エピソード77
プロキオンの町に着いたと同時にあわただしい日々が過ぎたが、一段落したことで、僕は日常の平穏を取り戻していた。
修道院の改築も終わり、時を同じくして公衆浴場の建設も終わった。
どこの貧民街もそうだが、公衆衛生への意識が低いと、ペストのような病原菌の蔓延する不衛生な環境を放置しても気にならなくなる。
公衆浴場は、体を清潔に保つと共に、温浴効果で免疫力を高め、病気にかかりにくくする効果がある。
あの領主邸訪問の日から、領主は僕の希望のとおりに、修道院を気に掛けるようになり、公衆浴場の営業は領主の後援の下で修道院の収益事業として行われることになった。
頭を洗うシャンプーにシャンプーを綺麗に洗い流すリンスを混合したリンス院シャンプーと体を洗うボディーソープを浴場内に設置し、持ち出せないように洗い場に固定した手押しポンプに専用のコインを入れないと手押しポンプが動かない仕組みにして、石けんとシャンプーを浴場内で量り売り出来るようにした。専用のコインは番台で入浴料と一緒にお金を払うことで入手出来る形にした。
石けんやシャンプーを製造するときも、エタノールは大活躍で、アンタレスの蒸留所にはお酒よりもエタノールの生産量を優先して増やしてもらうべきかもしれない。
公衆浴場は最初こそみんなとまどっていたけど、お風呂の気持ちよさが浸透すると、利用客が日増しに増えていき、料金が大銅貨1枚、シャンプーと石けんがそれぞれ銅貨5枚でコイン1枚という値段の安さもあって口込みで近隣の町からも、入浴を目当てに人が来るようになった。
人通りが増え、貧民街の住人だけでなく、普通の市民街や、まして他所の町からも人が集まるとなると、自然と治安は良くなる。
人の目がないから犯罪は起こりやすいのであって、人が増えれば、その分犯罪への抑止力となる。
また、人が増えるということはモノとカネが動くということで、修道院の周りには入浴客を当て込んだ屋台や店舗が増えていった。
もちろん、立地条件のアドバンテージがある修道院は、入浴嬢の入り口に、エールの売り場を設置し、串焼きの屋台も直営にして、入浴後の客をピンポイントで取り込む、休憩場ビジネスを展開していった。
周辺の活性化も含めて、その雇用創出効果は貧民街の多くの人に仕事をもたらすことになり、人々の生活を改善していく原動力になった。
そしてその中心にあった修道院は、人々の信仰を集めていくことになる。
貧民街の人たちを病気に掛かりにくくするというそれだけの目的で、赤字にならなければ、孤児の仕事ぐらいになればいいかなという気持ちで始めた公衆浴場が、サイドビジネスにつなげることで、むしろ修道院にとっても町にとっても重要な施設に育っていった。
一時は、速やかに町を出ることも想定していたが、その後領主や、そのほかの貴族に絡まれることもなく、平穏な日々を過ごすことが出来ていた。
季節は春から初夏に移ろうとしていた。
公衆浴場も始めた頃の物珍しさも手伝っての熱狂的なブームこそ落ち着いたものの、堅調な経営を続けていて、掃除や、飲食の提供などで、孤児の仕事も確保でき、さらに孤児院の規模を拡大することが出来そうだった。
僕は、ヴィルさんたちの定期検診に行くのに、連れて行くメンバーで迷っていた。
ムートが元の大きさに戻れば、今の従魔を全部連れて行くことは可能だが、ミニホは、ムートの背中に乗っての移動に向いていない。
そこで、定期検診へのメンバーはムートとプルンとセルパとタラちゃん、残りはお留守番してもらうことにした。
ドラゴンの里までのルート上には黒の森があるので、帰りにキンググリズリーの親子とヘラキューズビートルにも会ってくる予定だ。
特にヘラキューズビートルの幼虫から激減した抗生物質を分けてもらうために、いつ頃卵から幼虫が孵化するのかも確認しておきたかった。
それぞれへのおみやげとして、肉や果物をたくさん用意して、僕は出発した。
留守中はギンが他の従魔達の防護を担当する。ミニホと馬たちの飼い葉はミニホが管理し、一度に全部食べないよう、馬たちに与えてもらう。ミニホは賢いが、他の馬はあくまでも馬なので意思の疎通が出来ない。
