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天涯のリリィ  作者: 二親紀伊
出逢いであっても
8/8

防衛戦 その2


1.


 その後の戦況は、奇妙なほどに安定していた。

 一度死線を潜ったことで、アレルの中にあった慢心は消え失せ、代わりに機械的な冷徹さが居座った。

 デネブ、アルゴル、リゲル、シダール。この四人の連携は芸術的ですらある。アレルの探知が敵の位置を告げ、デネブが指示を出し、三人が屠る。

 魔獣の死骸が防壁となり、皮肉にも島の守りを堅固にしていた。

 雪は降り続いているが、彼らの熱気で島の一角だけが陽炎のように揺らめいている。


 「……不思議ですね」


 アレルは《狐格子》の情報を処理しながら、ぽつりと漏らした。

 数は減らない。むしろ増えている。霊峰の主とも呼べるような大型種さえ混じり始めた。だが、抜かれない。

 デネブたちの強さは、個人の武勇ではない。「負けない戦い方」を知り尽くしている点にあった。無理に攻めず、深追いせず、ただ死守する線を守り抜く。

 これなら、夜まで保つかもしれない。

 そんな希望が、アレルの胸に微かな灯を点した頃だった。


 上空から、一羽の鳥が舞い降りてきた。

 純白の鳩だ。魔獣の嵐が吹き荒れる中、その白さは異質だった。

 鳩は真っ直ぐにシダールの肩へと止まる。その脚には、赤い紐で結ばれた小さな筒があった。


 「《飛文》だ! 援軍か!」


 リゲルが快哉を叫ぶ。

 アレルもまた、張り詰めていた糸が緩むのを感じた。父か、あるいは祖父か。この窮地を知り、精鋭を送ってくれたのだ。

 シダールが震える手で筒を開け、小さく折り畳まれた羊皮紙を取り出す。

 だが、その紙片に目を通した瞬間、シダールの表情から血の気が失せた。


 「……隊長」


 渡された紙片を受け取ったデネブの瞳が、剣呑に細められる。

 彼女は一瞬、アレルの方を見た。その視線に含まれた感情を、アレルは読み取ることができなかった。憐憫か、憤怒か、あるいは諦念か。


 「……関所の門番からだ。私の元部下だよ」


 デネブは紙片を握りつぶした。


 「『関所封鎖。騎士団に待機命令発令。何人たりとも通行を許可せず』……だとさ」


 場を支配したのは、魔獣の咆哮よりも重い沈黙だった。

 援軍は来ない。来られないのではない。意図的に止められたのだ。

 それは、国家あるいは教会という巨大な意思が、この島にいる全員を見捨てたことを意味していた。


 「そんな……じじ様が?」


 アレルの問いに、デネブは答えなかった。ただ、短く息を吐き、魔獣の群れを見据え直す。

 希望は潰えた。

 どれだけ巧みに守ろうとも、援軍のない籠城戦は、緩やかな自殺に過ぎない。

 アレルは足元の少女を見た。彼女はまだ、何も知らずに眠り続けている。このまま、目覚めることもなく魔獣の餌になるのか。


2.


