虫
虫
歩美は一郎を見ていた。
一郎は朝から電柱のそばにしゃがみ込んで、じっと動かない。
もう二時間ほどになるだろうか。
一度そっと背中越しに、一郎の見ているものを覗いて見た。
そこには犬のフンがあった。
『この子、頭がおかしくなったんだわ!』
やめさせなければ、と思って声をかけようとした時、何かが動くのが見えた。
虫だ。虫が犬のフンに取り付いて一所懸命に何かをしている。
歩美は、もうしばらく一郎を放っておく事にした。
昼ごはんができた頃、一郎が帰ってきた。歩美が話しかけても、ムッツリと黙ってご飯を食べている。
「いっ君、どうしたの?」
「なんでもない・・・」
「だって、元気がないんだもの。心配になるわ」
「後で言う・・・」
「そお・・・」
歩美はそれ以上は何も聞かなかった。
ご飯が終わって、歩美が台所で洗い物をしていると、一郎がもじもじしながら歩美のそばにやって来た。
「お母さん・・・」
「ん、なあに?」
「僕・・虫の図鑑が欲しい・・・」
「えっ!ムシ・・・」歩美はしばらく一郎を見つめていた。そしてゆっくりと微笑んだ。
「いいわよ」
「えっ!いいの?」
「ええ、いいわ。さっきいっ君、犬のフンを見ていたでしょう?」
「うん」
「何かわかった?」
「う〜んと、黒くて長い虫がいたよ、ちょっと蟻に似ている。その虫ね、フンの下に巣を作っていたんだ。それで卵を産み付けてた」
「それをじっと見ていたの?」
「うん」
「そお、大変だったわね。とても根気のいることよ」
「そうかなぁ?全然大変じゃないけど・・・」
「そうね、好きな事なら大変に感じないのかもね」
「でも、あの虫の名前がわからないんだ」
「だから図鑑が欲しいのね」
「そうだよ」
「じゃ、お母さん食事のあとかたずけをするから、それが終わったら本屋さんに行こうね」
「ホント!」
「本当よ」
「絶対?」
「ゼッタイ!」
「わぁーい、やったぁー!バンザーイ!」
歩美は一郎に、本屋で一番立派な図鑑を買ってあげようと思った。