ムートの背に乗ってドラゴンの里にはその日の日没寸前にたどり着いた、この先南下して隣国に入ったら、一日では移動出来ない距離になってしまうな。
もっとも、馬車で移動すると1ヶ月以上かかる距離なので、一日で移動出来るムートの速度が異常なのだが。
空を飛ぶ手段はこの世界には、騎竜と呼ばれる、飛ぶことに特化した翼竜ワイバーンを卵の孵化から世話をすることで、懐いてもらい、専用の籠を付けて、移動手段としたり、軍事利用したりという方法があるらしい。
ヴィルさんのところへは、定期検診に合わせて世界中からあの日未知のウィルスに苦しんだドラゴン達が集まっていた。
今回はアルテミアス様から頂いた血液検査器があるので、精密な検査が出来そうだった。
注射器を取り出して、ドラゴン全員から採血を行い、検査を行っていく。
ヴィルさんは不思議そうに僕が採血をするのを見ている。
「我等の鱗は、そんな脆弱そうな武器の刃が通るほどやわなものではないのだがな。」
「注射の針が通らないって、そんなことになったら血液の検査が出来ないじゃないか。」
ヴィルさんが何に疑問を抱いているか、よく分かっていない僕は的はずれな受け答えをしたらしい。ヴィルさんも呆れて、「まあ、ケント殿のすることだしな。」と分かったような分からないような独り言を呟いた。
「おお、そうだ。この春にレッドドラゴンの幼体が脱皮したのだが、古い皮をお主にやろう。昨年ムートがここで成体になったときの分も残してある。」
「脱皮後の皮なんて、何にするんだ。」
僕は不思議そうに、後若干非衛生的だなと思いながら尋ねる。
ヴィルさんとムートは顔を見合わせながら、ため息をついた。
「ケント殿らしいと言えばらしいが、ドラゴンの皮は人間どもには貴重なものらしいぞ。少なくともそんなもののために、我等に戦いを挑んでくるほどには。レッドドラゴンの皮でも、人間の武器などほぼ通すことはないからな。エンシャントドラゴンであるムートの皮は伝説の聖剣でもなければ、擦り傷一つ付けることは出来ないだろう、と説明する予定だったのだが、エンシャントドラゴンであり、何千年も生きる我の皮はそれこそムート以上に強固なはずなのだが、なぜその矮小なものが我の肌を貫通して我の血を吸い取ることができるのだ、と不思議に思っていたのだ。」
僕は手の中の注射器を見つめながら「いや、これ血液を採取するための道具だから?」
逆に針がささらないと注射器って何の役にもたたない。
どこまでも平行線を辿るのだった。
「おお、そういえば、人間共には我等ドラゴンの血は万病に効く薬の材料らしいぞ。皮だけでなく血も我等に戦いを挑んでくる理由の一つだ。そんなことをせずとも、ケント殿のように、美味しい肉を持ってくるなら、その「注射器」とやらで得られる血ぐらいくれてやるのだがのう。もっともケント殿以外の人間がここに足を踏み入れることは許さぬがの。」
「ははっ、ドラゴンの血が万病に効く薬とか、僕には理屈がよく分からないので、必要になるとは思わないけど、一応覚えておくよ、ありがとう。」
僕は適当に相づちを打って、血液検査に入る。
ドラゴンに白血球があるのかどうかは分からなかったが、ウィルスの痕跡は確認出来なかったので、もう安心していいだろう。これからは、定期検診の感覚を空けて、その間に体調がいつもと違うと感じたら、僕のところに相談に来てもらうという方法に変えようと思う。」
「ふむ、感覚を空けるというと次は100年後くらいか?」
「なんでだよ、そのころには間違いなく僕は死んでるぞ。」
「なんと、人間は短命だと思っていたがそこまで寿命が短いのか。ケント殿には我等のためにも長生きしてもらいたいのだがな、せめて2000年くらいは。」
「無理ですね。」
検診が終わると、恒例のBBQに移る。検診よりもむしろこちらが楽しみで、世界中からドラゴンが集まってくる。
それってどうなん、と思わなくもないが、前世でも病気になるまで医者のところには行かないという人が大半だったので、餌で釣っている気がしないでもないが、なんであれ、検診を受けてもらえるのは予防医学の見地から、歓迎すべきことだろう。
