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 10月30日、秋の風が少し冷たくなり、街はまるで明日から始まるハロウィンのイベントを楽しみにしているかのように、あちこちでカラフルな飾りが施されていた。


 どこもかしこもお祭り気分で、道を行き交う人々の笑顔が、明るい空気を作り出している。


 街角のカフェでは、思わずカップを温めたくなるような冷たい風の中、親子連れや友人同士が集まり、賑やかにおしゃべりしているのが見えた。


 私は事務所のオフィスの窓からその光景を眺めていた。

 手に持ったコーヒーを、ゆっくりと一口飲みながら、外の世界が一歩ずつハロウィンムードに染まっていくのをぼんやりと見ていた。


 窓の外では、まるで明日が待ちきれないといった感じで、どこか浮き立った雰囲気が広がっている。


 その反面、私がいる事務所のオフィスは静まり返っていて、普段と変わらぬ空気が漂っている。

 誰もが急ぎ足で仕事をこなしているわけでもなく、ただただ時間が流れていく音が聞こえるような空間だった。


 時計の針が7時を指し示すと、私は再び仕事のデスクに戻った。

 昨日のライブが終わった後、軽い打ち上げを経て、疲れを少しだけ癒してから、こうして今日もここに座っている。


 とにかく、次にやるべきことをやらなければならなかった。


 ラストライブの書類を整理しながら、私はしばらく思いにふけっていた。


 坂木杏奈――ANNNAのラストライブから、一夜明けた今、こうしていると実感が湧いてこない自分がいる。


 10年間、彼女のマネージャーとしてずっと側にいた私が、いなくなるのだ。


 引退後の今、やっとその事実を受け入れなくてはならないという現実に直面していた。


 でも、私はどこか不思議な気持ちを抱えていた。


 彼女の引退を見届けたこと、そしてその後の自分がどうなるのか、まだはっきりと見えていない自分がいた。


 もう、ANNNAとスケジュールを調整することもなければ、メディアからのオファーが届くこともない。


 そのことが心のどこかでずっと引っかかっていた。

 無意識に、メールボックスをチェックしてしまう自分がいるのだ。


 振り返ると、デスクの端に昨日彼女が置きっぱなしにした事務所のスタッフパスが目に入った。


 無造作に投げ置かれたそれを見て、私は小さく息を吐いた。

 ああ、懐かしいなと思うと同時に、少しだけ胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「ANNNA」――デビュー当時の彼女は、今とは比べ物にならないほど、あどけない顔をしていた。


