霊峰の山麓 その2
1.
ウシュマ湖はジュネヴァの聖杯と呼ばれる世界に六つある聖地のひとつで真円の湖である。透明度も非常に高く、針葉樹の森に囲まれた真っ青な湖は、古くから人々に愛されていた。
霊峰の麓に位置し、湖の淵は直立の崖。麓側から山の傾斜に合わせて嶮しくなる崖はあらゆる生物を拒んでいるかのように見える。その嶮しさもまた、見るものを深く惹きつける。
実際、ウシュマ湖に生物はいない。
河川に接しない閉塞湖であり、この湖には流入する生き物がいない。
しかし、生き物のいない最大の原因は、その透明度の高い水である。
あらゆるものに魔力の宿るこの世界で、この水は魔力を全く含んでいない。
もし、この湖に落ちれば、身に宿る魔力を分解され息絶えた後、その骸に残った僅かな魔力さえも枯れ果て、一日と持たず跡形もなくなるであろう。
その真円の湖の中心に小さな島が突き出ている。湖面から高さ20メートルほど不自然に突き出た円柱の島。外周を回るのに五分もかからないであろう小さな島だ。
そこには古ぼけた石造りのドームがぽつんと建っているだけで他には何もない。それは小さな石を積み上げて作られており、今にも崩れそうな見掛けだが、不自然なほど頑丈な超常の祠である。あまりに古すぎて建立の経緯は判然としない。
大人一人が入れるくらいの大きさのそれには入口も何もなく、外からは何も窺い知れない。
かろうじて石と石の隙間から風は入るようで、ひゅうひゅうと音だけが響いている。
三日間。
この何もない暗闇の祠の中に閉じこもることを『冬籠り』と呼ぶ。
ジュネヴァ教に精神修行はないが、この冬籠りだけは精神修行として組み込まれていた。これだけは、どの教会も行っており、唯一共通する教練であった。元々は全ての教会の祖である地母神を崇めるオデッシア教の洗礼式である。ただし、ジュネヴァ教以外での冬籠りは、『隠戸』といい季節を問わず行い、時間の制限もない。自分の居られるだけいるのが本来の教練である。
オデッシア教を祖としている以上、ジュネヴァ教も隠戸を外すわけにはいかなかった。そんな精神修行を認めないジュネヴァ教のなかで、苦肉の策として独自の発展を遂げたのが『冬籠り』である。
ジュネヴァ教で行われる冬籠りは教練ではなく罰。精神修行ではあるが教練自体には含まれていないので教義には反しない。罰を受けることが習練のひとつだという、何ともな屁理屈である。
アレルにとっては、一年ぶり三度目の冬籠りとなる。つまり毎年だ。
2.
さて、冬籠りの準備は全て本人がおこなう習わしだが、準備するものは、白装束と水。これだけである。準備自体は楽だが、それはつまり持っていけるものがそれだけだということだ。三日間は水しか口にできない。なんとも過酷な罰である。
ともあれ準備は白装束の洗濯と、水を汲めば終わり。
アレルは寒空の下、一人洗い場で洗濯をしていた。
「よぉ、また記録更新だな」
したり顔のワードが洗い台の上からアレルに声を掛ける。余程アレルの冬籠りが嬉しいのか、一人高笑いしている。
洗濯を続けたまま「勘弁してくれ」と、ぼやくアレルに仰け反るほど高笑いするワード。
「この年で三度目ってのも最年少記録だってよ」
これでもかという程、鼻の穴を広げ、得意気なワード。
しかし、意に介さず笑顔でアレルは、顎でワードの後ろを指す。デネブが大股で近づいてくるのが見えたからだ。
ワードは振り向くと同時に片手で顔を掴まれ、そのままひょいと持ち上げられた。何やらワードが叫んではいるが顔全体をデネブの手が覆っているため判別不能だ。
「坊ちゃま、ごきげんよう」
胸の前に手をやり、恭しく礼をするデネブ。非常に美しい所作である。人ひとり掴んだままではあるが。手の中でワードがどれだけ暴れようと所作が崩れることはない。実に見事である。
デネブはアレルの手にある白装束に目をやると
「冬籠りは辛うございます。十分に身体を休めてからお臨み下さいますよう」
「デネブの助言の所為でこんなことになっているんだが…」
とアレルは思わずぼやくと、
「あら、いけない。洗濯物を干したままでしたわ。では、坊ちゃま。わたくし、これにて失礼いたしますわ」
彼女が洗濯しているのを見たことはない。そもそも家事全般なにもしたことはない。
アレルが文句を言う前にデネブは、来たときと変わらない速度で孤児院へと戻っていった、その手にワードを掴んだまま。
ワード十一歳。罪状は「手洗い台に乗るな」である。
「デネブはあの速度で音もなく近づいてくるんだよなぁ」
ワードもやめればいいのに高いとこに立ちたがる。その度同じ目にあっているのだが学習しないのだろうか。アレルはデネブに後ろを取られたときの、あの背筋が凍る感覚を思い出し身震いをした。
「さて、冬籠りの準備つづけるか」
三度目ともなると慣れたものである。
寒空の下、洗濯をするアレルと体中に錘りをつけ走らされるワードの姿が、そこにはあった。
3.
