エピソード51
数日後、荷馬車が完成した。馭者台には、世界初の油圧式サスペンションが取り付けられ、その乗り心地には、製作したオロコフ達も驚いた。
是非とも特許にして、広めてくれと言われたが、材料の調達の際に蜜蜂に危害が及ぶ可能性があったので、衝撃の緩衝材として使用した物を秘密のままとすることにした。
そして荷馬車で一定の成功を見たことで、いよいよ救急馬車の注文に取りかかることとした。
何せ前世では一台1億円はする車両である。
エンジンがなく精密機械も摘まない外側だけであるものの、最上級の素材を使って、中の構造にもこだわりたい。
ボールベアリングも鉄ではなく錆びない素材で、馬車を成人男性四名が搭乗出来る積載荷重にして、それでもなお馬車としての実用を持たせるためには、馬1頭あるいは2頭並列が限界だろう。四頭立ての馬車など、完全に実用性のない見栄だけのものになってしまう。
なので、まず、車体に使う金属は最も軽くそれでいて頑丈なものにしたいとオロコフさんに相談する。オロコフさんは、費用がとんでもなく高くなると前置きしたうえで、その条件ではミスリル合金一択になるという話だった。
ミスリル合金、聞いたことなど全くない金属であるが、何でも魔力を内包した銀で、魔銀とも聖銀とも呼ばれるミスリルに、同じく魔力を包含する鉄と魔力を包含する銅の合金らしい。柔らかすぎるミスリルの欠点を補うために、それぞれ軽さと堅さを補う別の金属との合金にすることで、軽くて頑丈で、魔法伝導率も高い金属らしいが、その長所に加え原材料のミスリルの希少性故に市場価格が極めて高く、車体の骨組みにミスリル合金を使うだけで金貨300枚は下らないとのことだった。
前世の価値にして3000万円、まあそれくらいしても不思議はない。そもそも一台ずつ注文製作で手作りなのだから、その時点で前世の常識なら億円単位である。この世界に来てあほみたいにお金が貯まっていくので、金銭感覚も狂いやすいが、必要なものにお金を使うのは当然である。
僕としては寄付のつもりでかなり思い切った投資だったはずの蒸留所も、まんま寄付の修道院の改築費用と合わせて金貨500枚投じたのに、開業の最初の月から利益が月に50枚も出ている。馬鹿な貴族が狙ってくるのも分からないではないが、このままだと1年で初期投資が回収出来てしまう見込みであり、原価が回収出来た時点で、孤児院の規模を拡張するよう院長先生にお願いしている。
孤児達の就職先を作るため、いずれ、教育の機会も設けて、蒸留所も調理所も拡張していきたい。
現在の場所は少し手狭なので、蒸留酒の儲けで、更に設備投資をしてもいいと思う。
あー妄想が脱線したけど、救急馬車のシャーシは、車軸にもミスリル合金のボールベアリングをつかい、車輪もホイールの部分をミスリル合金にして、前世でタイヤにあたる部分を制作中に考えることにした。ゴムがあってタイヤが作れて空気が地面の凹凸を緩和するクッションになるなら、油圧サスペンションと合わせてリムジンかという静粛性を達成できそうだが、石油精製品の化学合成ゴムなど存在しないし、タイヤを合成する技術もない。
最悪車輪外側信分はタイヤ同様に消耗品と割り切って地面の凹凸で傷が付いたら取り替えるくらいの柔らかい素材を使うことも視野に入れることにする。
次に油圧サスペンションの部分であるが、これは当初から使う予定にしていたタイラントボアの背骨を収納から取り出す。中が空洞で、軽くて、しかもミスリル合金すら歯が立たないほどの強度を誇る脅威度第3級を誇る魔物の巨体を支えるだけの強度をもった骨である。何トンもの体重を支えるその骨の強度はミスリル合金製の剣でも傷を付けるのはよほどの達人が、ためらいなく振るった一閃の太刀筋もやらなければ不可能とさえ言われる。
