防衛戦
1.
信号弾が上がった。
その報を受けるまでもなく教主サルリアンの目にもそれは映った。
あまりにも静かな朝。沁みいる冷たい空気。厚い雲に温もりを奪われた薄日が、眼下の街を照らしている。
「はじまりましたな」
口を開いたのは糸目の男。腰まである亜麻色の髪を揺らしながら笑みを浮かべている。白い法衣にかかる紫のストールは金糸で飾られており、男の位階の高さを示していた。
城の尖塔にある一室にはサルリアンと糸目の男の二人だけである。
「手出しは控えていただきます」
白い法衣。オデッシア教の法衣である。聖杖を持つということは教主であるサルリアンと同格だ。尖塔の密室でアレルたちは見捨てられることが決定した。
「神の思し召しのままに」
握り込んだ拳をようやっと開き、サルリアンはジュネヴァに祈りを捧げる。その合わせた掌からは血が滴り落ちていた。糸目の男は一瞥したのみで、神言を唱え始めた。
「ジュネヴァの蒼杯に神のご加護を」
誰も知る由のない神の采配。サルリアンに残されている道は信じることしかなかった。
2.
ウシュマ湖は地獄の様相を呈していた。湖は囲うように魔獣に埋め尽くされ脱出の余地はない。これでは半日で助けがくることも不可能であろう。さらに霊峰からは次々と凶悪な魔獣が降りてきている。まさに絶体絶命の事態である。
アレルたちは中央島まで辿り着いていた。
アレルは少女を傍らに寝かせ、島の中心である祠近くに陣取っている。デネブ、アルゴル、リゲル、シダールは島の縁に等間隔に布陣している。
指揮はアレル。デネブはアレルの魔術《狐格子》に活路を見出した。
これは魔力を粒子として、3次元の格子上に配置し、それに触れたものを正確に感知する魔術だ。これにより、島を登ってくる敵を正確に感知できる。あとは登ってくる魔獣を剥がすように壁面を隆起させれば、倒すことなく時間を稼ぐことができる。魔力消費も少なく籠城としては上策であった。後詰さえ来れれば。
「〇一三〇!一〇〇〇!」
アレルの指示するのは方角のみ。あとは四方に配置された四人が目視、微調整し目標を堕としていく。敵は二種類。猿類、虫類など壁面を伝うもの。あとは四足の螺旋階段を昇るものだ。厄介なのは蛇だ。《岩槍》一つでは足りず三つ四つと消費が激しい。それを除けばほとんど作業のようなものであった。
「意外と平和だな。〇四一五!」
アレルは無機質な数字を吐き出し続ける。
彼の脳内には、島全体を覆う青白い格子が展開されており、何かが触れるたびに光の点が明滅する。それはまるで盤上の遊戯のようであり、あるいは単純作業の繰り返しのようでもあった。
現実感を喪失させるこの作業感こそが、アレルを支え、同時に蝕んでいた。
3.
開始から数刻。太陽は中天を過ぎ、雲の厚みが増してくる。
世界が灰色に沈むにつれ、アレルの感覚にも澱が溜まり始めていた。
魔力はまだ保っている。しかし、情報処理を続ける脳髄が熱を持ち、視界の隅がチカチカと点滅する。
冬籠り明けの空腹と、極限状態の緊張、そして絶え間ない魔力行使。
それらが複合し、アレルに「慣れ」という名の致命的な麻痺を与えていた。
(全部見えている。全部拾えている。このままいける)
そう思った矢先、雪が降り始めた。
大粒の雪片が風に舞い、視界を白く染める。
《狐格子》が雪の接触を感知し、無数の微細なノイズを脳内に送り込んでくる。アレルは顔をしかめ、小さなノイズを意識の外へと追いやろうと選別を行った。
これが、間違いだった。
「……一一四〇」
一瞬、アレルの口が淀む。
反応があったような気がした。だが、それは雪の塊が崩れたような、曖昧で小さな揺らぎだった。
今までなら即座に警告を発していただろう。だが、何百回と繰り返した成功体験と、疲労による思考のショートが、その判断を「ノイズ」へと分類した。
そのコンマ数秒の遅滞。
それが命取りとなった。
「ギャッ!」
悲鳴ともつかぬ声を上げたのは、西側を担当していたリゲルだった。
アレルがハッと顔を上げると、そこには白い影が踊っていた。
雪豹だ。それも極めて小型で、雪に溶ける保護色を持つ個体。
《狐格子》が捉えていた微細な反応は、雪ではなく、壁面を音もなく駆け上がってきたこの死神の足音だったのだ。
「侵入! 一匹入った!」
デネブの叫びが響くが、遅い。
防衛線の一角が崩れたことで、そこへ殺到する後続の魔獣が溢れ出す。
均衡は、一度崩れれば雪崩のように崩壊する。
リゲルが雪豹に喉を食いつかれまいと腕で防ぐ間に、猿型の魔獣が二体、三体と這い上がってくる。
「クソッ、総員円陣! アレル様を守れ!」
デネブが持ち場を捨て、中央へと駆け戻る。アルゴルとシダールもそれに続く。
円形に広がっていた防衛網は一気に縮小し、祠の前でアレルと少女を囲む小さな円となった。
だが、一度許した侵入は、致命的な数となって押し寄せる。
四方八方から飛び掛かる牙と爪。
先ほどまでの「作業」は消え失せ、そこにあるのは泥臭く、血生臭い、本物の蹂躙だった。
「くそ……僕の、せいか……」
アレルは呆然と立ち尽くす。
自分のたった一つの見落としが、熟練の狩人たちを死地へと追いやった。リゲルの肩から鮮血が飛ぶのが見える。シダールの義足が悲鳴を上げているのが聞こえる。
展開していた《狐格子》は、もはや意味をなさず、ただ絶望的な数の敵を表示するだけの処刑宣告装置と化していた。
「アレル様! 立ってください! まだ終わってねぇ!」
シダールが血を吐くように叫び、迫る猿の首を刎ね飛ばす。
その背中越しに、アレルは見た。
乱戦の隙間、誰の目にも止まらぬ死角を縫って、一頭の銀狼が音もなく滑り込んでくるのを。
その双眸が捉えているのはアレルではない。
足元で眠る、少女だ。
守らなければ。
思考よりも速く、アレルは動いていた。
英雄的な覚悟などない。ただ、自分のミスの代償を、この訳のわからぬ少女に払わせてはならないという、強迫観念に似た衝動だけが、彼の身体を突き動かした。
「坊ちゃま!」
シダールの絶叫と、風を切る唸り。
アレルが少女に覆いかぶさった瞬間、頭上で硬質な衝撃音が響いた。 遅れて、温かい飛沫がアレルの頬を濡らす。 恐る恐る顔を上げると、そこには脳天を叩き割られた銀狼と、義足を軸に身体を捻り切ったシダールの姿があった。彼は義足の仕込み刃で、辛うじて魔獣の牙を弾いたのだ。
「ボーっとするんじゃねぇ! 死にてぇのか!」
デネブの怒号が飛ぶ。その声には安堵よりも、戦場の指揮官としての冷徹な響きがあった。
アレルは震える膝を叩き、再び立ち上がる。 死ぬところだった。自分のミスで、自分だけでなく、この名も知らぬ少女まで。
「……ごめんなさい」
「謝罪は後だ! 円陣を維持!《狐格子》、再展開!」
デネブの一喝で、崩れかけた空気が引き締まる。 アレルは唇を噛み切り、鉄錆の味で意識を覚醒させた。 恐怖をねじ伏せ、再び脳内に青白い格子を展開する。 まだ終わっていない。終わらせてはくれない。




