天狗
天狗
「今日の熊先生凄かったね!」布団を敷きながら洋助が言った。
「あの人全然起き上がれなかった!」
「どうしてあんなことができるの?」一郎が訊いた。
「あれか?あれはな、力ば逃がしてやったとじゃ」
「力を逃すの?」
「そうじゃ。力は力で押さえ込もうとすっと、もっと大きな力で返さるっ。そいじゃけん力は逃してやらんといかんのじゃ」
「どう言う事?」洋助が訊いた。
「おはん達はヨットば知っとるな?」
「うん」
「昔の帆船は追い風でなけりゃ走れんかった。じゃっどんヨットは風に対して斜め前に進むことがでくっ。何でか分かるか?」
「う〜ん・・・」
「分かった、風を逃すからだ!」一郎が答える。
「そうじゃ、なかなか物分かりが良かじゃなかか」
「へへ〜」
「チェッ僕だってもう少しで分かったさ」洋介が膨れた。
「ははは、二人とも賢か!」
熊さんが二人の頭を撫でた。
「囲炉裏に火ば起こさんね。ちいっと寒うなってきた」
「うん、わかった。そこの炭使っていい?」一郎が小屋の隅に置いてある炭を指して言った。
「よか、そん炭ば作った人は、柔術の達人たい。おはんもあやかるとよか」
「へ〜そんなに強いの」洋助が訊く。
「強か、天狗のごたる」
「熊先生より?」
「悔しかけれど、おいより強か」
「熊先生は、天狗に会ったことある?」一郎が訊く。
「あっど、京都の鞍馬山で山籠りばしよった時に会うた」
「わ〜凄い!牛若丸が天狗に剣術を習ったところだよね。その話聞きた〜い!」洋助が目を輝かせて熊さんにねだった。
「よか、じゃっどん先に火ば起こさんね。火ば見ながら語って聞かしゅうたい」
二人は、大急ぎで火を起こす。熊さんに教わった風呂焚きの経験が役に立った。
「自在鉤に鉄瓶ば掛けんね。湯気で小屋がぬくうなるけん」
ようやく、鉄瓶の口から湯気が上がり始めた頃、熊さんはポツリポツリと語り出した。
「あいは十年ばかり前んこつやった、鞍馬の山は桜が満開でな。じゃっどん京都の山はほんなこて寒かった」
「鞍馬山は、昔から修験道の修行する山じゃっで岩場は険しか」
「そん岩場に岩屋があって、おいがそん中で座禅ば組んどったと思わんね」
「うん」二人はこくんと頷いた。
「あれは、三日目の夜じゃった、半眼に閉じた目の前に烏天狗の現れた」
「おいは、瞑想の中に迷い込んだ雑念じゃち思うて無視しちょった」
「そしたらそん烏天狗がこう言いよった。『おぬし、何をしておるのじゃ?』」
「おいは、これは妄想じゃ、返事しちゃならんち思うてまた無視ばした」
「そしたら今度は後ろから声のした。『烏、どうした?』」
「さすがにびっくりして、おいは振り返った。そこにおったのは鼻高天狗じゃった」
『鼻高、この人間が儂を無視するのじゃ』
『何!近頃の人間は素直ではないな。牛若はもっと素直じゃったぞ』
「わいどんはなにもんな?」熊さんは前後を振り返りながら訊いた。
『見れば分かろう、天狗じゃよ』前の烏が言った。
『やっと骨のある人間が来たので、教えてやろうと思って来てやったら無視しおって、無礼であろう!』後ろの鼻高が言う。
「そげん言わはってん、ほんなもんの天狗どんば見たとは初めてじゃけん・・・」
『宜しい、最近の人間は理屈が多いでな。仕方あるまい』
『ところで、おぬしは何をやっておったのじゃ?』烏がまた同じ事を訊いた。
「座禅ばしよったとです」
『そんな事は見ればわかる、何の為にじゃ?』
「集中力ば養う為でごわす」
『集中力? はて、昔の人間はそんな言葉は使わなかったが』
「目の前んこつに、心ば集めるこっでごわす」
『何故そんなことをする?』
「目の前の敵に集中するこっで、遅ればとらんごとすっとです」
『なら、背後の敵は何とする?横は?斜めは?』
「じゃっどん・・・」熊さんは返事に詰まった。
『隙ありじゃ!』背後の鼻高が、いきなり熊さんの頭を殴った。
「イテッ!なんばすっとね?」熊さんが振り向く。
『また隙ありじゃ!』前のカラスが熊さんの頭をポカリとやった。
「わっ!たまらん」熊さんは横に跳んだ。
『無駄じゃ!』そこには別の烏天狗がいた。
熊さんは、反対側に跳んだ。
『遅い!』そこにもまた別の鼻高がいた。天狗は四人に増えていた。
『心を一点に集中するという事は、心が対象にべったりと貼り付いて離れないという事だ』
『それは、他の対象を見ることを放棄するということでもある』
『心を分散せよ』
『心を高速で回せ!』
四人の天狗は口々に言った。
気がつくと天狗は消えていた。
「おや?えらいおとなしかち思うたら、二人とも寝とっじゃなかね」
熊さんは二人を布団に運び、また暫く囲炉裏の火を見つめていた。