 事務所にスタッフパスを作る必要があることを初めて聞いたとき、私は「顔パスで行けるんじゃない?」なんて冗談を言ったことを思い出す。


 その頃の私たちは、みんな若かった。


 10年前、私は24歳で、ただ目の前の仕事に一生懸命だった。


 それから10年後、彼女はトップアイドルとして、見事に引退を迎えた。


 スタッフパスを指先でなぞりながら、ふと考える。


 もしもあのとき、あの瞬間に私たちが何かを少しでも変えていたら、今の姿は全く違っていたのだろうか。

 そんなことを考えても仕方ないけれど、それでも浮かんでくる疑問だった。


「何?」


 携帯が震えると、画面には「坂木杏奈」の名前が表示されていた。


『おはよう、霧子。今どこ?』というメッセージに、私はしばらく見つめた後、やり取りを始める。


「事務所。書類整理」


『そっか。……ねぇ、私、もう引退したんだよね?』


「当たり前でしょ。昨日あれだけ盛大にやったんだから」


 電話越しに彼女がクスクスと笑う音が聞こえた。『ふふ、なんか実感ないんだよね。霧子もそうでしょ?』


「まぁ、いつもバタバタしてるのが終わっただけ。でも、少し寂しいかな」


『そっか。でもさ、今ちょっとだけ寂しいな』


「……芸能界に戻りたいっていっても、簡単に戻れないわよ」


『うん、分かってる。なんか10年間ずっと隣にいた霧子が、そっけなくしてるのもなんか変な感じ』


「……」


 デスクの上のスタッフパスを指で弾きながら、私はわずかにため息をつく。


「とりあえず、ゆっくり休みなさい。……それくらいの時間、許されるでしょ」


『ふふっ、ありがと。霧子は、やっぱり優しいね』


「まぁ、大人だから……大人として対応してるだけ」


 電話が切れると、私は椅子に深く座り、しばらくそのままでいた。


 杏奈がいない日常がこんなにも不思議な気がするのは、もちろん寂しいからだ。


 でも、それを素直に認めることもできず、ただ静かな部屋で、また新しい一歩を踏み出さなければならないことを感じていた。


「さて……こっちも、次の仕事に取りかかるか」


 私は再びパソコンのモニターに視線を戻し、作業を再開させる。

 仕事は待ってくれない。


 どんなに気持ちが整理できていなくても、次の仕事に取り掛からなければならない。


 そう自分に言い聞かせながら。


____


 昼過ぎ、私は給湯室に向かっていた。


 その途中で、オフィスのドアが開き、そこに現れたのは予想通り杏奈だった。


「霧子、お疲れ」と明るく声をかけられ、思わず振り返ると、杏奈は笑顔で立っていた。


「……何してるの」


「顔出しにきた。別にいいでしょ?」


 杏奈は堂々とソファに腰を下ろし、私のデスクの上に転がっていたボールペンを手に取り、くるくる回している。


「引退したんだから、そんな暇じゃないでしょ。っていうか、スタッフパスもないのに、どうやって来たの」


「暇じゃないよ。でも、霧子の顔が見たくなったから。まぁ、スタッフパスは、警備員の人に顔を見せれば、ANNNAさんですね! って言われて、中に入れた。顔パスってやつ」


 私は呆れた顔をしてコーヒーを注ぎながら、カップを2つ用意する。


「はい、どうぞ」


「わぁ、ありがと」


 杏奈がカップを受け取る。ふと見ると、彼女の指先がほんの少し震えていた。



「……手、冷たいわね」


「うん、さっきまで外にいたから」


「まったく……」


 私はため息をつきながら、自分のカップを杏奈の手元に寄せる。


 彼女がコーヒーを持つ手を温められるように。


 杏奈が不意に私を見上げる。その目にはどこか懐かしさが浮かんでいた。


「霧子?」


「冷たい手でボールペン回してると落とすわよ」


 杏奈は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにクスクスと笑い声が漏れた。


「霧子ってさ、本当に意外と優しいよね」


「……一言余計」


 私は口をとがらせて軽く答えるが、その顔にはどこか緩みが隠せなかった。


 実際、彼女が目の前にいるだけで、胸の中の何かが温かくなるような、そんな感覚が広がっていた。


 今は引退した彼女がここにいることで、少しほっとした気持ちもあったのだ。


 杏奈は再びカップを両手で包み込みながら、少しだけ目を伏せる。


 その様子に、私は無意識に彼女の変化を感じ取っていた。


 引退後の生活がどんなものになるのか、彼女自身もまだよく分かっていないのだろう。


 今まで10年間、表舞台で輝いていた彼女が、急にそのスポットライトから外れ、何をしていいのか分からなくなるのも無理はない。


「霧子はさ、これからどうするの? 次は、他の子のマネージャーやるの?」


 私は少しだけ手を止め、杏奈を一瞥する。彼女の問いには、少しだけ考える時間が必要だった。


「……まだ決めてない。とりあえず、この書類関係全て終わったら、少しだけ休むかも」


「ふーん」


 杏奈は少しだけ視線を落とし、カップを両手で包み込んだまま黙っていた。


 彼女の表情はどこか寂しげで、でもどこかで何かを考えているようにも見えた。


 私たちの関係が変わったわけではないけれど、やっぱり彼女が引退したことが、私にも少なからず影響を与えているのは否定できなかった。


「霧子はさ、ずっと私のマネージャーだったじゃん」


「そうね」


「他の子のマネージャーになるの……なんか、変な感じ」


「何よ、今さら」


 私は少し苦笑しながら、画面に表示されたデータを保存した。


 書類を片付けてしまえば、少し休みを取って、また次のステップを踏むだけだ。


 けれど、杏奈の言葉にはどうしても心が揺さぶられた。

 

 彼女が引退してしまったことで、私たちの10年が一度終わりを迎えたと感じると同時に、新しいスタートを切る必要があることを実感していた。


「杏奈は引退したんだから、私が誰のマネージャーになろうと関係ないでしょ」


「……まあ、そうなんだけどさ」


 杏奈は少し拗ねたように唇を尖らせる。


 私の目の前で、いつも通りの表情を浮かべながら。

 