今回もがっつりミノタウロスの肉が消費され、1000頭以上分あったはずのミノタウロスの肉が今はもう半分近くにまで減っていた。
あれだけあってまだ1年経ってないのに・・・
「ダンジョンなら医者の誓いに反しないのかな。」
ダンジョンでは真生のが光の粒になって消える、なんとなくゲームのような感じで、生き物の命を奪っているとは主恵那かった。
冒険者ギルドにある書物によれば、ダンジョンそのものが一つの生き物であり、その中にいる魔物は、ダンジョンが生み出す幻影で、討伐することで、人間が欲しがる物が手に入るという恩恵を与えることによって、餌となる人間をダンジョンに誘い込んで、幻影の魔物と戦わせ、敗北して、ダンジョンの中で死ぬことでその養分を取り込むのだという説が、現在までに最も有力な学説なのだという。
いずれにしても、僕が目にしたミノタウロスの消え方も生きているもののそれではなかった。普通の人たちならひとたまりもなく、あの場で死んでいたであろうし、それは僕も例外ではないだろう。
ギンとムートの存在はダンジョンにとっても想定外だったということなのだろう。
「ケント殿、どうされた。肉が焦げるぞ。」
僕はヴィルさんの声で現実に引き戻され、あわてて焼き網の上で物騒な煙を上げていた肉を取り出す。
ちょっとウェルダンが過ぎるが、ヴィルさんは気にせずに口の中に放り込んでいた。
BBQも終わり、その日はやはり、ムートの昔の住居である洞穴で一晩過ごし、翌朝、黒の森に向かった。
翌朝ドラゴンの脱皮後の古皮二頭分をもらった僕は黒の森へと移動する。
キンググリズリーの親子は丸1年が経って、すっかり同じ大きさになっていた。
それでも子熊の方は僕を見つけて甘えようと突進してくるが、さすがにその質量でその速度で吹き飛ばされたら死んでしまう自信がある。
ムートが前に立ちはだかって、制止してくれた。
子熊?も前回の出来事を思い出し、急停止して、しょげ込んだので、おそるおそる近づいて、頭を撫でてあげる。しょげ込んでいたから、かろうじて背伸びすれば眉間に手が届くというくらいに、子熊は大きくなっていた。
親熊も我が子の成長が嬉しいらしく、撫でている僕が、子熊をさらに撫でやすいようにと鼻先を僕の股の間に差し込んで持ち上げる。
子熊と目線の高さが同じになったことで、撫でやすくはなったが、足が地についていないので、なんとなく落ち着かない。まさかこの歳になって「高い高い」をする側でなく、される側で体験するとは思わなかった。
キンググリズリーとの再会を喜んでいると、そこにヘラキューズビートルも7匹飛んできた。
昨年の幼虫たちも成虫になったらしい。
本来羽化はもう少し先のことなのだそうだが、僕の気配を感じ取って、土の中から出てきて急いで羽化したそうだ。
いいのかそれ?自然の摂理をねじ曲げてないのか?
ちょっとくらい早くなっても問題ないらしい。
僕はおみやげの果物が足りるかなと心配になりながらも、収納から全部取り出し、皿に盛って、1匹ずつ渡していく。
自分の仲間が増えただけでなく、こうして従魔以外の魔物との交流も増えたので、皿はいろんなサイズのものをたくさん買っておいた。
ここでもBBQをして、久方ぶりの再会を楽しむ。キンググリズリーの幼虫から再び抗生物質を分けてもらえるのは、やはり晩夏以降とのこと、いくら成虫になるのを前倒ししたところで、餌のない冬は蛹の状態で濃さなければならず、成虫になった後は土に潜って冬眠するとはいえ、体力のない個体が毎年何匹かはそのまま翌年の春に土の中からはい出ることもなくそのまま土の中で力尽きることもあるそうだ。
自然の中で生きていくのは、昆虫界の覇者として君臨するヘラキューズビートルであっても難しいことである。
せっかく黒の森に来たのだからと、山菜の採取を行う。春の山には解毒や整腸作用に効果のある山野草が多い。
天ぷらにすれば、純肉食の蜘蛛2匹と蛇以外の従魔は好んで食べる。ミニホにはまだ与えたことはないけど、調理した野菜も食べるし、山菜の天ぷらも食べるかな。
キンググリズリーに山菜採りを手伝ってもらい、短時間でも結構な収穫にはなった。
その日のうちにプロキオンの町に戻りたかったので、お昼には黒の森を後にした。