ネクロマンス
いつからのことだったか。
僕の頭には、やるべき事が浮かぶ。
ぴこん、と掲示されたように。
やるべきだ、と啓示のように。
目の前の賊を懲らしめろ、彼の落とし物を探せ、相手を倒せ。手を差し伸べてそうしろ、とか、そういったものは僕の中にある正義感だとか直感だとか。そういうものに根差したものなんだと思う。
僕自身それを誇りに思っているしその指針に従う事は僕にとっては当たり前のことだった。
それが、見えない。
最近は、どうしよう、と迷い続けている。
迷いはそのまま啓示とする思考も妨げている。
それでも、幸いと言うべきかやる事はたくさんあった。そんなものが無くても自分を支えられるくらいには、僕も成長出来ていた。そして何より、僕には仲間がいてくれた。優しく声をかけてくる人たち。横にいて、戦いも心も支えてくれる、少女も。
仲間にいて欲しかった一人だけは、もういないけど。
…
……見えなくなった、時期。きっかけ。
何かはとうにわかっている。
つまり結局、あの時の雨の日だ。
そうして以降、どれくらい経ったか。
勇者としては戦いを全うしていた。
役目を果たせるだけ果たしていれた。
むしろそうした方がその脳の曇りを忘れられた。
ある行き着いた小さい町の、新聞に挟まった手配書。緊急の依頼書が僕の目を惹いた。棺桶を引く、街を一つ滅ぼした、最悪の死操術士。いつから暗躍していたのか?魔王の手下なのか?それもわからない、突如、闇から現れたような存在。
僕の脳内の啓示はまだ動かない。しかし、市民に手を出す、非道の術士。そうでなくとも、時間をおけばおくほど戦力を増していくだろう。それを倒しにいかないといけない。
(……)
僕は、誰にも告げずにその町を出ようとして…
「むん」
ぐいと首根っこを無理矢理掴まれ、引き寄せられた。
「ノア、起きていたのか」
「一人で行くつもりだったでしょう」
「少し周りの偵察に行こうとしただけ…
わかったわかった!嘘は通じないな。
…すまない。その通りだった」
そう認めるとノアは引き絞っていた握り拳をそっと下ろして、その手を代わりに平手にし、僕の頬を軽く叩いた。
「…行く時は、ずっと一緒。約束した」
君と僕もが死にかけて、僕の手の内でどんどんと体温が失われた、あの日のこと。その後、僕はそれでも君を信じきれなくて、一人で先に行こうとした。僕らはあの時に約束したんだ。
僕らはずっと一緒に戦おうと。
相棒として、横にいなければ、許さないと。
ノアが泣き腫らして、私が人間じゃないから、と激しく絶望した瞬間を今でも覚えている。忘れるはずがない。
僕の傲慢を、正してくれた日を。
だからこうして一人で行くことに、重い罪悪感を抱かなかったわけではない。それでも。
「すまない。僕一人で、行かせてくれないか」
「どうして」
「終わらせてくるんだ」
「何を」
「僕の、はつこいを」
「…」
「笑うかい?」
「笑わない」
ぐいっ。首根っこを、まだ掴まれたままだった。
そのままぶら下げた勢いのまま、彼女はじっとこっちの眼を見据えたままで、唇を尖らせた。
キス。僕の初めては前歯が当たって唇からの血の味のするキスだった。
じゅ、ちゅ、むぐ。
抵抗も忘れてそんな音を他人事のように聞いてから、鼻で息をすることだけは忘れてないおかげで、命は助かった。
首根っこから、手を離される。
ようやく、僕は自由を手にした。
「ぷはぁっ!……な、なんで」
「なんでも何もないよ。
わからないなら…もう一回やる」
「待った!待ってくれ!
