防衛戦 その2
1.
その後の戦況は、奇妙なほどに安定していた。
一度死線を潜ったことで、アレルの中にあった慢心は消え失せ、代わりに機械的な冷徹さが居座った。
デネブ、アルゴル、リゲル、シダール。この四人の連携は芸術的ですらある。アレルの探知が敵の位置を告げ、デネブが指示を出し、三人が屠る。
魔獣の死骸が防壁となり、皮肉にも島の守りを堅固にしていた。
雪は降り続いているが、彼らの熱気で島の一角だけが陽炎のように揺らめいている。
「……不思議ですね」
アレルは《狐格子》の情報を処理しながら、ぽつりと漏らした。
数は減らない。むしろ増えている。霊峰の主とも呼べるような大型種さえ混じり始めた。だが、抜かれない。
デネブたちの強さは、個人の武勇ではない。「負けない戦い方」を知り尽くしている点にあった。無理に攻めず、深追いせず、ただ死守する線を守り抜く。
これなら、夜まで保つかもしれない。
そんな希望が、アレルの胸に微かな灯を点した頃だった。
上空から、一羽の鳥が舞い降りてきた。
純白の鳩だ。魔獣の嵐が吹き荒れる中、その白さは異質だった。
鳩は真っ直ぐにシダールの肩へと止まる。その脚には、赤い紐で結ばれた小さな筒があった。
「《飛文》だ! 援軍か!」
リゲルが快哉を叫ぶ。
アレルもまた、張り詰めていた糸が緩むのを感じた。父か、あるいは祖父か。この窮地を知り、精鋭を送ってくれたのだ。
シダールが震える手で筒を開け、小さく折り畳まれた羊皮紙を取り出す。
だが、その紙片に目を通した瞬間、シダールの表情から血の気が失せた。
「……隊長」
渡された紙片を受け取ったデネブの瞳が、剣呑に細められる。
彼女は一瞬、アレルの方を見た。その視線に含まれた感情を、アレルは読み取ることができなかった。憐憫か、憤怒か、あるいは諦念か。
「……関所の門番からだ。私の元部下だよ」
デネブは紙片を握りつぶした。
「『関所封鎖。騎士団に待機命令発令。何人たりとも通行を許可せず』……だとさ」
場を支配したのは、魔獣の咆哮よりも重い沈黙だった。
援軍は来ない。来られないのではない。意図的に止められたのだ。
それは、国家あるいは教会という巨大な意思が、この島にいる全員を見捨てたことを意味していた。
「そんな……じじ様が?」
アレルの問いに、デネブは答えなかった。ただ、短く息を吐き、魔獣の群れを見据え直す。
希望は潰えた。
どれだけ巧みに守ろうとも、援軍のない籠城戦は、緩やかな自殺に過ぎない。
アレルは足元の少女を見た。彼女はまだ、何も知らずに眠り続けている。このまま、目覚めることもなく魔獣の餌になるのか。
2.
「総員、プランBへ移行する」
デネブの声は低く、そして重かった。
プランBなど聞いていない。アレルが顔を上げると、デネブは腰の剣を抜き放ち、祠を指した。
「ここじゃジリ貧だ。全員、祠へ退避させる」
「全員って、認証は……まさか」
アレルの顔色が変わる。
冬籠りの祠に入るには、外で魔力認証を行う『後見』が必要だ。そして、システム上、後見となった者は中に入ることができない。
全員を退避させるということは、誰か一人が外に残り、認証を維持し続けなければならないということだ。そしてこの状況で外に残るという意味は、一つしかない。
「隊長、俺が残ります!」
アルゴルが叫ぶが、デネブは一蹴した。
「却下だ。認証の精度、魔力量、そして何より生き汚さ。私が適任だ」
「デネブ! 死ぬ気かよ!」
アレルは敬称も忘れ怒鳴った。だがデネブは、かつて孤児院で悪戯を見つけたときと同じように、優しく、けれど絶対に覆らない笑みを浮かべた。
「アレル様。あの子を頼みますよ。……総員、私に続け! 認証の光が出たらすぐに飛び込め!」
デネブが先頭を切って祠の壁面へと走る。
アレルたちも続かざるを得ない。ここで躊躇すれば、デネブの覚悟が無駄になる。
デネブは祠の側面にある『青い石』へと掌を叩きつけた。
本来なら、ここで《使い》が現れ、問いかけに答えれば、アレルたち全員を呑み込む青い光の奔流が溢れ出すはずだった。
しかし。
「……な?」
デネブの喉から、間の抜けた音が漏れた。
光らない。
青い聖印も、《使い》の威厳ある姿も現れない。
ただ、冷たく苔むした石が、無言でそこに在るだけだった。
「なんで……反応しない……?」
御神渡りという異常事態が、聖地のシステムそのものを狂わせているのか。あるいは、神さえも彼らを見捨てたのか。
デネブが焦燥に駆られ、何度も石を叩く。
「出ろ! 出てこい! 頼むから!」
その一瞬。
絶対の逃げ場所と信じていた祠の拒絶に、百戦錬磨のデネブでさえ思考が空白に染まった。
全員の意識が「光らない石」に向けられた、致命的な隙。
戦場において空白とは、死と同義である。
「隊長! 右!」
アルゴルの悲鳴が響く。
祠の前で立ち尽くしたアレルたちの背後、防御陣形の綻びを縫って、黒い影が躍りかかっていた。
《鎌鼬》。
風を纏うイタチの魔獣だ。その速度は視認すら困難で、両腕の鋭利な爪は鉄鎧さえ容易く切り裂く。
標的は、石に縋るデネブ――ではない。
もっとも弱く、もっとも無防備な獲物。
アレルが抱える、少女だった。
3.
時間が引き伸ばされる。
デネブは石壁に向いており、振り返る動作は間に合わない。
アルゴルとリゲルは距離が遠い。シダールは別の魔獣を押さえている。
アレルだけが、見ていた。
迫りくる凶刃の軌道。それが正確に、少女の細い首を狙っていることを。
(守らなきゃ)
思考はなかった。
それは恐怖への反射か、あるいは騎士道への憧憬か。いや、もっと根源的な、損得勘定さえ放棄した脊髄の命令だった。
アレルは少女を抱えたまま、強引に身体を捻った。
両手は塞がっている。武器はない。魔術の詠唱も間に合わない。
ならば、差し出せるものは一つしかなかった。
ごしゃッ。
湿った音が、鼓膜ではなく骨に響いた。
次いで、熱。
痛みはなかった。ただ、世界が赤く染まり、強烈な衝撃がアレルの身体を吹き飛ばした。
「が、ぁ……?」
アレルは少女を抱いたまま、雪の上を転がった。
視界が明滅する。何が起きたのか理解しようとして、彼は自分の左腕を見た。
そこには、何もなかった。
肘から先が消失し、白い骨の断面と、脈打つ肉の赤だけが見える。
遅れてやってきた激痛が、脳髄を焼き切らんばかりに駆け巡った。
「アレル様ァァァ!!」
デネブの絶叫が遠く聞こえる。
アレルは霞む視界の中で、自分の左腕を食いちぎった《鎌鼬》が、口元の血を舐めとりながら、次なる一撃を放とうとしているのを見た。
ああ、死ぬんだ。
こんな、わけのわからない場所で。わけのわからない少女を庇って。
なんて馬鹿な人生だろう。
薄れゆく意識の底で、アレルは自嘲し――そして、天を覆う巨大な影を見た。