僕が収納からタイラントボアの背骨を取り出し、オロコフさんに渡そうとしたら、オロコフさんはだらしなく口を開けたままその場で固まってしまった。
「えーと、どうしました?オロコフさん?大丈夫ですか?気分悪くなりました?」
ぼくは慌てて左手の手首を掴んで脈を計ろうとする。
その手をふりほどいたオロコフさんは、まだ夢うつつのようだったが、頭を左右に振った後、僕の両肩をいきなりわしづかみにして、
「な、な、なんてもの持ってるんだーーーー」
と突然大きな声で叫んだ。工房街全体に響き渡るかという声で、両肩を捕まれた状態だった僕は耳をふさぐことも出来なかった。
あたまがキンキンと響くのを我慢しながら、
「ちょっと、いきなり大きな声出さないで下さい。一体なんですか。」
抗議するが、オロコフさんは僕の声など聞こえなかったかのように、「背骨が有るってことは他にもあんだろ、出せ!」と目の色変えて詰め寄ってくる。
「いや、確かにありますけど、こっちはスープの出汁に・・・」
「な、何を言って居るんだ。スープの材料だぁ?何もったいないことしてるんだよ。ミスリル合金なんかより遙かに価値の高い素材だぞ?」
その後工房の壁際まで追いつめられて、豚骨スープの材料に残していたあばら骨を全部馬車の骨組みの材料として、特にその湾曲が馬車の屋根の部分にちょうどいいとか言われて、吐き出すことになってしまった。ギンとムートが「「ああー、スープが、」」と悲しそうな声を上げていたことは聞かなかったことにする。いや、僕だって豚骨スープの材料として残すつもりだったよ。
この世の終わりのように落ち込む二頭に、今度またボアの骨を使ってスープを作るから、そえれで我慢してと宥めるが、タイラントボアのひと味違うスープの味を覚えてしまったギンとムートには今ひとつ響かなかったようだったので、他にも美味しい料理があるから、それも追加する、と言ったところ、突然態度を豹変させ、目を輝かせて機嫌を直した。
・・・もしかして、落ち込んだフリをして、掛け金をつり上げた?
馬車の客室内については、交通手段としての馬車、病人や怪我人搬送用の救急馬車と野営用の馬車とで、室内空間を効果的に使うために、座席をリクライニングにして、さらに取り外し出来るようにして、病人搬送用のベッドに兼用して、車輪つきのキャリーにも接続出来るようにして、馬車の荷室の下にキャリーを収納出来るようにして、ベッドは野営のときも4人が寝られるように、常設のリクライニングベッド2人分のほか天井からつり下げ式にもう一台を左右の側面に折りたたみで収納出来るようにした。そして、野営や盗賊や魔物に襲撃された場合に備えて、客室の後部座席を前にたたむことで、荷室と後部座席のスペースを臨時の厩舎にすることが出来るようにして、馬の安全も確保出来るようにという欲張り仕様の設計図をもって、建具製作の担当である木工職人の工房に向かった。
複雑で面倒な内容ではあったものの、職人としての血が騒ぐらしく、費用自体はかかると予め脅された上で、快く引き受けてもらえた。
荷馬車が完成したので、馬を買うことにした。アンタレスの街でワインを扱う商会から買い付けていたが、生産量を増やしていくためには、原材料の仕入れ先も多角化していく必要がある。サプライチェーンを一つにまとめることは、ロット数を増やすことで単価を下げる原因にはなるが、同時にその取引先に生殺与奪の権限を握られることになる。