冬籠りを明日に控えたアレルは市街に来ていた。
アレルは生まれ育ったこの街が好きだった。ここは王国内でも辺境にあり、北の僻地と言ってもいいくらいの片田舎だ。これより北は霊峰とカムイカムラ山脈で閉ざされているため正に人類においても辺境にあたる。
ここオロークは緯度が比較的高いため、冬の昼は短い。ただ、冬のわりに西風が暖かく、気温自体はそれほど下がらない。夏はというと、霊峰から吹く乾いた颪が冷たく比較的温度は上がらず雨も少ない。気温の年較差の小さい一帯だ。
そのため農耕にはあまり向かず、酪農や畜産、林業、そして観光が主な産業だ。また革製品や毛織物なども特産としており、街には職人肌の人間が多い。そしてこれは他にはあまりない特徴だが、この街には亜人も多く住んでいる。霊峰を隔てて、すぐ向こうは亜人の邦だ。交流こそ殆どないが、それでも地続きであれば多少は交わるものである。
異邦は諍いの元であるが、その点、この街は職人気質のおかげか実力主義でいままで大きな争いは起こっていない。
アレルはヒトと亜人の混ざったこの雑多な文化と黙々と働く職人たちの密やかな誇りをもった姿が好きだった。
通りは、冬のせいか人は少ない。歩きすがらに鍛冶場からは小気味よい音が響き、皮を鞣す独特の匂いが漂ってくる。
アレルは当てもなく歩を進め、街の雰囲気を味わう。
そこへ声を掛けたのは小柄な男だった。
「やっぱり坊ちゃんは年寄りみたいだよ」
彼はレピンレピル。小人族だ。
「やっぱりってなんだ。やっぱりって」
「いや、後ろ手を組みながら微笑み浮かべて散歩って。少なくとも初老はいってるね」
「歴とした十二歳だよ!」
「ほらね」
そういうとこだよと笑いながらレピンレピルはアレルの尻を何度も叩く。いつも尻を叩くので最初アレルはてっきり小人族の文化かと勘違いしていたが、これは単にレピンレピルの癖だった。
彼は職人ギルドのギルド長を務めている。その昔、亜人たちがこの街に流れ着いたころ、彼らはヒト族とは違う技術体系をもつ上に、門外不出の技術さえあるため、仕事をしようにもうまく馴染めないことが多かった。
そこでレピンレピルはギルドを設立し、請負の形で技術を提供することで、この街と彼らの懸け橋となったのだ。ギルド名は『ポーラ』。設立から七十年が過ぎ、ギルドは、この街になくてはならないものになっている。
一頻り笑い終えた彼は、「今思い出した」みたいな顔をしたあと、悪い笑みを浮かべてアレルを見た。
「また冬籠りだってね。物好きなこって」
「…最初からそれを言いに来たんだろ」
「三日間の冬籠りの前に街をぶらぶら散策って。もうそれはご隠居じゃん」
「まだ青春も迎えてねーよ」とわざとらしく口を尖らせながら返す、彼の落ち着き具合に、レピンレピルは笑いながらも、薄っすら違和感をもっていた。デジャブのような正夢のようなものを頭の隅に感じながら、彼は話題を転換する。
「青春といえば、そろそろ婚約の時期だっけね」
「まぁ長子じゃないしね、ああ、わたくしは青春を謳歌することもなく、どこかに嫁ぐんだろうねぇ」
溜息交じりに嘯くアレル。
「…捻くれてるねぇ。思ってもないことを。」
ノートン家は教主一族だ。六教会の権威は世界の中でも相当に高い。なぜなら神は実在するのだから。ノートン家はジュネヴァの従者の血族だ。ジュネヴァが神に至る道程を支えた一族の末裔である。オデッシアとエルデンギュヌス以外の四教会はそれぞれ当時の神を支えた従者の末裔だ。これらは国に傅く訳にもいかず、政治的に浮いた存在であった。そこで各聖地のある国は王の任命を受諾する権利を教主一族に与えた。つまり国王は神の赦しを得て任命されることになる。ただし任命権はなく、あくまで、ただ神がお赦しになったと告げる儀式があるだけである。赦しを得るかわりに聖地のある総本山を領地として奉じているという訳だ。
ジュネヴァ教教主は長子が継いでいく。他はノートンの姓をを名乗ることを許されず、養子となって他家へ入るか野に下るかとはなっているが、実態は家系図が秘されているを見るに言わずもがなである。
とはいえ、教主にあるのは権威のみで、権限は辺境の小領主程度しか持ち合わせておらず、そこまで骨肉の争いがあるわけでもない。
「まぁ、学院生活だってあるわけだし。恋も友情も、それこそ青春がそこにあるでしょ?」
「坊ちゃんには無縁そうですがね」
アレルとレピンレピルは他愛もないやり取りをしながら、早くも暮れだした街をそれぞれ後にした。
棚引く雲は何層もの襞を夕焼けに染めあげて、南の広野まで伸びている。いつの間にか煙突の煙も鍛冶の音もなくなっていた。酒場に明かりが灯りはじめ、オロークの街は暮れていく。




