ヒロシ
ヒロシ
「ヒロシ、こんな事をして大丈夫か?」バットを持った男が訊いた。
「順子が帰って来なかった、俺の女を取り返すだけだ。何が悪い!」ヒロシが嘯く。
深夜、寺が寝静まった頃、四人の男が山門に立った。
一人は順子を置いて帰った男、他の三人はその仲間である。
「いいか、気をつけるのは熊のような男だけだ。あとは女と子供だ」ヒロシが言った。
「間違いないな?」木刀を持った男が言う。
「ああ、間違いない」
「なんか、ワクワクするなぁ」手にナイフを持った男が薄ら笑いを浮かべた。
四人は境内を突っ切って庫裡の玄関に廻った。
「俺とトシは裏手に廻る、タカとヨシキはここで待機だ。順子が逃げてきたらここで捕まえてくれ」
「まかせとけ!」ナイフを持ったタカが言った。
ヒロシは先に立って裏手に進んで行く、縁側を通り抜け、薪の積んである軒下に出た。
「ウ〜・・・」
「おい、トシ。何か言ったか?」
「いや・・・」
「ウ〜ワン・ワン・ワン・ワン・ワン!」タロウがもの凄い勢いで吠えた。
「うわっ、犬だ!」
ヒロシが逃げようとしてトシとぶつかった。
その時、庫裡の灯りが点いた。「だれ?」女の声が聞こえる。
よく見ると、犬は鎖に繋がれていた。
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遠くで犬が吠えている、熊さんはハッとして飛び起きた。『ただ事じゃなか!』犬の鳴き声からそう判断した。
熊さんは子供達を起こさぬよう、そっと小屋を抜け出し、寺に向かって走った。『嫌な予感がすっ!』
その時庫裡の方で、ガラスの割れる大きな音がした。犬は吠え続けていた。
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「順子を返せ!」ヒロシが叫ぶ。
「誰ですか、あなた方は!」縁側に立って慈栄が誰何した。
その時、玄関の方でガラスの割れる音がした。タカが玄関の戸を蹴破って中に侵入したのだ。
「なんだ、お前たちは!」慈恵の声だ。
「順ちゃん、逃げて!」よっちゃんが叫ぶ。
「順子、こっちへ来い!」ヒロシが叫ぶ。
「やめて、ヒロちゃん!」順子が必死で訴えた。
庫裡の中は騒然となった、慈栄の前にはヒロシとトシが、慈恵とよっちゃん、順子の前にはタカとヨシキが立ち塞がる。
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境内を横切る時、人の声がした。
庫裡に近づくと男の後ろ姿が見えた。
「待たんかっ!」熊さんが叫ぶ。
木刀を持った男が振り向いた。
熊さんは真っ直ぐその男の懐に飛び込み、一本拳を鳩尾に突き立てる。
男が蹲と、熊さんは男の手から木剣を奪った。
「この野郎!」タカがナイフを熊さんに向かって滅茶苦茶に振り回す。
中途半端な武道家にとって、素人の無茶苦茶な攻撃ほど怖いものはない。正しい太刀筋というものが無いからだ。
しかし、熊さんほどの腕になれば、このような攻撃を躱すのは赤子の手を捻るより容易い。
タカは、あっという間にナイフを叩き落とされ、右手を抑えて蹲った。
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「トシ、玄関に行け!」ヒロシが命じる。
「分かった!」トシはバットを構えて玄関に走った。
袴を履いた男の、背中が見える。前にタカが蹲っていた。
トシは無言でバットを振り上げ、男の後頭部へ振り下ろす。
その瞬間、目の前の景色が裏返る。自分の躰が、重量のない風船のように飛んで行くのが分かった。
トシはバットを握ったまま、強かに地面に背を打ち付けた。
息が止まって、立ち上がる事すら出来なかった。
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「貴方は昼間の人ですね?」慈栄が男に尋ねた。
「そうだ、順子を渡せ!」
「それは出来ません、貴方には順子さんを連れて帰る資格が無い」
「なにっ!」ヒロシが一歩前に出た。
「ヒロちゃんやめて!私もう貴方について行けない!」慈栄を庇うように前に出て、順子が言った。
「なぜだっ!」
「本当の自由を手に入れたいから」
「・・・?」ヒロシには順子の言葉の意味が分からなかった。
その時、熊さんが縁側に現れた。ヒロシは慌てて後退った。
「おのれは、今日からしばらく臭か飯ば食って来い!」
熊さんが木刀を突き付けると、ヒロシは跪き、顔を両手で覆って泣き出した。
いつの間にか子供達が、境内の真ん中に立ってこの様子を見ていた。
「熊先生凄いね・・・」洋助が言った。
「うん、天狗さんみたいだった・・・」一郎が呟いた。
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警察が来て四人は連行された。
事情聴取が済んでから、順子は慈栄に言った。
「私、卒業したら実家に帰ります。もう一度両親と一緒に暮らします」
「それが良いでしょう」
「そして、私の気持ちを伝えます。分かって貰えても貰えなくても、そこから再出発です」
「人は、どんなに頑張っても人に頼らず生きて行く事は出来ません。それをわきまえた上で、一人で生きる覚悟をするのです。過去を決して後悔してはいけませんよ」
「はい!」
「『犀の角のように、一人で行け』とお釈迦様は仰いました」
「強くなりなさい・・・」
慈栄は、熊さん達と一緒に帰って行く順子の姿を、山門の前でいつまでも見送っていた。