複数の取引先にリスクを分散させることも必要となる。どうせ荷馬車は一台しかないのだから、一度に運べる量もたかが知れている。ワインの産地からワインを仕入れて、行きは蒸留酒やその他の商品を積んで荷台を空にしなければ、荷馬車の運送コストを商品に転嫁出来る。アンタレスの街とワインの産地は帰りに直通にしなければ。荷台はワイン以外に積む余裕がないが、往路はブランデーを積んで別の街に売りに行き、その街でワインの産地に必要なものを買い、ワインの産地ではワインを積むという方法を採ることで、予鈴効率的に荷馬車を利用することが出来る。
荷馬車の護衛にも冒険者の雇用先が生まれることになるが、孤児は学問を学ぶ機会を与えられないので、必然的に冒険者の道に進むものが多い。
冒険者として護衛の依頼を受けるには、第5級以上の等級が必要だけど、修道院の直接雇用であれば、その限りではない。もちろん、冒険者ギルドの護衛依頼が第5級以上とされているのは、対人戦の経験が要求されることの他、貴族や商人の依頼を受けるために、礼儀や教養、そして何より経験が要求されることが理由である。
まあ、護衛の依頼には危険が伴うので、冒険者としての等級がある程度上がらない限りは、孤児上がりの冒険者にもやらせないが。
何にせよ。取扱量も増えたので、修道院で荷馬車を専用するのは、経費的にも有りの選択である。
馬はとりあえず、二頭買うことにした。
二頭引きにすれば、馬の疲労が蓄積しないで済むし、1頭に何かあっても、荷馬車が立ち往生しなくえ済むだけの余力は残しておくべきだ。
僕は、商業ギルドに馬を購入できる牧場を紹介してもらう。
アンタレスの街中にも、騎士用の騎馬であったり、貴族や大商会の馬車から辻馬車、荷馬車に居たるまで、馬の需要はそこそこあるので、馬を取り扱う商会も居るが、なんとなくストレスを抱えていそうかなと思うのと、自然の中をのびのびと走る姿を見て決めたいと思ったこともある。
晩秋ともなると、冒険者の活動は下火になる。ダンジョンはオールシーズンでもそのほかのフィールドの条件が厳しくなるからである。
特に野営をするには厳しい環境となるため、冒険者は春から秋までの間に1年分暮らせるお金を貯めて、冬は静かに過ごすか、どうしても街から街へと移動しなければならない商人の護衛が中心となる。
冬は魔物も活発には活動しないため、山賊や野盗などは、むしろ冬の方が被害が多いとも聞く。
冒険者ギルドとの定期契約は、冒険者の活動が落ち着く冬に一旦終了になったので、まとまった時間が出来るようになった。
ギルドマスターのアルフレッドさんは、来年も依頼したいと言ったが、春になったら街を出るのでと断った。
僕が街を出て行くつもりと言ったことで、飛び上がって、引き留めようとしてきたが、冒険者は、一カ所に縛られないというのが鉄則である。自ら存在理由を否定できないため、最終的にはあきらめてくれた。
なお、もっと往生際が悪かったのが領主であるが、そもそも貴族は嫌いなので、領主に引き留められる言われはない。金を積まれようと断る一択である。
僕は、商業ギルドの紹介状をもって、街の西にあるデ。カーミッツ・ビーの住む草原を越えたところに広がる牧草地帯に目指す牧場はあった。
見渡す限り平原が続いており、山も遠くに見えるだけで、遮る物は何もなく、村も見えないうちに、木で出来た柵が見えてきた。
その向こうに前世でもおなじみの馬が何頭かのんびりと牧草を喰んでいるのが見えてきた。
もうすぐ冬なので、背丈の高い草はもう生えていないが、寒さに強い地面すれすれに生える草はまだ残っているようであった。
僕たちは、そのまま平原の中を地面を踏み固めただけのような道がまっすぐ続くその上をゆっくり歩いていった。こういう時間が欲しかった。こう、大自然の中をのんびりする時間がありがたかった。
ムートの背に乗ればあっという間につく野かも知れないけど、草原を歩く時間なんて、とても貴重だし、何者にも代え難い。少し肌寒いくらいの風が草原を渡り、頬に当たる。
