第1話 クッキーにキビしい杜若さん
放課後、高校の閑静な図書室。
テーブルを挟んで座り、僕はいつものように彼女と向かい合っていた。
「砂糖と塩を間違えるのって、家庭環境に問題があると思うの」
開いた文庫本に目を落としつつ、淡々とした口調で語りかけてくる。
「とても過激な意見だね」
「明らかに似ているじゃない。間違えないようラベルを貼ったり、容器を変えたり、きび砂糖やピンクソルトで、視覚的差別化をはかればいいのよ。ずいぶんと手を抜いた家庭なのね」
フンと鼻を鳴らし、彼女は持論を述べた。
「でもほら、慌てて取り違えたりしない?」
「焦ってても見分けられる工夫を怠るからよ」
「うーん。つい分量を勘違いしちゃうパターンは、家庭と関係ないよね?」
「普段から味の加減を教えておくべきね」
「でも、それだと——不器用な手づくりクッキーのハプニングは起こらなくなる」
「だからそういうお約束、もう見飽きたのよ。どうせマズくても食べてくれるんだから」
過信しないで味見しなさいよ、と誰に向けたでもなくそっけない。
苦手な料理に挑戦する愛情と、それに応える健気さが垣間見えてステキだと、僕は思うのに。
相変わらず、お約束にきびしい杜若さん。
艶やかな長い黒髪。凛とした切長の目に、すっと伸びた鼻筋。ぷっくり形のいい唇。
均整のとれた面立ちは、黄金比で精巧に彫られた女神像のよう。
上級生も下級生も、学校中のだれもが振り返って見惚れる美貌の彼女は、
「ねえ、いま、舐めまわすようにわたしを見てたでしょ?」
「えっ」
「じろじろジロジロと。穴があくほど人の顔を見つめて、入念にスキャンして記憶メモリに永久保存する気?」
「ごめん、そんなつもりじゃ」
「しかも奥ゆかしいバストにまで言及して」
「そこまではまだ……」
先回りされたけど、たしかに控えめな部分ではある。
杜若さんはまるで心の声を読んだように、
「どうせ貧相な表現でも並べて脳内ナレーションを流してたんでしょう? 図書室には数多の小説があるのだから、ちゃんと勉強して。やり直してね」
「……ハイ」
言われて渋々、書棚から文豪の遺した純文学を漁る。
現代向きじゃない表現の取捨選択に戸惑いながら、なんとか学習を終えて、ふたたび彼女の前に腰を下ろした。
あらためて、その端正な顔をじっくりと眺めたところで。
「誇張して口に出して」
「ええっ、声にして出すの?」
「エスパーじゃないんだから当然でしょ。脳内で勝手に脚色されたら嫌だもの」
「誇張する理由は?」
「女の子は大袈裟に褒めてあげないと」
「褒めるの前提なんだ……」
まあ、褒め言葉しか浮かばないんだけど。
それじゃあ、仕切り直して。
「えー、アテナイの女神を彷彿とさせる——」
「ストップ」
「な、なに」
「見たことあるの? その女神」
いきなり重箱の隅をつつかれる。
「ないけど……」
「比較対象が誇張にも程があるのよ。もういいから、あなたの平凡な語彙で率直に語って」
「えっ、今までのくだりは?」
「ただの暇つぶしよ」
僕が文学と真剣に向き合った三十分を返してほしい。
でも彼女のオーダーは絶対なので。
「杜若さんのさらさらとした黒髪は、つい撫でたくなるくらい綺麗でなめらか。見かける度に手を合わせて拝みたくなるほど美しいし、実際僕は、杜若さんが生まれてきた奇跡を毎日神さまに感謝してる」
「……つづき」
文庫本で顔を隠した杜若さんがうながす。
「美人でありながら、可愛くもある。というか超可愛い。比類するアイドルが思い当たらないくらい。透明感のある白い肌が、すごく清楚で儚くて、割れ物みたいで大事に護りたくなる」
「……も、もっと」
「胸は、たしかにあまり」
「もういいわ」
杜若さんはスンと普段の澄まし顔で制した。
「そもそも黒焦げのクッキーを駄目元で持ってくるのも甘えだと思うの」
「その話、まだ続くんだ……」
僕たちの放課後もまだまだ続く。




