熊さん海を渡る
熊さん海を渡る
刀は、ジュラルミンの箱に収められ、空港の警備室で根掘り葉掘り目的を訊かれた。
手荷物検査でXーRayにかけられた時の空港職員の吃驚した顔を思い出す。
搭乗は出発の五分前。座席は右最後尾2列シートの窓側、勿論乗客中最後の搭乗である。
『刀ば飛行機に乗すっとが、こげんか大事じゃとは思わんじゃった』
熊さんはホッと溜息をついた。慣れぬネクタイを緩めながら席に着く。
隣は褐色の肌の外国人、言葉を交わすことも出来ない。
とは言え、これで暫くはゆっくり出来る。
英語と日本語で機内アナウンスがあり、スチュワーデスが安全装備の説明を始めた。
その間に、機は滑走路で離陸体制に入る。
機が加速を始めた、背中がシートに押し付けられる。もう後戻りは出来ない。
熊さんは、覚悟を決めて目を瞑る・・・飛行機は苦手じゃ。
*******
知り合いを訪ねて出雲大社に行く事になった。と言っても島根では無い。
1906年、日本からの移民によって創祀された出雲大社ハワイ分院である。
話は三年前に遡る。熊さんがまだ妙心館の居候になる前、現在の三代分院長天野大也氏が本社の『神在祭』の為一時帰国した時の事だ。
武者修行で島根を訪れていた熊さんは、一ノ谷の弓道場で天野に紹介された。
島根剣道連盟範士八段伊原忠は熊さんの人柄と技量に惚れ込み、道場に食客として招いてくれた。
伊原と天野は、剣と弓の違いはあれ同じ武道家として親交がある。伊原は、久しぶりに帰国した天野に熊さんを伴って会いに来たのであった。
天野は弓を一杯に引き絞って満を持していた。その姿勢にもはや耐え難くなった、と見えた時、親指を包んでいる三本の指が緩み親指が開くと、矢が、ひょう!と弦から放たれた。
弦はぶるんと震え、矢が緩やかな弧を描いて一尺二寸の的の中心に突き立った。
「見事だ!どうだ天野君、ハワイでは弓は引けまい」
「はい、カリヒバレーの曹洞宗の寺に弓道場がありますが遠くてなかなか行けません」
「君も境内に道場を作ったらどうだ?」
「うちの辺りは治安が悪いのです、弓を盗まれたら一大事でしょう。それに境内もそれほど広くはありません」
「難儀な事よのう。まあ、せいぜい日本にいる間に射溜めしておくがいい」
「はい、そうします・・・ところでそちらの方は?」
天野は熊さんの方を向いて伊原に尋ねた。歳は熊さんと同じくらいだろうか。
「おお、そうじゃった。こちらは前田行蔵君と云って儂の道場の食客だ、日本中を武者修行して歩いておる」
「武者修行?それはまた古風な」
「前田行蔵ち云いもす。よろしゅお見知り置きくだっせ」
「ほ、鹿児島の方ですか?」
「枕崎の産にごわす」
「薩摩半島ですな?」
「何もなかとこでごわす」
「ははは、この島根もご同様です」と、天野は気さくに笑った。
熊さんは先程の天野の射について尋ねた。
「見事な射でごわしたが、『放れ(はなれ)』の心は何でごわそ?」
「雨・露・離です」天野は即答した。
雨露離とは、雨露が植物の葉先に凝って自然に落ちる様を云う。転じて、矢が弦を離れる瞬間の状態を指す。
「失礼じゃっど、弦がぶるんと鳴った時、心に動揺が見られもしたが?」
「前田君それは失礼じゃ・・・」慌てて伊原が熊さんを諌めようとした。
「いえ、伊原先生その方の仰る通りです」天野は伊原を手で制して熊さんに訊ねた。
「して、どのような所が見えましたかな?」
「当たりに執着が見えもす」
「では、どうすれば良いとお思いか?」
「おいの手裏剣の師匠が言うておじゃったが。『小児が物と遊ぶように、なんの意図も持たずに、指を離すのじゃ』と」
天野は暫くジッと熊さんを見つめていた。そしてゆっくりと口を開く。
「矢切りをやりませんか?」
「天野君、君の腹立ちは分かる。しかし、矢切りとは穏やかでない!」伊原が天野を止めた。
「いえ、私は腹を立てているわけではありません、寧ろこの方に教えを乞いたいのです」
「しかし・・・」
「勿論、防具と矢先にタンポは付けます」
「防具はよか、動きの妨げになっで。タンポは今のご時世、仕方んなかでっしょ」
二人はすでにやる気になっている。
「う〜む、儂にはもう二人を止める事はできんのか・・・」伊原が力無く呟いた。