そんな何でもないひとときが何物にも代え難い。
ようやく柵のところまでたどり着くと、道を加工ように両脇に柵が正面の村まで続いている。
人懐こい馬たちが滅多に来ないからなのか、珍しそうに柵の前で、僕たちを出迎えてくれる。
フェンリルやドラゴンなんて恐怖の対象でしかないだろうと思ったが、ギンもムートも敵意を向けていないからか、特に馬たちは気にすることもなく近づいてきた。
どうしよう、すごく可愛い。
馬の大好物であるリンゴを収納の中に結構たくさんもっているけど、人様の馬だから勝手に食べ物を与える訳にはいかない。
柵から首を伸ばして、顔をすり寄せてくる、特に人懐こい馬の頬を撫で、さらに額を撫でると、気持ちよさそうに、澄んだくりくりの目で見つめてくる。うっ、ペットショップでポメラニアンに見つめられて、つい連れて帰りそうになった過去が。
一頭の馬を撫でていると、横から別の馬が首を伸ばして、自分の番だと、撫でられている馬を押しのけようすると、反対側の柵からは、こっちにも居ると僕のことの袖を噛んで引っ張る。
うぅっ、どうしよう、全部可愛い。全部連れて帰りたい。
「どなたかな。」
突然声がした。
馬を撫でるのに夢中だった僕は突然我に返り、声の方を見た。
白いあごひげを蓄えたスイスアルプスの山間の村を舞台にしたアニメに出てきそうなおじいさんが立っていた。
「馬たちが駆け出していくと思って村から出てきてみれば、旅人かの。この村に用とは珍しい。何もない村ですぞ。
「商業ギルドの紹介を頂いて、アンタレスの街から馬を買いに来た者です。」僕はそういってギルドからの紹介状を見せる。
「私が、この村の村長をしているヨーゼフという者ですだ。わざわざ、ようお越しなすった。」
目の前の老人は自分が村長だと紹介してくれた。周りにも何人か村人が居たが、一歩前に出ているのがその老人なので、その通りなのだろう。僕は紹介状をその老人に手渡す。
老人は、手紙を受け取ると、おもむろに開いて、確認する。
封蝋などはないけど、署名をみて、ギルドマスターのものと確認出来たのだろう、軽く頷いてから、顔を上げて僕を見る。
「遠いところをお疲れでしょう。まずは、お茶でも。」
老人はそういって、村の中へと案内する。
簡単な木の柵に囲まれた集落は、一つ一つの家が離れていて、庭とでもいうのか、各家の周りにも柵があり、その中には、にわとりや牛もいた。畜産を主な産業にしている村らしい。
僕はそれを見ながら、「もしかして馬だけでなく、ミルクや卵も手に入りますか。」とヨーゼフさんに尋ねる。
「もちろんですじゃ。アンタレスの街まで売りにいかずに住むのであれば、運送費なしの価格で販売しますぞ。」
ヨーゼフさんは、満面の笑みをたたえて食い気味に答えてくれた。
「商業ギルドの紹介があるので、支払の信用が保障されておりますだ。儂らにとっては良いお客さんに違いないだ。」
「ははっ」初対面の僕に警戒心もなくそういってもらうのは、どこか面はゆい。もちろん、信用を裏切るつもりはないけど。
村長さんの家についた。村の真ん中で、やはり他の家より一回り大きいのは権威を示す意味でもあるのだろうか。
僕はお茶請けにと何気なく出されたそれをみて、興奮した。小麦粉と卵を混ぜて焼いた、ふくらまないホットケーキのような、お焼きのようなものの上に乗っているのは、チーズだった。
そういえば、こっちに来てチーズを見るのは初めてだった。酪農の村にチーズがあっても何の不思議もないけど、それでもチーズがあると、料理のバリエーションは大きく広がる。
「すみません、これチーズですよね。」僕は興奮を抑えきれずに、そう尋ねる。
「ほう、よくご存じですな。」