分かった、君の気持ちは、その!」
「私はシエルが好きだから。
貴方から片時も離れたくない。だから勝手に行かないで。その手配書の敵を倒しにいくなら私だって行く。それだけ」
「……わかった。
それなら、頼む。ノア、いつも通り僕と共にいてくれ」
「任せて」
にこり、と笑うその顔。
それを見て、なんだか僕はほっとしたようだった。
そうだ。好きと思ってる人に無理矢理離される気持ちというのは、分かったつもりでいる。そんな気持ちをノアにも抱かせたくは絶対に無いから。きっとそれで良かったんだろう。
…
……
「………ああ……」
扉を開ける前から、どうなっているか分かっていた。
しかし目の前に飛び込んでくる光景は、理解があった上で、脳を揺らしてくる情報の激流だった。
『宵の明星亭』。
長く、長く冒険家たち、そして僕ら勇者の拠点として愛顧されていた素晴らしい場所。皆が入り浸り、その黄金に輝く星のような蝋燭の光がいつまでも酒水面を照らして活気にしていた。
蝋燭が。
一つの例外もなく血に塗れている。
掲示板が。
逃げて縋りついた人の指でずたずたになっている。
その卓が。
今はもう人々が誰も座っていない。
その床に、人が寝転ぶことはよくあること。
しかしいつもと違う事は、今その横たわる人々に五体が満足な者は誰一人いないということだ。
「あああー………ああ……足りない。足りない、足りない足りない。どれだけやっても足りない。未だに足りないどれでも足りないどこも足りないどんなものも足りない……」
…僕らは、宵の明星亭に戻る途中だった。
どうせ、道具を整える必要がある。なによりその、手配書の件のネクロマンサーがどこにいるかはわからないから、そこで情報を集めていこうと、そうして。
街に戻った瞬間に、身震いした。
人の気配が無い。血の匂いばかりがする。
そして路地の裏に歩き回る、生きた死体。
どれも、身体の一部分が無い。
その匂いが。
ひときわ濃く匂ったのは、宵の明星亭。
そこの、中から。
「見つからない、見つからない見つからない。見つからない見つからない見つからなくてこまってて、どうしようもなくてさ」
鋸を手に。もう片方の手には闇を纏う。
顔にはずた袋を被っていて、顔は見えない。
声もくぐもっていて、よく聞こえない筈だった。
だけど広いホールの奥にいるその、咽び泣く姿から、する獣臭。そのあまり大柄ではない体躯と、横にある巨大な棺桶。
それが何なのかということはよく分かった。
棺桶の、柄が、何度も見たことがあるものだから、というのもある。
違う。もっともっと始めからのことだ。
そんな決定的なものを見せられるまでもない。
あまりにも凶悪に強力な闇術。
常に運ぶ棺桶の妙。
いつかに見た、内側から動く棺桶。
そして彼女が宿に来てからというもの。
勇者候補達の失踪が多くなっていたということ。
「…………ここにもいなくて、どうしようかと思っていたんだ。だけれど良かった。きみのほうからここに来てくれたんだ。さすがきみはちゃんとしてるなあ私のお願いをきいてくれたのかなあ」
その顔のずた袋を取らないでくれて良かった。
今そうされたなら、僕はその目を見れなかったろう。
ノアが僕を見て、ぐっと、目を瞑っていた。
見ていられない、というように。
僕はどんな顔をしていたんだろう。
「なんで……」
ようやく絞り出したのはそんな言葉だった。
この言葉は半分は意味のない、嘘に近いもの。
そしてもう半分は意味のない、真実に近いもの。
頭の奥の、無意識下の中ではとっくにわかっている事を僕の表皮の部分では分かっていなくて、それを否定して欲しくて。
そうだ。終わらせなければ、いけないもの。
僕の、初恋を。事実から、目を背けることを。
「なんで、貴女が、こんなことを」
どうして貴女がこんなことをするんだ。
何故こんなことを始めてしまったのか。
何故こんなことを、する人になってしまったのか。
どうしてという質問。そもそもそれが間違いか。
いつから、という愚問。
初めから背負い歩いていた棺桶。
それは僕の、会った時にはそうではなかったというそうであって欲しいだけの虚しい願望だ。分かっていることの、再認識でしかない。
「なんで、って…分かっていた事でしょう」
僕の一言にほんの少し、ほんの少しだけ、正気を取り戻したように彼女の袋の穴の奥の目が嘲るように細まった。
「…少年」
その呼び方が、一番。心をえぐった。
彼女しかしなかった僕の呼び方。それが目の前に突きつけられるのは、心臓を抉られるように痛かった。
瞬間、ネクロマンスを誇示するように闇術を操る。
棺桶の中から、巨躯の男がゆっくり立ち上がる。
床に倒れていた死体が、動き始める。こっちに向けて。
「──私は初めからそういう人間だったんだよ」
ああ。
そうしてくだらないロマンス劇のように、僕らは再会した。
最も、あいたくない形で。
錆びついた鋸をかりかりと地面に擦り、もう片方の腕を向ける。瞬間に。
脳の中で、高々と啓示が響く。
そうしておくべきだ、そうしなくてはいけない。
それまで曇って役立たずだったそれが今になってかんかんと、うるさいくらいに騒ぎ立てて騒ぎ立てて、とっくに分かっていることを長々と、やりたくないことを逃げるなとせきたてる。
それが、囁く。
やれ。
そうしろ。
死操術師・フィリア=クローディアを討伐しろと。