 それでも、彼女のその仕草を見ていると、何だか懐かしい気持ちになった。


 彼女は時折子供みたいに素直で、でもどこか強がりで、そんな一面が愛おしい。


「しばらくはゆっくり考えるわ。どのみち、急ぐ必要はないし」


「そっか」


 杏奈は小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。


 私たちの時間は、確かに一区切りついた。


 でも、こうしてまた顔を合わせている。それが、なんとなく不思議で、でも悪くないと思った。


「ねぇ、霧子はさ、もうマネージャーじゃないけど、これから先も私のこと応援してくれる?」


 杏奈がコーヒーを飲みながら、少しだけ顔を上げて私を見つめる。


 その目には、どこか不安と期待が入り混じっていた。


 引退後、彼女にとって私がどういう存在であり続けるのか、そんなことが気になっているのだろう。


「え? あ、うん。流石に犯罪犯したら守ることできないけど、でも……まぁ、相談くらいなら乗ってあげる」


 私は少し意地悪く言うと、杏奈は「霧子も一言多い!」といつものペースで言ってきた。


「じゃあ、またね。霧子」と杏奈は笑いながら、カバンを手に取り、コーヒーを飲み終えたカップを私のデスクの上に置いた。


「ちょっと、カップくらい片付けなさいよ」


「えー、もー、マネージャー……じゃないけど、でも、昨日までマネージャーだったんだから、これくらい許して」


 出た。杏奈の意味わからない返し。


 私はため息をつきながらも、どこか嬉しそうな顔をして彼女の言葉を聞いていた。


「はぁ、仕方ないな」


 杏奈は嬉しそうな表情をしながら扉を開ける。その顔を見て、私はしばらくその場でじっとしていた。


「あ、そうだ霧子。あのさ、これ、昨日も言ったことなんだけど……今まで本当にありがとね。霧子が、唯一甘えられる大人だった。まぁ、私ももう大人なんだけどさ、でも、霧子といるときは……私は精神年齢17歳のままでいれた。血のつながってない姉だと思ってる」


 その言葉に私は少し驚いたような気持ちと、温かい気持ちが入り混じった。


 こうして、杏奈が今、素直に感謝の気持ちを伝えてくれるなんて。


 もちろん、私も杏奈にとっては一番近くで支え続けてきた人間だったからこそ、こんな言葉が出てきたのだろう。


「何よ、今さら」


「別に。ただ、伝えたかっただけ」


 杏奈は少し照れくさそうに笑いながら、軽く手を振る。


「じゃあね、霧子。またね」


「……ええ。また」


 扉が静かに閉まると、オフィスに再び静寂が戻った。


 私は少しの間、デスクの上のカップを見つめ、それを手に取った。


 彼女が置いていったカップを洗うために立ち上がりながら、心の中で思う。


「ったく……最後まで好き勝手言って」


 そう呟きながら、私は洗い物を始める。


 その時、突然、ふっと心の中で感じた。


 杏奈がいなくても、私はここでやり続けるべきことがあるんだと。


 私たちの10年が終わっても、ここで私がやるべきことは続いていく。


 それが寂しいのか、それとも新しいスタートとして受け入れるべきなのか、まだよく分からなかったけれど。


 この事務所の空気は変わった。でも、それが寂しいかどうかは、まだ分からない。


 杏奈がデビューしてから10年。

 この事務所が設立されてから10年。

 私が仕事を始めてから10年。


 最初は、10席も無かったデスクも、今では倍以上増えた。


 少しホコリ臭かったオフィスも、今では新築の木の香りがする新しいオフィスになった。


 ANNNAに憧れたという多くの少女たちがオーディションを受けてくれるようになった。


「いつの日か、ANNNAに憧れました! って言って、この事務所のオーディションを受ける子が増えて、その子たちがデビューして有名になって、今度はその子のファンの子が、憧れてオーディションを受けました! ってここに来て、そうやってずっと発展していけばいいよね」


 杏奈と一緒にそんな未来の話をしていたことを、私は今も覚えている。


 私はパソコンに向き直り、新たなメールを開いた。


『新事務所開発プロジェクト概要』


 その内容に目を通しながら、私は心の中で呟いた。


「杏奈、もしも辛いことがあったり、聞いて欲しい話があれば、いつでもここにおいで。私は、きっとここで作業していると思うけど、話くらいなら聞いてあげる。アンタなら、スタッフパスなくても顔パスでいけるでしょ?  あぁ、他のスタッフに知られたら怒られるかもしれないから、こうやって今日みたいに、少しの間だけね」


 私は小さく微笑みながら、次の一歩を踏み出した。


 新しい日常は、ここから始まるのだから。



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