「このチーズも買えるだけ買います。あと、ミルクと卵も、今売ってもらえるだけ、全部」
「主殿、まずは馬ではないのか。」ギンが呆れたような声で頭の中に直接声を送り込んでくる。
フェンリルが人語を話すことはこの村のような田舎の人にはあまり一般的ではない。声に出して話すことで、無理におびえさせる必要もないということで、こうして頭の中で会話することにしたのだ。ギンもムートもプルンもそんなことが出来るらしい。
「分かっているけど、チーズだよ。美味しい料理がたくさん出来る。」
「なんだと、それは大切だ。主殿、村のチーズとやらは買い占めるぞ。」
「お、おう。」
「ほほ、これは、しかし、この村はミルクやチーズを作っては売ることを生業にしておりますのじゃ。いくらなんでも、お一人の食べる分としては多すぎます。卵もそうですじゃ。腐って無駄にしてしまう人に、売るわけにはいかんのです。それに見たところ、荷馬車もない。今日は馬だけにされてはいかがですかな。」
ヨーゼフさんが、申し訳なさそうに、それでいて、どこか訝しげに話す。
まあ、そうだよね。手ぶらできてどうやって持って帰るんだと思われるよね。
「あ、ご心配はごもっともですが、マジックバッグを持ってまして、それも結構な量が入るものですから、ご心配には及びません。生ものも傷まない特別な効果もありまして。」
僕はそう説明する。本当はこの世界とほぼ同じくらいの容量を持つ別空間にそのまま収納出来るというよく分からない能力だが、そんなものはこの世界で聞いたことがないので、へたに騒ぎの原因を作らないほうがよいので、肩掛け鞄がなぜかマジックバッグということになっている。プルンと井田さんが時々入っているだけだが。
「そ、そうですか。まあ、無駄にしないというのであれば、元々売り物ですし、売らない道理はないんですがの。」ヨーゼフさんはまだ半信半疑だ。
「そろそろ、馬を見せて頂きたいのですが、あと、可能であれば、卵とミルクとチーズも売ってもよいという分だけ集めてください。本当に全部買いますので。なみにそれぞれ単価はいくらですか。」僕は尋ねながら、支払い能力をわかりやすく説明するために、鞄から取り出すフリをして、金貨をひとつかみ出す。約30枚くらいはあるはずだ。
無造作に金貨を掴み、目の前に置いたことで、ヨーゼフさんが固まってしまった。
しまった、やりすぎたか。単価を聞く前にお金を見せたら、値段がこっそり上がってしまうだろうか。でもそんな人には見えないんだよな。
「あぁ、儂は一体どうしたんだ。夢でも見ていたのか。今そこに大量の金貨が積まれた夢を見てしまった。うん、夢に違いない。あ、そ、そうでしたな、馬ですな、こちらにどうぞ。」
なぜか、ヨーゼフさんの中で殺気の出来事はなかったことになったらしい。
僕らは、ヨーゼフさんの後について、外に出る。
先ほど村の外にいた馬は全部村の中に戻ってきたらしい。
それ以外にも、村の中にある厩舎にも馬が居たらしく、全部で20頭くらいは居るのだろう。
うぅ、この中から選ぶとか、僕には難しすぎる。元の世界でも、ペットショップにいる犬たちに目移りしていた僕である。見たらその犬外地番可愛く見える。同じことがこの世界で起こらないはずがない。
案の定、我先にとすり寄ってくる馬の中から、二頭をえら右なんて、出来るはずもなかった。
僕が右往左往していると、ギンが「主殿には難しすぎるのかもしれんの、我が馬の能力を見て上から二頭を選ぼう。」
どれを選んでも後ろ髪引かれそうなので、もうそれでいいかと思い始めたとき、目の端にそれが映った。
「ヨーゼフさん、そこの馬、怪我しているみたいですが。」僕は歩き方がどことなくぎこちない一頭の馬を指さしながら、ヨーゼフさんに伝える。
