導きの書
幼い頃の僕は、何者かになるのが夢だった。特別な才能に恵まれていると信じていた僕は、人々から尊敬されるような功績を残すことが出来ると確信していた。幸運の星の下に生まれていると思い込んでいた僕は、困難に立ち向かい続ければ、いつか必然的に素晴らしい結果に辿り着くと信じていた。
幼い頃の僕は何者かに成ることが決まっていると確信していた。
しかし、月日が経つにつれて、その確信に陰りが見えた。現実が夢を覆い隠していくように感じたのだ。
社会の厳しさを学び、堅実な生活の中で得られる幸せに満足している自分に気づいた。
大手商社に定年まで務め、孫の代まで困らないだけの資産を築き、社会での地位もあり、良き友人や配偶者に恵まれ、何不自由のない生活を送っていると思っていた。その人に分け与えられるほどの幸せが、いくつもの制約に縛られた幸せであることに気づいてしまった。
順風満帆。そんな人生だった。しかし、人がそれを羨む生活をしていようとも、幼い頃の僕が見ていた「何者」ではないことに気づいてしまったのである。今まで得た成功や幸せは「何者」かに成ったことで得られたものではない。
結局のところ、僕は「何者」ではないのだ。
ある日、一冊の本を手にした。それは幼い頃の僕が書いた魔法の書だった。タイトルは「導きの書」と何とも生意気な本である。僕自身が書いたという記憶は既に無いが、幼い頃より大切に保管しており、一度も中を読んだことがない。「何者」でもないことに気づいた僕は、「導きの書」の存在を思い出し、なんとなく手とったのだ。
「ははっ、幼い頃の僕に導かれてみるか。」
何かを期待したわけではない。この葛藤を鎮めるために仕方なく本を開いただけだ。
読んでみると、どうやら僕に向けた手紙であった。
―何者にも成れなかった僕へ
―君がまだ何者かになりたいと望むなら
―君がまだ何者かになれると信じているなら
―この本は君を導くことを約束します
最後まで読み進めると本は熱を帯び、激しく燃え始めた。
「なんだ。何が起こっているんだ。」
炎は勢いを増し、本を燃え尽きさせた。
呆気にとられた僕は、しばらく燃え尽きてしまった本の残骸を見つめていた。
周囲の様子が変わっていることにも気づかず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「君、何しているの?」
声をかけられて我に返る。そうしてやっと現状を見つめることができた。
先程まで居た自室は見る影もなく、辺りは見たことがない場所。恐らくは廃墟だろう。
「ねえ、どうしたの?」
そして再び声をかけてくれた少女。肌は黒く、目は黄金色、黒く長い髪が美しい。
その容貌は日本人のそれではない。
「申し訳ない。少し混乱していてね。ここが何処か教えてくれるかな?」
必死に情報を整理するも、理解が追いつかない。
声をかけてくれたのが少女でなければ不審者として通報されていたかもしれない。
少女との会話を重ね、少しずつ何が起きたのか整理することにした。
「ここは教会だよ。君、新しい子?シスターと一緒じゃないの?」
「シスター?知らないな。それよりも…」
言葉に詰まった。声に違和感を感じたからだ。いや、声だけではない。
なぜあの椅子はあんなに大きいのか。なぜ少女と同じ目線なのか。
なぜ幼い頃の僕が鏡に映っているのか。
「どういうことだ…。」
それが僕の今の姿と理解するのに、またしても時間を要した。
目の前の少女が何を言っていたのか、聞こえなくなるほどに。
アキノマツシロと申します。
筆の遅い性分ではございますが、お付き合い頂けますと幸いです。