誘拐
誘拐
仕事帰り、洒落た建物の前のバス停で、織姫はいつも自分の姿を見ていた。
『鷺山バレエスタジオ』の出窓の中で、一人でバーレッスンをやっている引っ詰め髪の少女は、あの時の自分だ。
この日本が将来どうなって行くのか想像もつかないが、いま現在このような習い事ができる彼女は、間違いなく裕福な家庭のお嬢様である。
彼女に教えてあげたい衝動に駆られる。
『そんなに頑張らなくても良いのよ、努力は尊いけれど、人と競うことに意味は無いのよ』と。
窓の中の少女が織姫を見た。織姫は軽く微笑んで窓際を離れた。
余計なお世話なのだ、あの子はもうそんな事はとっくに知っているのかも知れない。
彼女は私では無いのだ。
いつも、そんなことを考えているとバスが来る。その日も、いつものようにバスを待っていた。
猛スピードで走って来た黒い車が、織姫の前で急停車した。
助手席から降りて来た男に、運転席の男が短く言った。
「上手くやれ!」
助手席の男がスタジオのドアを開けた途端、少女が血相を変えて飛び出して来た。
レオタードにコートを羽織っただけに違いない、白いタイツが寒々しい。
「どこの病院ですか!」
「今から連れて行ってあげるから早く車に乗りなさい!」
助手席から降りた男が後部座席のドアを開けた。
「待ちなさい!」少女が乗り込む寸前に織姫が止めた。
「その子を、どこに連れて行くの!」
「あんた誰だ!」
男を無視して織姫が少女に訊いた。
「あなた、その人たちを知っているの?」
「邪魔をしないで、病院から電話があったの母が交通事故で重体なんです!」
「だから、あんた誰だって訊いてるんだ!」男が織姫の前に立って怒鳴った。
「何をぐずぐずしている!早く乗せろ!」運転席の男が叫んだ。
「煩いわね、あんた達どう見たって怪しいわよ!」
「こ、この子の母親が大怪我をしているんだ。早く行かなきゃ死ぬかも知れないんだぞ!」
「い、いやぁ!」少女が動転して叫んだ。
「なら、私も行く!」
「何を言っているんだ、お前は・・・」
「やましいことがなければいいじゃない、それとも私が怖いの!」
織姫は男と睨み合った。野次馬が集まり始めている。
「チッ、覚えてろ!」
慌てて男が助手席に乗り込むと、運転席の男が車を急発進させた。
黒い車は、あっという間に見えなくなってしまった。
スタジオに戻って晶から事情を訊いていると、母親が慌ててやって来た。
「晶、何があったの!言いなさい!」
「スタジオに病院から電話があったの。鷺山先生が慌てて私に取り次いでくれたわ」
「わ、私、こんなことになるとは思わなくって・・・」鷺山が両手で顔を覆ってオロオロしている。
「迎えを寄越したからすぐに来なさいってドクターが・・・」
「自分で医者だって言ったの?」織姫が訊いた。
「はい」
「晶はそこで信じたのね、あれほど知らない人について行っちゃいけないって言ったのに!」
「だって、お母さんが・・・」
「だってじゃ無い、もしこの方がいなかったら今頃どうなっていたか!」
「お母さん、私はたまたま居合わせただけです。それよりもお嬢さんは本当にお母さんのことが心配だったんじゃ無いでしょうか?」織姫は、少女の母親の態度に無性に腹が立った。
「ああ、これは失礼しました、まだお礼も言っておりませんでしたわね。私、晶の母の野副貴子と申します。娘が危ない所を、本当に有難うございました。でも、この子の不注意は咎められるべきですわ。で無いと、また同じような目に遭ってしまう」
「それはそうかも知れませんが・・・」
「助けていただいた事には感謝をいたします。でも、私の教育方針に口を挟むのはご遠慮下さい」少女の母は、毅然とした態度でそう言った。
織姫は、それ以上何も言えなかった。晶の母親が自分の母親とダブって見えた。
「このお礼は改めてさせて頂きます」警察の事情聴取の後、貴子が言った。
「いえ、お礼なんて必要ありません。それよりも晶さんを責めないでくださいね」
「心に留めておきましょう」
「小さな子供にとって、お母さんは何よりも大切なものですから」
「わかっております・・・では、御機嫌よう」
晶は、母親に連れられて帰って行った。
「あの子可哀想・・・」織姫は独り言を呟いた。
*******
数日後の仕事帰り。織姫がバス停に向かっていると、貴子がスタジオ前に立っていた。
「出窓から、あなたの姿が見えたものですから」そう言って貴子は頭を下げた。
「先日は大変有難うございました」
「いいえ、大したことはしておりません、それよりも晶ちゃん大丈夫でした?」
「大丈夫です、しかし念の為今日から私が付き添うことにしました」
「それは良かった・・あの、レッスンを見学してもよろしいでしょうか?いえ、私も昔バレエを習っていたものですから」
「どうぞ」
貴子は織姫を建物の中へと誘った。
二人はスタジオの隅に置いてある椅子に座って暫くレッスンの様子を眺めていた。
前を向いたまま貴子が言った。
「あなたは子供に『どうして人を殺しちゃいけないの?』と聞かれて、ちゃんと答えることができますか?」
「えっ?」
あまりにも唐突な質問に、織姫は面食らった。貴子は織姫の驚きを無視して続けた。
「子供は、知識と経験不足のただの馬鹿な人間なのです。『純粋な心を持った子供』とはただの幻想に過ぎません。『どうして人を殺しちゃいけないの?』と言う問いには『ならぬものはならぬのです、そんなことは大人になってから考えなさい!』と答えるべきです」
貴子は織姫の方に向き直った。
「晶は躰の弱い子でした、私は晶にはバレエが必要だと判断したのです。宝塚に入れと言ったのも目標を持たせる為でした。自分でものを考えられるようになったら、バレエを続けるかどうかは晶が決めれば良い事です」
「それでは・・・」
「晶は自由です、しかし、その自由を手に入れるには不自由を知らなければならないのです」
「・・・」
「ごめんなさい、余計な事を言いました、気にしないでね」
『このお母さんは賢い』織姫は、晶のレッスンを見ながら、複雑な思いに囚われていた。
「お姉さん、この前はどうも有難うございました」晶がやって来てペコリと頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして。どう、レッスンは楽しい?」
「う〜ん、楽しいかどうかは微妙なところです。でも、今まで出来なかったことが出来るようになるのは嬉しいです」
「そう」
「そうだ、お姉さん、今度家に遊びに来てくれませんか?ね、お母さん、いいでしょ?」
「そうね、改めてお礼もしたいし」
「いえ、そんなご心配はいりません」
「いえ、是非おいでください、心ばかりですがお食事を用意してお待ちしておりますわ」
晶が縋るように織姫を見た。織姫に断る理由は見つからなかった。
「では、お言葉に甘えてお邪魔させて頂きます」
「良かった、楽しみにしています!」晶が目を輝かせて言った。
「またご連絡いたしますわ、都合の良い日を教えてくださいね」
「はい、よろしくお願いいたします」
晶は優雅にお辞儀をして、レッスンに戻って行った。