「ふむ、これは儂も気付かなんだ。もちろん、怪我している馬は売り物から外そう。」
「その馬はどうなるのですか。」
「食用以外に用途はなかろう。」
うっ、聞きたくなかった。もちろん、馬が足を怪我した場合、どちらにしてもかなりの確率で死んでしまうのは知識として知っている。馬のような体の大きな動物は、心臓から血液を送り出す圧力だけでは、全体に血液を巡らせることが出来ない。歩くことで体の末端まで行き渡った血液を心臓に送り返す仕組みになっている。これは程度が違うだけで人間もそうだ。足が第二の心臓と言われるのは決して理由のないことではない。
歩かないと、人間の血液の循環機能にも支障が出てくるのである。まして馬はあの巨体を細い四本の足で支えており、うち一本でも悪くなり、体重を支えるバランスが崩れると、歩けなくなり、血管が循環せずに滞留してしまう。最終的には細胞が壊死し、心臓が停止する。その苦痛は耐え難いものらしく、骨折した馬に安楽死処分がなされるのは、せめて苦痛なく安らかに死なせてあげる温情だという。
けど、その話を聞いてしまって、そうですかという訳にはいかない。
「なら、その馬は、僕が買っていいですか。」
もちろん、手術のためである。さすがに必ず治すと言えない以上、村の財産のままで、試すわけにはいかない。
「あんた、荷馬車用の馬を買いにきたんでないんかね。足を怪我している馬は馬車は引けないぞ。」
「分かってます。ご存じないかもしれないけど、僕は治療師です。僕のいた国では医者っていうんですが、病気や怪我を治す職業なんです。相手は人間なんですが、何度か動物も相手にしたことがあるので、その馬も、もし怪我が治るようなら治してあげたいと思うのです。ですが、他人の物のままで、そんなことをする訳にはいかないから。」
「ふむ。あんたがそれでいいっていうなら、肉にして売っても、解体前に売ってもこちらとしては、同じことだが、本当に治せるものなのかはちーっと興味があるでの。ならば、その馬は、肉と皮の値段で、解体費用が掛からない分値引きして、金貨2枚でどうだ。肉と皮をそれぞれ業者に販売する場合はもう少し値段が下がるんじゃが、肉屋の小売価格よりは低い値段ではある。健康な馬の場合は金貨5枚が相場じゃ。」
「分かりました。それで構いません。それと馬小屋をしばらく貸して下さい。」
僕はそう言って金貨2枚をヨーゼフさんに渡し、左の後ろ足を庇うように歩くその馬の元に駆け寄り、馬の首筋を撫でたあと、頬を両手で挟み込んで、顔をじっと見る。つぶらな瞳が、僕を見つめ返してくる。
「ちょっと痛いと思うけど、我慢してほしい。僕が必ず怪我を治すから。」
従魔でもなければ人語を話す高位の魔物でもない馬に僕の言葉が通じるとは思わないけど、言葉が通じなくても雰囲気はなんとなく伝わるものである。きっと、治したいという気持ちは伝わっていると信じたい。
一旦、馬のセレクションは終了し、僕は怪我している馬を連れて、貸してもらえることになった馬小屋に連れて行く。できあがったばかりの荷馬車を収納から取り出し、馬を荷台に載せて、ギンが引っ張るという方法でだ。
これ以上、馬の足に負担を掛けたくない。
馬小屋に怪我した馬を運び込むと、荷台から慎重におろし、ロープを馬のお腹に通して、天井の梁に引っかけ、吊す。
別に馬の体重を梁で支える訳ではなく、四本の足に均等に体重が掛かり、なおかつ、怪我をしている左後足に負担が掛からないように、体重の一部がロープから梁に伝わるようにして、足の負担を減らすためである。
馬の体重は目測でおよそ500kgくらいだろうか。成人男性7人分くらいである。
