熊先生
熊先生
土曜日の午後、妙心館の神棚の前に、熊さんと二人の小さな弟子が向かい合って座っていた。
熊さんは手差しの稽古着に袴を短く履いた、いつもの格好。
いっ君と洋ちゃんは、歩美の縫った空手着に白帯を締めている。
「おいは剣術が専門じゃが、武術は何が中心というこつはなか、なんでんかんでん教ゆっがそいでよかか?」
熊さんは、稽古を始める前に、二人に訊いた。
「はい!」二人は同時に返事をした。
「なら、始むっど・・・」熊さんは膝の上で手を組んで、目を瞑る。
一郎と洋助も熊さんの真似をする。黙想を始めてから十分ほどが過ぎ二人ともそろそろ足が痺れてきた。
「開目」熊さんの声が聞こえた。「礼!」
「お願いします!」二人は床に手をついて頭を下げる。これから何を教えて貰えるのか、ワクワクしながら熊さんの言葉を待った。
「そんなら、先ず、地面と仲良うならんね」
二人は、訳がわからないまま顔を見合わせる。
「おいの煎餅布団ば持ってきちょるけん、そん上ば転げ回るとよか」
熊さんは、道場の隅に置いてあった布団を真ん中に敷いた。
「ちぃと、狭かばってん、交代でやらんね」
二人は恐る恐る布団の前に立った。一郎が先に前転をした。
「そいでよかたい、二人で何べんもやってみんね」熊さんが言った。
次に洋助が転がった。二人は何度も交互に転がった。
やがて熊さんが言った。「おんなじことばせんで、もっといろんな風に転がってみっとよか」
しばらく二人は、あれこれと転び方を工夫して転がった。
「先生、もう他の転び方を思いつきません」洋助が言った。
「そうね、昔は蓮華畑やら、刈入れの終わった藁の上で転げ回って遊びよったけん、いくらでん転びかたはあったとじゃが。じゃっど、もう転ぶこつは怖くなくなったじゃろ?」
「うん、平気!」一郎が言った。
「なら、外に出よか、バケツに水ば汲んで玄関に置いとかんね、雑巾も忘れんごつな」
二人は風呂場から、バケツと雑巾を持ってきて玄関に置いた。
「先生、これでいい?」一郎が熊さんに訊いた。
「よか、そんならおいについて来んね」熊さんは裸足で玄関から出て行った。
二人は熊さんに習って、黒い土の上に素足を下ろす。
「どげんね、土の上は気持ちがよかろう?」熊さんが裸足でついてきた二人に訊く。
「冷たくて、気持ちいい〜」洋助が言った。
「うん、土って思ったより柔らかいんだね」一郎が驚いている。
「道場の周りは、おいが毎日掃除ばしちょるけん、ガラスや釘は落ちとらん、心配せんでよか」熊さんが笑って言った。「じゃっどん、横に廻っと砂利の敷いてあるもん、ちぃっと痛かぞ」
三人は、道場の東側に廻った。
「痛い!」一郎が叫んだ。
「いてててて!」洋助も顔を顰める。
「あはははは、足の裏はな、いろんなこつば感じるこつがでくったい。靴ば履いとったら分からん」
熊さんは、足の指で砂利を掴むようにして、ゆっくりと歩いた。
道場の裏まで来ると熊さんの小屋があり、また黒い土が現れる。
「良かった、また柔らかくなった。けど、結構凸凹があるんだね」洋助が言う。
「ほんとだ、歩くたびに感触が変わる」一郎も頷く。
「山ん中ば裸足で走り回りよっと、うんと面白かとじゃけど、都会じゃしょんなか・・・」
西に廻ると、また砂利道だ。そうやって三人は、道場の周りを三周回った。
四周目、熊さんの小屋の前で三人は止まる。小さな畑の脇にサルスベリの木があった。
「次は、こん木ば登ってみんね」熊さんがサルスベリを指差して言った。
「えっ!木に登るの?」一郎が驚いて言った。
「学校で禁止されてるよ、危険だからって」洋助も言う
「よか、おいが下で見ちょいもそ、落ちたら受け止めてやっで、安心して登っとよか」熊さんは、木の下に立って二人を見た。