*******
天野は射場の中央に立ち、弓に矢を番えた。熊さんは愛用の木太刀を腰に差し、的場の堋の前に静かに立っている。
「参る!」天野は弓力二十三kgの剛弓をキリキリと引き絞った。
天野の親指が弦を離れた瞬間、矢はもの凄い勢いで熊さんに襲い掛かった。時速二百㎞を悠に超えている。
熊さんの腰間から木太刀が疾り、矢は見事に二つに折れて地上に落ちた。
「もう一度!」天野が叫ぶ。
熊さんは元の位置に立ち帯に木太刀を戻す。
びゅん!矢は狙いを過たず、熊さんの正中に向かって飛んで来る。
ビシッ!木太刀も又、正確に矢を叩き落とす。
「もう一度!」
結果は同じだった。
「もう、よかでっしょ」熊さんが言った。
「有難うございました」天野は熊さんに頭を下げた。
「私の負けです」
「こいは勝ち負けではごわはん、射手の腕が確かやけんでけたとです」
*******
三人は出雲大社近くの蕎麦屋で、蕎麦を肴に酒を酌み交わした。
「何処がいけなかったのでしょう?」天野が訊いた。
「おいにゃ弓のこつはわかりもはん」
「しかし、何かお気付きになった事はおありでしょう?」
「儂には、完璧な射に見えたがのう」伊原が首を捻って呟いた。
「おいの師匠は、おいを戸板の前に立たせて手裏剣を打ちもした。おいは怖ぉて一歩も動けんじゃった」
「そんなことを・・・」天野は愕然とした。
「おいは、手裏剣で戸板に縫い付けられてしもうたとです」
「それで?」
「師はこう言うた。『放れを見よ、相手の腕が確かなら正中を外す事は無い。放れが見えた瞬間どちらかに躰を躱せば剣は必ず外れる』と」
「剣とは手裏剣のことじゃな」伊原が言った。
「じゃっど」
「ならば、私の放れが見えたと?」
「じゃっど、じゃっど」
「放れを見えぬよう稽古すればあなたに勝てますか?」
「放れば忘るっこっです。意識すればすっほど放れは見え易うなっで・・・」
別れ際、天野は熊さんの連絡先を聞き、熊さんは実家の住所を天野に教えた。
「必ずまたお会いしましょう。それまでお元気で!」
天野は晴れ晴れとした顔で、出雲大社の大鳥居を潜って去って行った。
それから三年、何の音信も無かったのだが、つい一月程前実家に手紙が届いた。
手紙にはハワイ出雲大社の秋の大祭で、もう一度矢切り勝負をお願いしたいと書かれおり、ハワイまでの往復航空券が添えられていた。
*******
それで、今日である。
『飛行機が飛んだからにゃ、七時間もうなんもすっこた無か・・・』
そう思い定めて、熊さんは目を瞑ったのであった。
ホノルル空港に着いたのは、現地時間の朝の七時だった。
刀を受け取り、緊張の入国審査を済ませた。
日本と違ってここは大らかだ、刀を見ても目くじら立てる検査官は居ない。
朝早い所為か、まだそれほど気温は上がっておらず、乾いた風が心地良い。
到着ロビーに出ると今まで嗅いだ事の無い香草の匂いが鼻を突いた。
熊さんのイメージでは、ここで腰蓑をつけた現地の若い女性がレイを首に掛け頬にキスをしてくれる筈だった。しかし、現実はそうはならず、緊張した熊さんはホッと肩の力を抜いた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
後ろから声を掛けてきたのは、アロハを着た天野だった。右手を差し伸べて握手をする。
「こちらでは、これが正装なのです」熊さんの背広姿を見て天野が言った。
「おいは初めて外国に来もんで、貴国に敬意ば表する為にこげな堅苦しか格好ばしちょりもす」
「今は、そのような方はいませんよ・・・全く前田さんらしい」
「あい済まんこってす」
「そんな事はありません!その気持ちを大切にして下さい」
白のホンダ・アコードで空港を出た。当然ながら左ハンドル、そんな事さえ熊さんには新鮮な驚きだった。
「先ずは、私のマンションに行きます。その一室をあなたに提供しますので御自由にお使い下さい」
「神社にお住まいではなかとですか?」
「神社のあるアアラレーンは、ハワイで最も治安の悪いチャイナタウンの隣にあります。夕方五時に戸締りをしたら後は無人です。尤も神様がおられますので、セキュリティーは万全ですが」