 「総員、プランBへ移行する」


 デネブの声は低く、そして重かった。

 プランBなど聞いていない。アレルが顔を上げると、デネブは腰の剣を抜き放ち、祠を指した。


 「ここじゃジリ貧だ。全員、祠へ退避させる」

 「全員って、認証は……まさか」


 アレルの顔色が変わる。

 冬籠りの祠に入るには、外で魔力認証を行う『後見』が必要だ。そして、システム上、後見となった者は中に入ることができない。

 全員を退避させるということは、誰か一人が外に残り、認証を維持し続けなければならないということだ。そしてこの状況で外に残るという意味は、一つしかない。


 「隊長、俺が残ります!」


 アルゴルが叫ぶが、デネブは一蹴した。


 「却下だ。認証の精度、魔力量、そして何より生き汚さ。私が適任だ」

 「デネブ! 死ぬ気かよ!」


 アレルは敬称も忘れ怒鳴った。だがデネブは、かつて孤児院で悪戯を見つけたときと同じように、優しく、けれど絶対に覆らない笑みを浮かべた。


 「アレル様。あの子を頼みますよ。……総員、私に続け! 認証の光が出たらすぐに飛び込め!」


 デネブが先頭を切って祠の壁面へと走る。

 アレルたちも続かざるを得ない。ここで躊躇すれば、デネブの覚悟が無駄になる。

 デネブは祠の側面にある『青い石』へと掌を叩きつけた。

 本来なら、ここで《使い》が現れ、問いかけに答えれば、アレルたち全員を呑み込む青い光の奔流が溢れ出すはずだった。


 しかし。


 「……な?」


 デネブの喉から、間の抜けた音が漏れた。

 光らない。

 青い聖印も、《使い》の威厳ある姿も現れない。

 ただ、冷たく苔むした石が、無言でそこに在るだけだった。


 「なんで……反応しない……?」


 御神渡りという異常事態が、聖地のシステムそのものを狂わせているのか。あるいは、神さえも彼らを見捨てたのか。

 デネブが焦燥に駆られ、何度も石を叩く。


 「出ろ! 出てこい! 頼むから!」


 その一瞬。

 絶対の逃げ場所と信じていた祠の拒絶に、百戦錬磨のデネブでさえ思考が空白に染まった。

 全員の意識が「光らない石」に向けられた、致命的な隙。

 戦場において空白とは、死と同義である。


 「隊長! 右!」


 アルゴルの悲鳴が響く。

 祠の前で立ち尽くしたアレルたちの背後、防御陣形の綻びを縫って、黒い影が躍りかかっていた。

 《鎌鼬カマイタチ》。

 風を纏うイタチの魔獣だ。その速度は視認すら困難で、両腕の鋭利な爪は鉄鎧さえ容易く切り裂く。

 標的は、石に縋るデネブ――ではない。

 もっとも弱く、もっとも無防備な獲物。

 アレルが抱える、少女だった。


3.


 時間が引き伸ばされる。

 デネブは石壁に向いており、振り返る動作は間に合わない。

 アルゴルとリゲルは距離が遠い。シダールは別の魔獣を押さえている。

 アレルだけが、見ていた。

 迫りくる凶刃の軌道。それが正確に、少女の細い首を狙っていることを。


 (守らなきゃ)


 思考はなかった。

 それは恐怖への反射か、あるいは騎士道への憧憬か。いや、もっと根源的な、損得勘定さえ放棄した脊髄の命令だった。

 アレルは少女を抱えたまま、強引に身体を捻った。

 両手は塞がっている。武器はない。魔術の詠唱も間に合わない。

 ならば、差し出せるものは一つしかなかった。


 ごしゃッ。


 湿った音が、鼓膜ではなく骨に響いた。

 次いで、熱。

 痛みはなかった。ただ、世界が赤く染まり、強烈な衝撃がアレルの身体を吹き飛ばした。


 「が、ぁ……?」


 アレルは少女を抱いたまま、雪の上を転がった。

 視界が明滅する。何が起きたのか理解しようとして、彼は自分の左腕を見た。

 そこには、何もなかった。

 肘から先が消失し、白い骨の断面と、脈打つ肉の赤だけが見える。

 遅れてやってきた激痛が、脳髄を焼き切らんばかりに駆け巡った。


 「アレル様ァァァ!!」


 デネブの絶叫が遠く聞こえる。

 アレルは霞む視界の中で、自分の左腕を食いちぎった《鎌鼬》が、口元の血を舐めとりながら、次なる一撃を放とうとしているのを見た。

 ああ、死ぬんだ。

 こんな、わけのわからない場所で。わけのわからない少女を庇って。

 なんて馬鹿な人生だろう。

 薄れゆく意識の底で、アレルは自嘲し――そして、天を覆う巨大な影を見た。

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