない。
「個人勢とかじゃなくてね。コラボとか話題に出しても自然なように、私と同じ事務所からデビューしてほしいの」
「事務所?」
「ちなみに私の所属している事務所はダイバーシアね」
付け足すように、所属事務所の名前を口にする。
さらりと言ってのけたが、そのハードルは決して低くないはずだ。ふつうの大学生だかフリーターだかをやっているだけの兄を、事務所所属のVtuberとしてデビューさせよう、というのだから。しかも、そのダイバーシアというのは、Vtuberにそれほど詳しくない俺でも聞き覚えのある、大手の一角を成すタレント事務所だ。
そんな場所に、自分が――?
現実感の欠けた問いが、胸の中でふわふわと浮かぶ。
けれど紗由は、自分の中で何度もシミュレーションし、脳内会議で可決されたプランを読み上げるみたいに、淀みなく言葉をつなげていく。
「私がやりたいことはね――」
そこで一度言葉を切ると、紗由はグラスの側面についた水滴を指でなぞった。
冷たさを確かめるように、一周、二周とゆっくりなぞってから、ふっと息をつく。
一拍置いてから、彼女は自分が描いていた「ガチ恋殲滅プラン」を語りだす。
「『じつは私は既婚者なので、ガチ恋しても報われないですよ~』みたいな感じの空気を作りたいわけ」
「既婚者?」
思わず復唱すると、紗由は「そう」と短く頷いた。
「でも、本当に結婚したり、ロールプレイでも同じ事務所の他人を巻き込んだりするのはしたくない。無理。できないね」
そこまで言ってから、ストローの先を軽く指で曲げて、また戻す。つぶれた先端が、またグラスの内側をこすって小さな音を立てる。
「けど、お兄ちゃんなら身内だし、変なトラブルにもなりにくいかなって」
そこで一度、言葉を選ぶように口を閉じる。
少ししてから、冗談めかした調子をほんの少しだけ足して続けた。
「昔は、ままごと、いっぱいしたでしょ? その延長みたいなごっこ遊び」
こちらの表情をうかがうように、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
いつの記憶だったか――おそらく、俺がこの家にやってきたばかりの頃だ。見知らぬ家族に囲まれて、人見知りを発揮し、なにごとにも遠慮がちだった俺の腕を、紗由は半ば強引に引っ張っていった。「お婿さん役やって」と言われ、手をつかまれた感触が不意によみがえる。
「お兄ちゃんなら、迷惑かかっても付き合ってくれるかなって。……だめかな?」
最後の一文だけ、声のトーンが少しだけ下がる。
頼みごとをするとき特有の、ほんのり甘えるような柔らかさが混じる。
けれど、今聞かされている内容は、そんな可愛げのある一言でごまかせるものではなかった。
「いやー、それはちょっとどうなんだ」
思わず、額に手を当ててしまう。
「つまりあれだろ。俺と紗由で夫婦っぽいロールプレイをして、配信上で『もう結婚してます』ってことにしておく。そうすることで、これ以上ガチ恋が増えないようにしつつ、今いるガチ恋勢にも『この人はもう手が届かない、無理だな』って諦めてもらおうって……そういう作戦、ってことだよな?」
言葉にして並べてみると、先ほどよりいっそう、突拍子もなさが際立つ。
それに、画面の向こうの視聴者たちに向かって、妹と“夫婦ごっこ”を演じ続ける自分の姿を想像してみて、背中のあたりがむず痒くなった。
「そんなにうまくいくのか? お前の人気も、今よりずっと落ちるんじゃないか? ていうか、その前に、俺がその事務所に受かって、Vtuberなんて本当にやれるのか?」
紗由は、いったん口をつぐんだ。
さっきまで軽く笑っていた口元から、ゆっくりと表情が抜けていく。そのままテーブルの上のグラスに視線を落とし、氷の欠片をストローでそっとつついた。もうほとんど溶けてしまっているので、カランという音さえ鳴らない。
「人気は……まあ、落ちるかもね」
ぽつりとこぼれた声は、意外なほどあっさりしていた。
「実際、ガチ恋勢って数字にはなるし。スパチャも投げてくれるし。そういう意味では、私の配信にとっては“おいしい”存在なんだと思う」
ストローの先で、グラスの底に沈んだ小さな氷を追いかける。
ときどき、薄くなったジュースが揺れて、氷の角が光を拾った。
「でもさ、最近、配信のスケジュール決めるときとか、サムネ作るときとか、『こういう配信したら、またあの人たちに期待させちゃうかな』って、一瞬考えちゃうんだよね。なんかもう、それがすごく、嫌なの」
「嫌、ね」
俺が繰り返すと、紗由は小さく頷いた。
「私、Vtuberの“月宵空”でいるときは、ちゃんと楽しく配信したいの。応援に一生懸命になって、文字で愛を囁かれるよりは、画面の向こうで笑ってくれたり、ちょっと疲れたときに見てくれたりするくらいの距離感でさ」
そこでようやく顔を上げる。
蛍光灯の白い光を受けて、瞳だけが少し湿っているように見えた。
