小さき弟子
小さき弟子
「お母さ〜ん、熊先生が弟子にしてくれるって、お母さんの許しを貰ってこいって!」
ある日の昼下がり、一郎が帰ってくるなり歩美に言った。
「そお、良かったわね。お母さんは大賛成よ」
「ありがとう、きっとそう言ってくれると思ってた」
「洋ちゃんは?」歩美は親友の洋助のことを訊いた。
「お父さんがダメだって。そんな暇があるなら、野球のクラブチームに入れって言われるんだって」
「野球?昔の子供達は空き地で勝手にやっていたわよ」
「今は勝手に入っていい空き地なんて無いよ」
「世知辛い世の中になったわね、遊びさえ大人に監視されなきゃならないなんて・・・」
「ふ〜ん、昔は違ったんだね・・・そんなことより熊先生のところに行ってきていい?お母さんに許して貰ったって言ってくる」
「ええ、いいわよ。行ってらっしゃい」
「行ってきま〜す」
一郎は後ろも見ずに飛び出して行った。
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「熊先生!」一郎は、道場の裏手に回り、小さな畑を耕している熊さんを呼んだ。
「早かね〜、もう戻ってきよった」熊さんが呆れて一郎を見た。
「お母さんが良いって、大賛成だって!」
「そりゃよか、話の分かるお袋さんじゃ」
「いつから教えてくれるの?」
「そうたいね、今度の土曜日はどうやろか、午後からなら道場が空いちょる」
「分かった、楽しみだな〜」
「じゃっどん、洋助の親御さんはなんち言わはっとるとね?」
一郎は、自分の事ばかりで、洋助の事をあまり考えていなかったことに気がついた。
「この前、一度お父さんに話してみたんだって、そしたらダメって言われたって」
「そげんね、やっぱりおいが信用されとらんからじゃろね?」
「う〜んと、違うと思う。野球のクラブチームに入れって言われたんだって。塾もあるから時間が足りないって」
「近頃ん子供は忙しかね〜」
「お母さんも言ってたけど、昔は違ったの?」
「じゃっど、おいどんたちゃ学校から戻ったら、カバンばほんなげちから遊びに行きよったたい、まあ、遊びにゃ忙しかったばってん」
「ふ〜ん、今はみんな塾に行ってるよ。あとピアノとかスイミングスクールとか色々」
「一郎は行かんとね?」
「お母さんが、子供は遊べって、それが仕事だって」
「めずらしかお袋さんじゃね。じゃっどん正しか意見たい」
「だけど一人で遊んでもつまんないよ」
「そげんこつはなか、工夫ばすりゃいくらでん面白かこつはあっど」
「どんな事?」
「それば自分で考えんと意味がなかろう、人に聞くこっじゃなか」
「うん、考えてみる。じゃ、また来るね」いっ君は熊さんに手を振って帰って行った。
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洋助は、どうしても弥勒寺での熊さんの姿が忘れられなかった。自分もあんな風に強くなりたい、野球なんかやりたくない。
「なんか良い方法はないかなぁ?」洋助は頭をひねって考えたが、良い方法が浮かばない。「よし、明日学校でいっ君に相談してみよう!」
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「先ず、お母さんを説得してみたら?」一郎が言った。「将を射んとすれば、馬を射よ、って言うじゃない」
「どんな風に?」
「どうしてもやりたいって言うんだよ」
「ダメさ、そんなことでわかってくれるもんか、うちの親、頑固なんだぞ」
「じゃ、なんでも言うことを聞くからって言ってみたら」
「もっと勉強しろって言われるのがオチさ、クラスで一番になれって」
「う〜ん、家出でもしてみたら?」
「そんなことをしたら大変だ。ますます許しちゃくれなくなる」
「困ったなぁ」一郎は頭をかかえた。
「僕に自由はないのかなぁ?」洋助も泣きそうになる。
「黙ってやってみる?」
「熊先生に嘘は通じないよ」
「あ〜八方塞がりだ〜」
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「お前、あの選手を潰してこい」監督の佐藤は、控えの投手にこう耳打ちした。
ツーアウト満塁。3点リードで迎えた9回裏、相手の打者はスラッガーの清原。
一発ホームランが出れば逆転負けだ。
コーチの山田はこう付け加えるのを忘れなかった。「次の試合の先発はお前だ」
「ピッチャー交代、鈴木!」監督が審判に告げる。
鈴木はマウンド上で震えていた。わざとデッドボールを投げなくてはいけない、しかも清原を退場させるには頭を狙うしかないのだ。
しかし監督の命令は絶対だ、鈴木は覚悟を決めた。
振りかぶった腕を思い切り振り下ろす、硬式のボールが手を離れバッターのヘルメットに向け一直線に飛んでゆく。
清原はゆっくりと倒れ、鈴木はマウンドで頭を抱えてうずくまった。
この事が世間で公になったのは偶然だった。たまたまリトルリーグの取材に来ていた地元新聞の記者が、降板後の鈴木の様子がおかしいのに気付いたのだ。
新聞は一斉に監督の責任を追及したが、監督はのらりくらりと言を左右にして逃げた。
それがさらに、火に油をそそぐ結果となり監督とコーチは解任。教育的見地から、スポーツ団体のあり方に注目が集まった。
組織化された集団の中では、勝利至上主義が蔓延し、子供達はその道具に使われているという見方が強くなった。
勿論これは一部のことであって全体では無い、しかし世論は前者に傾いた。
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「お母さん、洋助をリトルリーグのチームに入れようと思っていたけど、どうしたもんかなぁ?」
「お父さん、今そんな事をしたら親戚になんて言われるかわからないわよ」
「それもそうだな」
「今は、礼儀を重んじる武道を習わせたほうが得策じゃない?」
「洋助もあんなにやりたがっているしな」
「無門先生なら、名人だって噂ですよ、私はいいと思いますけど」
「お前がそう言うなら、やらせてみるか」
「そうね、洋助が帰ってきたらそう言ってみます」
両親の多少の誤解は、この際目をつぶろう。熊さんに、二人の可愛い弟子ができたのだから。