そこから局部麻酔の量を推測し、怪我をしている馬の足の患部の上辺りに筋肉注射する。血管の中に麻酔薬が入ると、全身に麻酔が渡ってしまい、麻酔効果が落ちる反面、他の部位が麻痺でもすると、後遺障害につながりかねない。その危険が人間でもそれ以外でも変わらないはずだ。麻酔は個人差が大きいゆえに医療過誤の怒りやすい措置でもある。
僕は朝顔の種から抽出した麻酔成分をエタノールで溶解した自家製麻酔薬を投与する。
自家製麻酔薬、いやな響きだ。こんなに落ち着かないことある?日本だっtらそんなもの製造するだけで手が後ろに回る。
アルテミアス様に頂いた医療鑑定という特殊技能を信じる。医療鑑定は目の前の麻酔薬がリドカインと同じ効果があると言っている。
注射の後、麻酔の効果を見るために、僕は頃合いを見計らって、馬の患部にさわってみる。
電流が走ったような反応をされれば、麻酔が効いていない証拠だが、幸い馬が飛び上がることはなかった。
僕は馬が傷みに悲鳴を上げるのを心を鬼にして耐えながら触診して特定した患部の上から皮膚をメスで切り開く。
病状は、馬の足の屈伸を支える腱が断裂していたことであった。
痛みは断裂した腱が、筋肉の収縮の度に神経に干渉するからであろう。
幸い神経に損傷はないように見える。これなら、切れた腱をつなぐことで回復が見込めるのではないか。
この世界に来てなんど縫合手術を行っただろうか。神経や血管縫合に比べれば筋肉など、もともと筋繊維が切れては、より太く再構築されることで、筋肉が太くなるのであるから、筋繊維が断裂すること自体は怪我とすら呼ばない。せいぜい肉離れと呼ばれる程度のものである。
ところが、腱はもともと太い筋繊維であることと、切れることを予定した繊維ではなく、さらに馬に至ってはその欠損が致命傷になるため、腱の回復よりも死亡が時間的に前に来てしまうのである。
もう何度も積み重ねた縫合を手早く行い。切れた腱の再建を行う。後で抜糸しやすいよう、表皮から通した縫合糸を、神経に干渉しないように腱の切断面を縫合し、再び表皮の上で縫い止める。抜糸するときは、僕はもうアンタレスの街には居ないので、外側から結び目を切って糸を抜く作業は院長先生にお願いすることになる。幸い裁縫の糸と同じ程度の太さであるタラちゃんの糸を使えるので、抜糸も服のサイズ治しで縫い目をほどく作業と変わらないはずだ。
手慣れた手術は3時間くらいで終わる。もちろん、手慣れたといっても馬の手術は初めてであり、何が起こるか分からない。
もう日没までにアンタレスの街に戻るには、ムートで飛んで帰るしかないが、怪我をした馬の経過観察もあるし、何より馬を買いに来たのだから、帰りには馬を何頭かは連れて帰る予定であり、怪我をした馬も、荷馬車用に連れて帰ることになる。
僕たちは、その日の夜は馬小屋に寝泊まりさせて欲しいと頼んだ。
「そんなの滅相もないことですだ。村の客に「そんな粗末なことは出来ないだ。」
ヨーゼフさんは慌ててそんなことできるはずがないと断ろうとする。
「いえ、別に粗末な扱いをしたということではないのです。僕が望んでいるだけなので。馬の治療をしたばかりなので、しばらく様子を見ないと、体調が急変した場合に手遅れにならないように傍にいる必要があるのです。」
僕はあくまでも治療のためだからと、強くお願いする。
僕の強硬な姿勢に村長のヨーゼフさんは、最後に根負けし、了解してくれた。
「一晩とはいえ、馬小屋を占領してしまって申し訳ないです。」僕は頭を下げる。
「いえ、そういうことではなくて、村の客にぞんざいな扱いをして、こちらこそ申し訳ないです。」
なんだろう、この療法で頭を下げ合う感じ、日本人みたいでちょっと懐かしい。
つい笑いそうになってしまい、こらえるのに苦労してしまった。