「だから、人気が落ちるとしても、少し安心して喋れるようになるなら、それはそれでアリかなって思ってる。……数字なんかより、私が楽しくやれなきゃ意味ないし」
言い切ると、紗由は自分で言ったことに照れくさくなったのか、視線をそらし、座っているソファの背もたれの端を指でつまんだ。
「ま、そこまで真面目なこと考えてるっていうより、“言い訳作り”したいのかもだけどね。私のこと本気で異性として好きな人に、『パートナーがいるから無理でーす』って、冗談まじりに言えるカードが一枚ほしい、みたいな」
冗談めかして笑う声は、さっきより少し力が抜けていた。
「……にしても、相手役が兄ってのは、だいぶ攻めてるカードだと思うけどな」
「そこは、ほら。私たち血はつながってないし」
紗由は片方の口角だけを上げる。
「あとさ、お兄ちゃん、さっき自分で言ってたじゃん。『俺がその事務所に受かって、Vtuberなんてやれるのか?』って。逆に言えば、受かったらやる気はゼロってわけじゃないんでしょ?」
「いや、そうは言ってない」
「完全拒否なら、『絶対やらない』って即答してるはずだもん」
ぐうの音も出ないところを、正確に突かれた気がした。
否定しようと口を開きかけるが、言葉がうまく見つからない。
「それにね」
紗由は、さっきよりも少し柔らかい表情になって言葉を継いだ。
「お兄ちゃん、歌ってるときの声、マジでいいから。カラオケでしか聞いたことないけどさ。あれ、配信でちゃんと聞かせたら、絶対ハマる人いるよ。トークだって、私からしたら普通におもしろいし」
「それは、身内補正ってやつだろ」
「身内補正込みで、ちゃんと評価してるんだよ」
紗由はそう言って、今度は真正面から俺を見る。
からかい半分でもありながら、どこか真剣な色が混ざり合った眼差しだった。
「私さ、“月宵空”としてデビューしたとき、お兄ちゃんにも私のファンになって、配信見てほしいなって、思ってたんだよ」
「……そうなのか?」
「うん。でも、なんか言い出せなくてさ。『Vtuberやってる』って急に言うのも気恥ずかしいし、もし変なこと始めたって思われたらどうしようって、ちょっと怖かったし」
ストローの先で、グラスの底を軽く突く。
こんどは、ほんの少しだけ「コツ」と音がした。
「それで言えないまましばらくたってさ。そのうち私にガチ恋しちゃう人が増えちゃって、ガチ恋の人たちに毎日のように『結婚してください』とか言われるたびに、嬉しさとともに、ふと思っちゃったんだよね。――あれ、この人たちは、私の何を知っているんだろうって。上辺だけみて恋されても、苦しいなって」
そこで一度息を吸い込んで、吐く。
胸の奥に溜め込んでいた空気を、少しだけ外に出すような呼吸だった。
「だから、心機一転、お兄ちゃんに頼ってみようかなって思った。頼り方がめちゃくちゃなことはわかってるけど」
しばし沈黙が落ちる。
テレビの中で誰かが笑い、観客の笑い声が薄く響く。その音だけが、妙に遠く感じられた。
「……親には、なんて言うつもりなんだよ」
俺は、ようやく口にできた言葉を絞り出すように言った。
「俺がお前と同じ事務所のオーディション受けます、なんて話をしたら、母さんひっくり返るぞ」
「そこは、私が口添えするよ」
即答だった。
「お母さんには悩みも含めてだいたい話してるし、『お兄ちゃんも歌うの好きだし、向いてると思うんだよね~』ってさりげなく言っといた。お父さんは……まあ、事後報告でいいかなって」
「おい」
思わずツッコミを入れると、紗由は「冗談冗談」と言いながら、小さく笑った。
「とりあえずさ」
と、彼女はスマホを取り出し、画面をぱっと点ける。
ホーム画面から、迷いなくいくつかのアプリをタップしていく指先。そこに映し出されたのは、見覚えのない、しかしどこか紗由の雰囲気を残した二次元の女の子の顔――おそらく、「月宵空」の姿なのだろう。
「今度、私のアーカイブ一緒に見よ? そのほうがイメージ湧くでしょ。どういう雰囲気で喋ってて、どんなリスナーがいて、どれくらい大変そうかとかさ」
画面をこちらに差し出しながら、紗由は言う。
「それ見てからでも、断るのは遅くないよ。オーディション受けるかどうかも、そのあとで決めていいから」
差し出されたスマホの画面に、「月宵空」という名前と、数字の並んだチャンネル情報が小さく表示されている。
再生ボタンの上に人差し指を添えかけて、
「……とりあえず、どんな活動しているか見るだけな」
「………うん、それでいい」
紗由は嬉しそうに目を細めた。
それから、少しだけいたずらっぽい声音を加えて付け足す。
「見るだけ見て、ハマっちゃったら、知らないからね」
画面の向こうに広がる、妹のもうひとつの世界。その入口に指をかけながら、俺は、自分の中に芽生えつつある小さな期待感が、ゆっくりと広がり始めるのを感じていた。