天野はそう言って快活に笑った。熊さんは、やっぱり此処は外国なのだと強く思った。
天野のマンションで、いつもの刺し子の稽古着に着替えた熊さんは、神社まで天野と連れ立って歩いた。ファンキーな若者が其処此処で屯ろしている。
「Oh!サムライ!」東洋系の若者が声を掛けてくる。
「ヤン!この人は私のゲストだ、手を出すんじゃないぞ!」
「ワカッタヨ、ミスタアマノ。チョットカラカッタダケダ」
天野は言った。「ハワイは平和な観光地に見えるがそうではありません。裏社会には日本のヤクザや各国のストリート・ギャング、マフィア達が鎬を削っています。十分に気をつけてください」
「分かりもした。気をつけもす」
ここで生きるのは大変な事なのだろうなと熊さんは思った。
「ここです」川沿いにしばらく歩いたところで立ち止まり、天野が言った。
「ここでごわすか・・・」
日本の出雲大社とは比べ物にならない程小さな神社がそこにあった。真っ青な空に白い鳥居が眩しい。
「小さいが、ここの御守りは霊験あらたかなのですよ。日本の本社と此処で二度のお祓いをされています、ダブル効果ですな」わはははは、と天野は笑った。
鳥居を潜ると、左側に手水舎があった。小型の鳩が一羽、水を飲んでいる。
柄杓に水を汲んで身を清め、拝殿に向かう。
本殿の両脇には狛犬が立っているが、ハワイらしく花のレイが首に掛けてあった。
正面の階段を登って拝殿の前に立った。立派な大注連縄が架かっている。
「先ずはご参拝下さい。二礼二拍手一礼が一般的な作法ですが、出雲大社では二礼四拍手一礼が作法です」
天野の言葉に従って、熊さんは参拝を済ませた。
「宮司、お早う御座います!」
社務所に行くと神職姿の若者が声を掛けてきた。
「おはよう小林君。開門の準備は出来たかね?」
「勿論です。手水舎のペーパータオルも補充しておきました」
「うむ」
「オハヨゴザイマス、アマノサン。キョモイイオテンキデオメデトゴザイマス」
「ナオミ、天野さんじゃないよ宮司と呼べ。それにその日本語おかしいぞ!」
「小林君そう言うな。ナオミも一所懸命なんだよ」天野が笑って小林を諌める。
「ソウヨ、アマノサンヤサシヒト、タツヤイジワル」ナオミは小林に向けて舌を出してみせた。
巫女姿の女の子はどう見ても日本人だが、言葉が変だ。
「今日は、お客様をお連れした。今度の秋祭りでは日本の武術の真髄を見せて頂く」
「前田行蔵っちいいもす」熊さんは二人に挨拶をした。
「この二人はハワイ大学の学生で、神職のアシスタントをお願いしています」
「小林竜也です、日本からの留学生です」
「ワタシ、ナオミ・キリヤマイイマス。ニッケイヨンセイネ」
「宜しゅお頼み申しもす」
ナオミが首を捻って天野を見た。
「コノヒトモニッケイカ?ニホンゴヘンヨ」
「わははは!カゴンマは日本の異境じゃっで、そげん聞ゆっとも仕方んなか」
「前田さん失礼した。この世代になると親も日本語はカタコトしか喋れんのだ」
「大事んなか、正直なおごじょは好もしか」
「前田さん、ぜひ見て頂きたい物がある」天野が改まった口調で言った。
「なんでごわす?」
「説明するより見てもらった方が早いでしょう」
天野は社務所の裏に熊さんを誘った。二本の椰子の樹の下にそれはあった。
「これです」
「ほう、これはまた・・・」
小さいけれど立派な弓道場だ。
「貴方との矢切り勝負の後、思うところあって造りました。暇さえあればここで弓を引いています」
「そうでごわしたか」
「それなりに自信もつき、貴方ともう一度勝負をする決心がつきました」
「何度でん言うが、矢切りは勝ち負けではごわはん」
「そうでしたな、あの時も貴方はそう仰った。しかしハワイの人達に武の真髄を見せるにはこれしか無いと思い定めたのです、ぜひもう一度・・・」
天野は熊さんに頭を下げた。
「そいは、わかっちょいもす。そんつもりでここまでやって来たとじゃけん」
「かたじけない、恩にきます」
「さ、もう頭を上げてくやい。そげんさるっと身の置き所んなか」
天野はホッとした表情で顔を上げた。
「では、ハワイをご案内致しましょう。秋祭りは三日後です」
天野は何事か小林に指示を出して、熊さんを促して歩き出した。