「おいんげの裏山に、柿の木があったたい、柿は折るっけん登っちゃならんち言われとったばっ、こそ〜と登りよった。腹ん減ったら実ばちぎって食べよったたい、美味かったぞぉ!」熊さんが二人を見た。
一郎はごくんと唾を飲み込んだ。「分かった、僕が先に行く」一郎がサルスベリに取り付く。
「うわっ、滑る!登りにくいよ」
「サルスベリの名前の由来たい」熊さんは笑う。
二人は何度も挑戦する。そのうち上手に登れるようになった。
「学校にも、登り棒やら雲梯やらがあろうもん。ひまん時は登っとよか」
「はい。でも先生、こんなことが武術の役に立つの?」洋助が熊さんに訊く。
「質問は禁止たい。頭で理解すっより躰で覚えんね、面白う無かったらいつでん止めてよか」熊さんが言う。
「嫌だ、熊先生みたいになりたいもん!」一郎が言った。
「そっか、ならしばらくは今日の稽古ば繰り返すこつになっど。良かか?」
「分かりました!」二人は元気よく返事をした。
「そんなら今日はこいまでじゃ、足ば洗ろうて道場の掃除じゃ。雑巾掛けばすっど」
「は〜い」三人は、玄関の方へ歩いて行った。
不思議な稽古が終わると、洋助は塾に行くために帰って行った。
一郎は、洋助が帰ると一目散に道場の裏に駆けていく。
『どげんしたとじゃろう?』熊さんは訝しんで、下駄をつっかけていっ君の後を追った。
小屋の前まで来ると、いっ君がサルスベリの木の下で、背中をこちらに向けてしゃがみ込んでいる。熊さんはそっと近づいてみた。
一郎は時々、キャハハと面白そうに笑ったり、ふ〜んと感心したりしている。
熊さんが一郎の背中越しに見てみると、そこには蟻の巣があった。さっき木登りの時に見つけたのであろう、一郎はそこに出入りする蟻を熱心に見ているのである。
熊さんは、そっとその場を離れて、小屋に戻った。
『一郎はしばらく放っとこう・・・』
文机の前に座り、読みかけの本を開く。
熊さんが最近読んでいる本は、武術とは全く関係のない本である。
建築の本であったり、数学者の書いた本、動物学者の書いた本であったりする。
発想はどこから起こるかわからない、狭いジャンルに拘っていては視野が狭くなり、感性は磨かれない。
天狗の言葉を思い出し、最近その事に気がついた熊さんは、区の図書館に行って毎週数冊の本を借りて来る。
今日は、フルート奏者の書いた本を借りて来た。
循環呼吸のことについて書いてある。鼻から息を吸いながら、一方で口から息を吐くというものだ。
この方法でガラス職人がガラスを吹き続けたり、インドのフルート奏者が3時間も低音を吹き続けたりするらしい。
「いつじゃったか師匠が、『空手の名人は三戦の型を一呼吸のうちに終わる』と言いよんなはったが、なんか関係のあっとじゃろか?」熊さんは独り言を呟く。
そんなことを考えながら、熊さんは本の中に埋没して行った。
どれくらい経っただろう、ふと気がつくと外がうっすらと暗くなりかけている。「一郎は、帰ったじゃろか?」
熊さんは小屋の戸を開けて外に出た。するとそこにはいっ君が、さっきと同じ格好のままじっと座っていた。
「一郎、まだおったと、もう晩飯の時間じゃなかね?」熊さんは、驚いて一郎に声を掛けた。
「あ、先生この蟻たち面白いよ!上手にサボっている奴がいる!」いっ君は熊さんの質問が聞こえなかったように言った。
「ふ〜ん、今までそれば見よったとね、根気のあるこったい」熊さんは呆れたように言った。
「いつまで見ていても飽きないよ!」一郎が目を輝かせて言う。
「じゃっど、もう暗うなるけん蟻も見えんごつなっど、今日はもう帰らんね」
「分かった、じゃ先生さようなら」一郎は、手を振って帰って行った。
『面白か子じゃ、ひょっとすっと大化けすっかも知れん・・・』
熊さんは七輪に火をおこし、師匠の為にアジの開きを焼き始めた。